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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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ある革新官僚の覚醒

時:1929年(昭和四年)、11月

場所:東京・大手町、商工省・庁舎


 東京の空は、鉛を溶かし込んだように重く垂れ込めていた。

 皇居の堀端を渡る風は冷たく、道行く人々は襟を立てて足早に過ぎ去っていく。世界を襲い始めた不況の影は、まだ帝都の表面を覆うには至っていないものの、鋭敏な嗅覚を持つ者たちの鼻先には、すでに湿った不吉な匂いとして届き始めていた。


 大手町に佇む商工省の赤煉瓦庁舎。その内部は、外気と変わらぬほどに冷え切っていた。


 「石炭を節約せよ」――それは大蔵省からの通達であり、同時に「産業合理化」を旗印に掲げる商工省自身の、悲壮な決意の表れでもあった。職員たちは分厚い外套を着込み、白い息を吐きながら、冷たい机に向かい、産業界の悲鳴のような数字を書類に書き込んでいる。


 だが、二階の角にある工務局長室の空気だけは、暖房などなくとも、火傷しそうなほどの熱を帯びていた。


 商工大臣・中橋徳五郎の前で、一人の若き官僚が、震える手で一枚のリストを握りしめていた。


 岸信介。当時33歳。工務局工務課長。


 その切れ長の目と、カミソリのように鋭利な頭脳で知られる、商工省きっての英才である。彼は普段、感情を表に出すことを良しとしない男だったが、今この瞬間だけは、その仮面がひび割れ、剥き出しの興奮が溢れ出ていた。


「……大臣。これは、海軍からの正式な通達ですか」

 岸の声は、腹の底から絞り出すような低い唸りだった。


「ああ、そうだ」

 中橋大臣は、ハンカチで額の脂汗を拭った。この老政治家にとっても、事態はあまりに規格外だった。


「先ほど、海軍省の岡田啓介海軍大臣が直々に持ってきた。『我が海軍は米国において、以下の企業の筆頭株主グループに入った。ついては、経営や技術には疎い我々に代わり、商工省の知見を借りたい』とな」


 岸は、再び手元のリストに視線を落とした。

 紙に印字されたアルファベットの羅列。それは、日本の技術者や産業官僚たちが、夢に見ることさえ諦めかけていた、雲の上の巨人たちの名前だった。


『United States Steel (USスチール)』

『General Electric (GE)』

『E.I. du Pont de Nemours (デュポン)』

『Westinghouse Electric (ウエスティングハウス)』

『International Business Machines (IBM)』

『American Telephone & Telegraph (AT&T)』……


 鉄鋼、重電、化学、通信。

 近代国家の骨格と神経を構成する、アメリカ産業界の心臓部そのものだ。


「……冗談ではありません」

 岸は、リストを持つ手が震えるのを止めるために、それを机に叩きつけた。バン、という乾いた音が、冷え切った室内に響く。


「これは『投資』などというレベルではない。アメリカ合衆国の工業力の“中枢”です。海軍は……あの軍人たちは、たった数日で、我が国の産業界が五十年かかっても、血の涙を流しても追いつけなかった技術の源泉を、カネの力で買い取ったというのですか!」


 岸の脳裏に、数ヶ月前の苦い記憶が蘇る。

 産業合理化審議会での一幕だ。日本の鉄鋼メーカーの技師長が、悔し涙を流して訴えていた。


『アメリカの特殊鋼の配合比率は、絶対に教えてもらえません。特許の壁、企業秘密の壁……我々は同じ土俵に立つことすら許されていないのです』


 GEのタービン工場を見学に行った日本の視察団は、核心部分の工程だけ「清掃中」という名目で見せてもらえなかったという。


 技術の壁は、関税障壁よりも高く、分厚い。後発国である日本は、常にその壁の前で指をくわえて立ち尽くすしかなかった。


 だが、今。

 その「秘密の扉」の鍵束が、ジャラリと音を立てて、岸の目の前に置かれたのだ。


「カネの力といってもな、岸君」大臣は困惑したように首をかしげた。


「元手は、向こうの市場で稼いだあぶく銭だそうだ。海軍の連中は『我々は物言う株主にはならない』と言っているそうだが、同時に『株主としての正当な権利』として、『技術情報の開示』や『工場視察』は要求できると言うのだ。……岡田大臣は、『使い道は商工省にお任せする』と笑っておったよ」


