人間の輸入
時:1929年11月中旬
場所:デトロイト、自動車部品工場
その日、工場長のマイケルは、全従業員を食堂に集めていた。
彼の顔は土気色だった。手には、銀行からの通達書が握られている。
「……すまない、みんな」
マイケルの声が震えた。
「今日で、工場を閉鎖する」
どよめきが起きる。
「嘘だろ、ボス! 先月、株が戻ったじゃないか! 景気は良くなるはずだろ!」
「俺たちのローンはどうなるんだ!」
「株価は戻った!」マイケルは叫んだ。
「だが、金利を見てみろ!
銀行は貸出金利を8%に上げた! 運転資金が回らないんだ!
フォードからの注文も止まった。誰も車をローンで買えなくなったからだ!」
これが、FRBの利上げがもたらした現実だった。
ウォール街の株価ボードの上では「サムライ・プット」のおかげでGEやUSスチールの株価は維持されている。
しかし実体経済の現場では、高金利という名の「空気不足」が、中小企業や消費者の首を絞めていた。
工員の一人、ジョンは、呆然と立ち尽くしていた。
家に帰れば、身重の妻と二人の子供が待っている。貯金はない。あるのは、この工場の給料という命綱だけだった。
「……どうすればいいんだ」
その時、誰かが囁いた。
「……聞いたか? 日本大使館の話」
「なんだそれ」
「ワシントンD.C.に行けば、日本海軍がカネを預かってくれるらしい。しかも、絶対に減らない『長期債』ってやつに変えてくれるって」
「馬鹿野郎、俺たちに預けるカネなんてないぞ!」
「いや、違うんだ。向こうは『労働力』も買ってるらしいぞ」
男は声を潜めた。
「海軍が出資した工場……たとえば西海岸の造船所や、日本国内の工場で働く技術者を募集してるんだ。『長期債』と1対1で交換できるNCPCでの給料払いでな。……ドルじゃないから、インフレになっても大丈夫だし、銀行が潰れても関係ない」
ジョンの目に、光が宿った。
アメリカの企業は自分をクビにした。アメリカの銀行は家を取り上げようとしている。
だが、日本の海軍は「仕事」と「安全な金」をくれるというのか。
「……ワシントンへ行く」
ジョンは呟いた。
「フーヴァー大統領は俺たちを見捨てた。……なら、俺はトーゴーを信じる」
こうして、「第二の波」が始まった。
最初の波は、資産を守りたい富裕層や投機家だった。
だが今回の波は、生活を守りたい中産階級、労働者、中小企業の経営者たちだ。
彼らは「愛国心」よりも「生存」を選び、アメリカという沈みゆく船から、東郷が用意した「方舟(長期債・NCPC経済圏)」へと、雪崩を打って移動し始めたのである。
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時:1929年(昭和四年)、11月
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・移民労働局(臨時開設)
大使館の裏庭に急造されたテント村は、異様な熱気に包まれていた。
かつては金融業者や富裕層が並んでいた表門とは対照的に、裏門に詰めかけているのは、油にまみれた作業着を着た男たちや、製図板を抱えた技術者くずれ、そして農地を追われた農夫たちだった。
デトロイトからヒッチハイクでたどり着いたジョンは、凍える手で整理券を握りしめていた。
彼の前には、長机が並べられ、海軍の主計下士官と、英語を陸軍で叩き込まれ堪能な橘小百合が面接を行っている。
「次の方。……職業は?」
「旋盤工です。フォードの工場で5年、エンジン部品を削っていました」
「採用。行き先は日本の横須賀、あるいは佐世保。家族同伴可。給与はNCPC債と現地の通貨で支給。……どうされますか?」
「行きます! どこへでも!」
ジョンは息を呑んだ。
自分の番が来た。
「……職業は?」
「プレス工です。……あと、トラクターの修理もできます」
「ふむ。……追浜の航空機工場で、プレス技術者を探しています。行けますか?」
「はい!」
ジョンは、渡された「雇用証明書」と、旅費代わりの少額のNCPC債を抱きしめた。
これで、家族を食わせられる。
アメリカンドリームは死んだ。だが、極東にはまだ「仕事」がある。
執務室前の廊下からその光景を見下ろしていた東郷一成は、複雑な表情でコーヒーを啜った。
「……皮肉なものだな、伊藤君」
「はっ」
「我々は『技術』を買うつもりでいた。そして、結果として『技術者そのもの』を輸入することになった。
彼らは、アメリカが捨てた宝だ。熟練工、設計技師、ラインの管理者……。
彼らを日本の工場で指導者として放り込めば、我が国の工業レベルは一気に十年は進むだろう」
東郷は、一枚の報告書に目を落とした。それは日本の農林省と商工省が共同で作成した、国内の農業政策に関する機密文書だった。
そこには、『過剰人口の満州送出による、内地農村の救済』という文言が踊っていた。
