裏庭の買収
時:1929年(昭和四年)、11月下旬
場所:ニューヨーク、ウォール街55番地。ナショナル・シティ・バンク(NCB)本店
かつて「神殿」と呼ばれたその壮麗な石造りの建物は、いまや巨大な霊廟のようだった。
ロビーには預金の引き出しを求める群衆が殺到し、怒号と悲鳴が反響している。だが、頭取室のある上層階は、死のような静寂に包まれていた。
「銀行王」と呼ばれた男、チャールズ・ミッチェル頭取は、マホガニーの執務机の上で頭を抱えていた。彼の目の前には、真っ赤なインクで染まったバランスシートと、南米支店から届いた電報の山が散乱している。
『ペルー政府、債務不履行を示唆』
『チリ硝石相場、大暴落。鉱山会社、利払い停止』
『ブラジル、コーヒー価格暴落により外貨枯渇』
「……終わりだ」
ミッチェルは呻いた。
NCBは今、債務超過による破綻まで、あと数ミリのところにいた。
「……ミスター・ミッチェル」
秘書が、恐る恐る声をかけた。
「お客様です。……アポイントはありませんが、どうしてもとおっしゃって」
「帰せ! 誰だろうと会わん!」
「ですが……その、日本の方で……」
ミッチェルは顔を上げた。
日本。今、ウォール街で唯一、現ナマ(キャッシュ)を持っている連中。
「……通せ。丁重にな」
現れたのは、海軍の軍服を着た東郷一成だった。
その背後には、副官の伊藤整一が重そうな革のアタッシュケースを持ち、護衛の橘小百合が言葉もなく後方に控えている。
「……東郷大佐。我が行になんのご用ですかな。まさか、口座の解約ではありますまいな」
ミッチェルは虚勢を張ったが、声の震えは隠せなかった。もし日本海軍が預金を全額引き上げれば、NCBは今日中に潰れる。
「解約ではありません」
東郷は、ゆったりと革張りの椅子に腰を下ろした。
「今日は、買い物に来ました」
「買い物?」
「ええ。貴行が抱えている“不良在庫”を、引き取りに参りました」
東郷は、伊藤に目配せをした。伊藤がアタッシュケースから取り出したのは、南米諸国の債券リストだった。
「ペルー、チリ、ボリビア、そしてブラジル……。貴行が抱え込み、今や時限爆弾となっているこれらの南米債券およびインフラ企業の株式。
……総額で、額面約50億ドル相当とお見受けする」
ミッチェルは息を呑んだ。図星だった。
「……それを、どうしようと言うのです」
「全て、私が買い取ります」
東郷は、こともなげに言った。
「馬鹿な! あれはもう紙くずだ! デフォルト寸前なんだぞ!」
「知っています。だからこそ、私が買うのです」
東郷は、指を三本立てた。
「買い取り価格は、額面の30%。……15億ドルです」
15億ドル。
それは、NCBが抱える巨額の損失を一気に埋め合わせ、破綻を回避できるギリギリの金額だった。
だが、ミッチェルは銀行家としての本能で首を振った。
「……30%? 確かに今の市場価格よりは高いが、それでも大損だ。それに、あんたが持っているのは『ドル』だろう? 今のFRBの規制下では、ドルを受け取っても……」
「いいえ」
東郷は、静かに遮った。
「私が支払うのは、ドルではありません」
彼は胸ポケットから一枚の書類を取り出し、デスクの上に滑らせた。
それは、ニューヨーク連邦準備銀行が発行した「預り証」だった。
「……私が支払うのは『金』です」
ミッチェルはその書類を凝視し、そして絶句した。
『Gold Bullion / Earmarked for Imperial Japanese Navy』
(金地金 / 日本帝国海軍・耳標付き)
数量、7億5000万ドル相当。
そして残りの7億5000万ドル分は、高格付けの長期債と現金のミックス。
「……き、金……だと……?」
「そうです。私が先日まで、市場から吸い上げたドルをNY連銀の地下で金に換えた分です。
この金の『所有権』を、貴行に移転します」
東郷は微笑んだ。
「ミスター・ミッチェル。今、貴行が喉から手が出るほど欲しいのは、不良債権の処理と、そして何より『正貨準備』ではありませんか?
