ナショナル・シティ・バンク
時:1929年11月初旬
場所:ニューヨーク、ウォール街55番地 ナショナル・シティ・バンク(NCB)本店・会長室
その部屋はかつて「世界で最も攻撃的な銀行」の心臓部と呼ばれ、ラテンアメリカの独裁者たちが跪いて借款を乞うた「ドル外交」の玉座であった。
だが今、そこに漂っているのは、南国の腐った果実のような甘ったるい死臭と、高価な葉巻でも消しきれない焦燥の匂いだけだった。
かつて「アメリカ金融界のナポレオン」と呼ばれ、強気な拡大路線でNCBを全米最大の銀行へと押し上げた男、チャーリー・ミッチェル会長は、マホガニーの重厚なデスクに突っ伏していた。
彼の手元には、ハバナ、サンティアゴ、リマ、リオデジャネイロといった南米の主要都市から届いたテレックスが、雪崩のように積み上がっている。
その内容は、判で押したように同じだった。言語はスペイン語だが、意味するところは万国共通の絶望だ。
『ドル不足ニヨリ、利払イ不能』
「……なぜだ」
ミッチェルは、掠れた声で呻いた。充血した目は、窓の外の景色を睨みつけている。
「先週、日本海軍が買い支えてくれたはずだ。GEもUSスチールも値を戻した。市場は生き残ったはずだ。……なのに、なぜ南の国々だけが、バタバタと死んでいく?」
窓の外では、日本海軍の「サムライ・プット」によって奇跡的に蘇生した株式市場が、安堵の息をついている。
皮肉なことに、彼の銀行(NCB)自体は、今やウォール街で「勝ち組」と見なされていた。
なぜなら、ミッチェルは東郷一成の仕掛けた「サムライ・プット」と「長期債」の波にいち早く乗り、手元の現金の多くを日本海軍の保証する安全資産へと避難させていたからだ。
バランスシートの左側(資産の部)には、輝かしい「NCPC長期債」が積み上がり、その含み益は銀行の自己資本を盤石にしているように見えた。
だが、問題はもう片側――彼らが1920年代を通じて世界中にばら撒いてきた「貸付金」の方にあった。
「……金が、ない」
ミッチェルは、震える手で金庫の出納帳をめくった。
「帳簿上の資産はある。NCPC債もある。だが、決済に使うための『ドル』そのものが、どこにもないのだ!」
傍らに立つ融資担当担当役員・パーキンスが、まるで処刑台に向かう囚人のような青ざめた顔で答えた。
「……流動性の蒸発です、会長。
日本海軍が発行した『長期債』。あれが、市場にあった余剰資金を、文字通り血液ポンプのように吸い上げてしまいました」
パーキンスは、手元のメモを読み上げた。その数字は、金融のプロである彼らにとって、致命傷にも等しい衝撃を持っていた。
「推計で50億ドル……。わずか数週間で、我が国のマネーサプライ(M2)の約10%以上が、日本大使館の地下金庫で凍結されました。
人間に例えれば、全身の血液の十分の一を突然抜かれたようなものです。これでは末端の毛細血管まで血が巡るはずがありません」
パーキンスは、さらに絶望的な報告を続けた。
「加えて、FRBが金流出を恐れて公定歩合を6%に引き上げました。
このダブルパンチ――『量の枯渇』と『金利の高騰』で、短期金融市場(コール市場)は完全に干上がっています。銀行間取引市場ですら、翌日物のドルを調達することが困難な状況です。……誰も、ドルを貸してくれません」
「だからどうした!」ミッチェルは怒鳴った。
「国内がダメなら、海外から回収しろ! 我々には南米があるだろう! キューバの砂糖プランテーション、チリの銅山、ペルーの鉄道! あの黄金のポートフォリオから資金を戻させるんだ! 彼らに貸した金を、今すぐドルで返済させろ!」
役員は、首を横に振った。その目には涙が浮かんでいた。
「……それが、できないのです」
彼は一枚の電報を差し出した。今朝届いた、チリのサンティアゴ支店からの緊急電だった。
『チリ政府、デフォルト(債務不履行)ヲ宣言。銅価格ノ暴落ニヨリ、外貨準備枯渇。利払イ不能』
「……銅価格の、暴落?」
ミッチェルは、はっとした。
「まさか、あの雲南の……」
「はい。東郷大佐が進めている『雲南銅開発』の噂と、株価の大暴落に伴う世界的なデフレ懸念で、銅相場は先月から半値になっています。
それに加えて、砂糖も、硝石も、コーヒーも……全てのコモディティ(商品)価格が垂直落下しています」
役員は、残酷なメカニズムを解説した。
「連鎖反応です、会長。
日本がドルを吸い上げ(マネー収縮)、FRBが利上げをした(引き締め)。
この強烈な『東郷デフレ』によって、ドルの価値が相対的に跳ね上がりました。結果、ドル建てで取引される商品の価格は暴落します。
南米諸国は、輸出品を売っても、以前の半分以下のドルしか手に入りません。
一方で、借金はドル建てです。返済負担は実質的に倍増しました。
以前なら、ニューヨーク市場で新しい債券を発行して、古い借金を返す『借り換え(リファイナンス)』ができましたが……今の金利6%では、誰も新興国の債券など買いません」
――チリ北部、アタカマの露天掘り。
白い粉塵の風の中で、鉱山の巨大な掘削機が、まるで息を止めた獣のように動きを止めていた。積み上がった銅鉱石の山には、すでに買い手の札が付かない。
監督官が握り潰した電報には、ニューヨークからのたった一行が打たれていた。
『本日ヨリ、ドル建て決済停止。出荷見合わせ』
港では、荷役夫たちがクレーンの下に座り込み、煙草の火だけが赤く点っていた。彼らの背後で、積み出しを待つ貨車の列が、雨に濡れて錆びていく。
ミッチェルは、椅子に崩れ落ちた。
南米諸国は、借金を返すためのドルを作る手段(輸出)も、借りる手段(金融)も、同時に失ったのだ。
ナショナル・シティ・バンクは、南米の独裁政権に巨額の融資を行い、その利権を貪ってきた。そのビジネスモデルは、「常にニューヨークから安いドルを供給し続ける」というポンプ機能が前提だった。
そのパイプが、東郷一成という男によって断ち切られたのだ。
日本がドルを吸い上げ、FRBが蛇口を閉めた。
その瞬間、南米という巨大な肺は酸素を失い、窒息死した。
「……担保は? 鉱山の権利書や、鉄道の抵当権があるだろう! それを売れば……」
ミッチェルは最後の望みを口にした。
「誰に売るのですか?」
役員は、窓の外、ウォール街のビル群を指さした。
「見てください。どこの銀行も、どこの投資家も、手元のドルを守るのに必死です。あるいは、なけなしのドルを日本海軍の『長期債』に変えてしまっています。
今、この市場で、焦げ付いた南米の銅山や鉄道を買い取れるだけの『現金』を持っているプレイヤーなど、どこにもいません」
南米の宝の山が、ただの不良債権の山と化した。
これを時価評価してバランスシートに計上すれば、ナショナル・シティ・バンクは即死する。輝かしいNCPC債の含み益など、一瞬で吹き飛ぶほどの巨額損失だ。
沈黙が、部屋を支配した。
遠くで船の汽笛が聞こえる。それは、かつてアメリカの繁栄を運んできた船の音ではなく、難破船の救難信号のように聞こえた。
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