「……だが、東京の連中はまだ分かっていないようだな」
東郷は呟いた。
「土地があれば豊かになれる、という古い神話を信じている」
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場所:東京・築地、料亭「躍雲」
雪の降る夜だった。
商工省工務局長・岸信介は、一人の海軍軍人と差し向かいで酒を酌み交わしていた。
佐藤市郎、海軍大佐。
岸の実兄であり、海軍兵学校第36期を首席で卒業した秀才。そして何より、東郷一成の数少ない理解者の一人でもある。
「……信介。お前、まだ満州に百姓を送るつもりか」
市郎は、猪口を置いて静かに言った。その目は弟の才覚を認めつつも、どこか哀れむような色を帯びていた。
「兄貴、仕方ないだろう」
岸は、苛立ちを隠さずに言った。
「東北は冷害と不況で地獄だ。娘を売る話が後を絶たない。
国内の耕地は限界だ。彼らを食わせるには、満州の広大な大地に移住させ、自作農として自立させるしかない。
拓務省も農林省も、それしか答えを持っていないんだ」
岸の論理は、当時の日本の「常識」だった。
人口過剰、食料不足、農村の貧困。これらを解決する魔法の杖が「満州開拓」だと、誰もが信じていた。
「……それが『古い』と言うんだよ」
市郎は、懐から一通の手紙を取り出した。ワシントンの東郷から届いた私信だ。
「東郷が、アメリカ大陸横断鉄道で何を見たか、知っているか?」
市郎は手紙の一節を読み上げた。
『……アイオワ、ネブラスカ、カンザス。見渡す限りの大平原。肥沃な大地。
日本の農民が夢見るような、広大な耕地を一戸の農家が所有している。
だが、彼らは飢えていた。
銀行に土地を取り上げられ、ショットガンを持って抵抗し、最後には着の身着のままで放り出されていた』
岸は、杯を止めた。
「……なぜだ? 土地があるのに、なぜ食えない」
「システムだよ、信介」
市郎は、弟の目を射抜いた。
「資本主義の構造下では、農産物の価格は市場が決める。
豊作になれば価格が暴落し、不作になれば売るものがない。
そして機械化のために借金をすれば、金利が首を絞める。
アメリカの農民は『広大な土地』を持っていたがゆえに、より巨大な『借金』と『過剰生産』の罠に嵌ったんだ」
市郎は、手紙を畳んだ。
「東郷は言っている。
『土地だけ増やしても、貧困は解決しない。それはただ、貧困の場所を内地から満州へ広げるだけだ』とな。
満州に百姓を送っても、彼らはアメリカの農民と同じ運命を辿る。
大豆の価格が暴落すれば、彼らは満州の荒野で飢え死にするだけだ」
岸は、絶句した。
自らが「国策」として推進しようとしていた満州移民計画が、根底から否定されたのだ。
しかも、圧倒的な「アメリカの現実」という証拠を突きつけられて。
「……じゃあ、どうしろと言うんだ、兄貴。
農村の余った次男三男を、このまま座して死なせるのか」
「そこで、これだ」
市郎は、別の書類を差し出した。
それは、海軍省経理局が作成した『高度技術者・熟練工受入計画』、通称「人間の輸入」リストだった。
「アメリカから、失業した技術者や熟練工が、数千人規模で日本へ渡ってくる。
彼らは最先端の技術を持っているが、食い扶持がない。……信介。お前の商工省がやるべき仕事は、満州に鍬を送ることじゃない」
市郎は、畳に指を突き立てた。
「このアメリカ人たちを教師にして、日本の農村の余剰人員を『工業労働者』へと改造することだ。
農民を、旋盤工にしろ。溶接工にしろ。
彼らに『土地』ではなく、『技術』という武器を持たせるんだ」
岸の脳裏で、何かが弾けた。
パラダイムシフト。
「農業国・日本」から「工業立国・日本」への、強制的な転換。
「……アメリカの技術者を、農村の若者の教師にする……?」
「そうだ。海軍が、金(制度債)と箱(工場)は用意する。
中身(機械)もドイツとアメリカから買い集める。
あとは『人』だ。
日本の農村には、勤勉で、手先が器用で、我慢強い若者が溢れている。
彼らは、最高の工員になる素質がある。
……彼らに、アメリカの合理的な生産技術を叩き込めば、どうなると思う?」
岸は、身震いした。
それは、恐ろしいほどの可能性だった。
アメリカの最新技術と、日本の勤勉な労働力。この二つが融合した時、日本はアジアの工場どころか、世界の工場になり得る。
「……東郷の奴は、そこまで考えているのか」
岸は、呻いた。
市郎は、岸の盃に酒を注いだ。
「信介。お前は政治力はあるが、頭の回転は俺の方が上だと言ったな。
だが、東郷の頭の中にある『国家の設計図』は、俺たち兄弟が束になっても敵わんかもしれんぞ」
岸信介は、無言で酒を飲み干した。
その瞳には、野心とは違う、ある種の「覚悟」の光が宿り始めていた。
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