金があれば、FRBから怒られることもない。金があれば、それを担保に信用のレバレッジを効かせ、貸し出しを再開できる。
……この7億5000万ドルの金塊は、貴行にとってただの資産ではない。死にかけた心臓を再び動かすための、極上の輸血ですよ」
ミッチェルの手が、書類の上で震えていた。
東郷の言う通りだった。
日本海軍が「イヤーマーキング」で凍結していた金を、NCBというアメリカの民間銀行に譲渡する。
それはつまり、NY連銀の地下にある金塊のラベルが、「日本」から「NCB」に張り替えられることを意味する。
金が、アメリカの銀行システムに戻ってくるのだ。
これならFRBも文句は言わない。準備率も改善する。NCBは救われる。
だが、その代償は?
「……東郷大佐。あんたは我々を救うために、虎の子の金を吐き出すというのか? 何のために?」
「勘違いしないでいただきたい」
東郷は冷ややかに言った。
「これは救済ではありません。……『配置転換』です」
彼は、壁の世界地図――アメリカ大陸の南半分を指さした。
「アメリカは『モンロー主義』を掲げ、南米を自らの裏庭として囲い込んできた。
しかし今、貴国はその裏庭の面倒を見きれず、放置して腐らせようとしている。
だから、私が代わりに管理人になろうと言うのです」
東郷は、契約書をトントンと揃えた。
「貴行は金を得て生き延びる。
私は、南米の鉱山、鉄道、港湾の権利(債券・株)を手に入れる。
……南米の資源は、我が国の産業にとって喉から手が出るほど欲しいものですからな。チリの銅、ペルーの銀、ブラジルの鉄。
貴方がたが『紙くず』と呼ぶそれらは、我々にとっては『宝の山』の引換券なのです」
ミッチェルは、唇を噛み締めた。
これは、アメリカの覇権の切り売りだ。
借金(デフォルト債)のカタに、裏庭(南米)の支配権を日本に譲り渡す行為だ。
国務省が知れば発狂するだろう。
だが。
目の前の「金」の輝きには、抗えなかった。
銀行が潰れれば、覇権も何もない。
「……分かった」
ミッチェルは、万年筆を取った。
「……売ろう。南米の全ポートフォリオを、日本海軍に譲渡する」
サインがなされた瞬間。
歴史上最大の「裏庭の売買」が成立した。
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場所:ニューヨーク、マンハッタン・バッテリーパーク
ナショナル・シティ・バンク(NCB)本店での歴史的な調印を終えた東郷一成は、副官の伊藤整一と共に、ニューヨーク港を見下ろすバッテリーパークを歩いていた。
海から吹き付ける風は、剃刀のように冷たかった。自由の女神像が、冬の低い雲の下でくすんだ緑色に沈んでいる。かつては希望の象徴だったその像も、大暴落の余波で職を失い、公園のベンチで肩を寄せ合う浮浪者たちの前では、ただの虚しい銅像に過ぎなかった。
隣を歩く伊藤が、興奮冷めやらぬ様子で尋ねた。
「大佐。……本当によろしかったのですか? せっかく集めた金の大半を、アメリカの銀行に戻してしまって」
「構わんよ、伊藤君」
東郷は、足取り軽く歩き出した。
「考えてもみたまえ。あの金はNY連銀の地下にある。物理的に日本へ持ち帰ることなど、アメリカ海軍がそれを黙って見逃すはずもない。所詮は帳簿上の数字、地下に眠る『死んだ金属』に過ぎんのだよ。
ならばそれを死蔵させてアメリカ経済を窒息死させるより、こうして『恩』と『実利』に変えて循環させる方が、よほど建設的だ」
東郷は、懐の契約書を叩いた。
「我々は金という『死んだ金属』を手放し、代わりに南米の資源という『生きた富』を手に入れた」
彼は、ニヤリと笑った。
「我々が注入した金は、NCBを通じてアメリカ市場に流れ込み、少しだけ息を吹き込ませるだろう。
そうすれば、我々が持っている米国株(GEやUSスチールなど)の価値も守られる」
東郷は、マンハッタンの南の方角――南米大陸のある方角を見た。
「さあ、忙しくなるぞ。
次は南米だ。デフォルト寸前の国々に、我々の『制度債』を持ち込む。
『アメリカのドルは頼りにならないが、日本の制度債なら、貴国の大地が生む資源を正当に評価しますよ』とな」
アメリカが捨てた裏庭で、日本海軍の「制度」が新たな花を咲かせようとしていた。
それはモンロー主義の終焉であり、環太平洋経済圏という新しい怪物の誕生でもあった。
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