南米資源救済任務
時:1929年(昭和四年)、11月中旬
場所:東京・霞が関、海軍省・軍務局長室
その部屋には、奇妙な熱気が充満していた。
大蔵大臣・高橋是清と、海軍軍務局長・堀悌吉。そして、陸軍省軍事課長の永田鉄山。
日本の国家戦略を担う三人の巨頭が、一枚の極秘電文を囲んでいた。
発信者は、ワシントンの東郷一成。
『……米国市場ヨリ吸収シタ巨額ノ資金ニヨリ、我ガ方舟(長期債制度)ノ積載限界ニ接近ス。国内ノ納税代行ノミデハ、コノ莫大ナ信用ヲ裏付ケル「任務」ガ不足スル恐レアリ……』
「……贅沢な悩みだこと」
是清は、呆れたように苦笑した。
「金がなさすぎて困るのが世の常だというのに、東郷の奴は『金がありすぎて困る』と泣きついてきおったわ」
堀が、冷静に解説を加えた。
「笑い事ではありません、大臣。制度債の根幹は『任務の遂行』です。海軍が何か国益になる仕事(任務)をしたからこそ、その対価として信用が生まれる。
しかし今回、アメリカ人たちがパニックで長期債を買いすぎたため、我々の手元には50億ドルもの現金が積み上がってしまった。これに見合うだけの『仕事』を海軍がしなければ、制度債はただのインフレ紙幣、詐欺になってしまいます」
要するに、日本海軍は今、猛烈な勢いで「金を使う(=任務をこなす)」必要に迫られていたのだ。
だが、国内の納税代行やインフラ整備だけでは、50億ドル(日本の国家予算の数倍)など到底使いきれない。
「そこで、東郷からの提案です」
堀は、世界地図を広げた。指先が、北米から南へ――ラテンアメリカへと滑る。
「『南米資源救済任務』。
現在、アメリカ発のデフレにより、チリの銅、ペルーの亜鉛、ボリビアの錫……これらの資源価格が暴落し、米国資本(NCBなど)が投げ売りを始めています。
これを、我々が吸い上げたドルを使って、二束三文で買い叩くのです」
高橋是清は、もはや呆れを通り越して、孫の悪戯を愛でる好々爺のような顔をしていた。
「……東郷の奴、えげつないのう」
是清は、電文の一節を指でなぞった。
『……米国ノ大手銀行ハ、南米向ケ融資ノ焦ゲ付キニヨリ、深刻ナ流動性危機ニ瀕ス。彼ラハ現金ヲ得ルタメナラ、悪魔ニデモ魂ヲ売ルデアラウ。……好機ナリ』
「つまりこうか」是清は言った。
「アメリカから吸い上げたドルを使って、アメリカの銀行が抱え込んで死にそうになっている南米の債権(資源利権)を、二束三文で買い叩いてやれ、と」
「左様です」
永田は、不満げに口を歪めていた。
「……堀局長。納税代行で味をしめたか知らんが、今度は南米だと?
日本から地球の裏側だぞ。そんなところの紙屑債権を買い漁って、何になる。
そのドルがあるなら、満州の鉄道に使わせろ」
堀は、静かに首を横に振った。
「永田君。満州は大事だ。だが、今の満州は『円』と『銀』の世界だ。我々がアメリカから吸い上げた大量の『ドル』を消化する場所ではない。
このドルは、アメリカの裏庭でこそ、最強の武器になる」
堀は、是清に向き直った。その目は、老財政家の古傷を正確に見据えていた。
「……高橋閣下。
この計画の主要ターゲットの一つは、ペルーであります」
是清の眉が、ピクリと動いた。
「ペルー政府は現在、アメリカのNCBなどからの過剰な債務と、一次産品価格の暴落により、国家破綻の寸前です。
そこで我々は、NCBが持つペルー国債および鉱山開発債権を、ドルで買い取ります。
そしてペルー政府に対し、こう申し入れます。
『借金の棒引きはしない。だが、返済はドルでなくていい。貴国の鉱山から出る銀や銅、亜鉛での現物払いを認める』と」
是清は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳の奥に、40年前の苦い記憶が蘇っていた。
明治22年(1889年)。若き日の高橋是清は、一攫千金を夢見てペルーの廃銀山に投資した。
だがそれは、現地の詐欺師とずさんな調査によって仕組まれた罠だった。
銀山はただの岩山で、是清は全財産を失い、あまつさえ「詐欺師の片棒を担いだ」と日本で訴訟まで起こされた。
彼の人生最大の汚点。そして、最大の屈辱。
「……ペルーの、鉱山か」
是清の声は、低くしゃがれていた。
「あそこには、何もなかった。……私の青春も、財産も、全てあのアンデスの岩肌に吸い込まれたわい」
「いいえ、閣下」
堀は、一枚の地質調査書を差し出した。それは、最新の技術で調査された、ペルーの埋蔵資源マップだった。
「40年前は、技術がありませんでした。そして、運もなかった。
しかし今は違います。我々には何より、アメリカを干上がらせるほどの『資金力』がある」
堀は、身を乗り出した。
「閣下。東郷からの伝言です。
『かつて日本の先人が涙を飲んだあの土地を、今度は日本海軍が丸ごと買い取ります。
詐欺師に騙された過去を、国家の資源戦略という形で、黄金の未来に書き換えていただきましょう』と」
是清は、調査書を握りしめた。
老いた体の中に、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
それは復讐心ではない。
かつて「無能な山師」と嘲笑された自分が、今、国家の財政を預かる身として、あの因縁の地を日本の国益のために平らげる。
これ以上の「雪辱」があるだろうか。
「……ふ、ふふふ。ふふふふ、ふふふっふ」
是清の口から、乾いた笑いが漏れた。やがてそれは、腹の底からの哄笑に変わった。
「愉快だ! 実に愉快だ!
東郷の小僧め、私の古傷まで『任務』のネタにする気か!あの山には本当に銀があったのかもしれん、という私の未練すら利用する気か!
いいだろう、死ぬ前にもう一度、夢を見させてもらおうか。堀君! やりたまえ!
アメリカの銀行家どもが手放した債権を、二束三文で拾い集めろ!
ペルーも、チリも、全部だ!
これは、大蔵省としても全力で支援する『国策』である!」
永田鉄山は、呆気にとられていた。
あの海千山千の高橋是清が、まるで少年のように目を輝かせている。
海軍はカネだけでなく、人の「情念」すらも計算に入れて動いているのか。
「……分かりました、高橋閣下」
永田は、不承不承ながら頷いた。
「ですが、条件があります。
南米から入ってくる資源――特にチリの硝石(火薬の原料)と、ボリビアの錫、ブラジルの鉄鉱石。
これらは、陸軍の軍需物資として優先的に割り当てていただきたい。
……それから、もう一つ。ペルーやブラジルには、食い詰めて海を渡った同胞(日系移民)が多数いるはずだ。彼らの保護も、この“任務”に含めてもらおうか。さもないと、陸軍内部の石頭(皇道派)どもが『国体云々』と騒ぎ出すのでな」
「もちろんです」
堀は涼しい顔で答えた。
「“国家の任務”ですから」
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