 その瞬間、岸信介の脳裏で、巨大な歯車が軋みを上げて回り始めた。

 それは単なる事務処理の歯車ではない。国家の運命を回す、歴史の歯車だ。


「……権利」

 岸は呟いた。


「そうか。所有権オーナーシップだ。……アメリカという国は、何よりも『所有権』を神聖視する国だ。株主が『見せろ』と言えば、経営者は拒否できない」


 岸は顔を上げた。その瞳には、野心という名の冷たい、しかし猛烈な青い炎が燃え盛っていた。


「……大臣」

「な、なんだ、その目は」


「海軍は『知見を借りたい』と言ったのですね? 『使い道は任せる』と」

「あ、ああ。軍人には、経営や技術の細かなことは分からんから、専門家を派遣してくれと……」


「……使いましょう」

 岸は断言した。その口元には、獲物を見つけた狼のような笑みが浮かんでいた。

「海軍を利用するのです。骨の髄まで」


「な、何?」


「我々は今、将来の金解禁と国際競争力強化のために、血の滲むような合理化を強いられています。カルテルを結ばせ、非効率な中小企業を潰し、労働者を切り捨て……それでも、欧米のコストと品質には勝てない。……なぜか? 根本的な“技術”の格差が埋まらないからです」


 岸は立ち上がり、壁の黒板に向かった。チョークを掴み、白い粉を散らしながら、力強く書きなぐった。


『技術移転(Technology Transfer)』

『正当なる監査(Audit)』


「海軍が株主権限を行使して、USスチールの最新製鉄法を視察する。その際、軍人の随行員として、商工省の技官や、民間の三菱・住友・日本製鐵のトップエンジニアを送り込むのです」


 岸の声は、熱を帯びて早口になった。


「彼らの名目は『株主代理人としての資産監査』です。

 工場のラインスピード、不良品率、使用している工作機械のメーカーと型番、そして……現場に落ちている金属片一つに至るまで。全て見て、記録し、持ち帰らせる」


「GEのタービン工場では、設計図の開示を要求しましょう。『投資判断のために将来性を見極める必要がある』と言えばいい。デュポンの化学プラントでは、特許のクロスライセンス契約を、株主の意向として強力に推し進めさせる」


 大臣は息を呑んだ。

「そ、それは……産業スパイではないか? アメリカ政府が黙っていないぞ」


「違います!」

 岸は叫んだ。机を叩く音が、雷のように響いた。


「これは正当な『株主の権利行使』です! 資本主義の総本山であるアメリカが作った、アメリカ自身のルールです!


 彼らは今まで、そのルールを使って世界中を支配してきた。今度は我々が、そのルールを使って彼らの富を吸い上げる番です。文句を言われる筋合いはありません!」


 岸信介という男は、自由放任のアダム・スミス的な資本主義など信じていなかった。国家が強力なリーダーシップを持って産業を統制し、育成し、指導する。「統制経済」こそが、後発国日本が生き残る唯一の道だと信じていた。


 そして今、彼の目の前に、その理想を実現するための最強のツール――「海軍の資本」と「アメリカの技術」が現れたのだ。


 これを使えば、日本を一気に、世界最高水準の重工業国家へと改造できる。

 十年、いや二十年分の時間を短縮できる。


「……吉野課長を呼んでください」

 岸は、矢継ぎ早に指示を出した。吉野信次・文書課長。岸の先輩であり、商工省の頭脳とも言うべき盟友だ。


「それから、主要財閥の技術部長クラスを極秘に招集します。場所は築地の料亭でいい。ただし、女は入れるな。


 今すぐ、アメリカに送り込む『監査団』の名簿を作成します。英語ができて、図面が読めて、そして……一度見たものは死んでも忘れないような、眼のいい技術者をかき集めるのです」


「き、岸君……」大臣は呆気にとられていた。「君は、戦争でも始める気か?」


「ええ、戦争です」

 岸は静かに、しかし凄みのある声で答えた。


「これは『技術』という名の戦争です。そして、勝てる戦争です。

 海軍の東郷大佐でしたか……。食えない男だと思っていましたが、最高のプレゼントをくれましたよ」


 岸は、窓の外の冷たい雨を見つめた。その雨の向こうに、太平洋の彼方にある巨大な大陸と、そこに眠る無限の知識の山が見えているようだった。


「彼はアメリカの『金融』を握り、その首輪をつけた。

 ならば我々商工省は、その首輪を引いて、アメリカの『技術』という果実を、骨の髄までしゃぶり尽くす。

 ……アメリカの技術で、アメリカを超える産業をこの国に作るのです」


 その夜、商工省の工務局の明かりは、深夜になっても消えることはなかった。

 暖房のない冷え切った部屋で、エリート官僚たちは熱い茶をすすりながら、一枚の巨大なリストを作成し続けた。


 それは単なる視察団の名簿ではない。

 後に「技術立国・日本」の礎となる、国家規模の技術移転計画……否、合法的な「技術略奪計画書」であった。


 項目の一つ一つに日本の弱点が記され、その横に、それを埋めるためのアメリカ企業の名前が書き込まれていく。


 東郷一成がワシントンで開けた風穴から、霞が関の若き狼たちが、貪欲な目を光らせてアメリカの富を狙い始めていた。

 軍艦が動く前に、商工省のペン先が、太平洋を渡り始めていたのである。

いつもお読みいただきありがとうございます。


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岸氏の実兄、佐藤市郎氏は派閥に頼らず実力で海軍中将までなった稀に見る秀才でたしか南雲氏の同期だったはず。 兄の伝手を使い裏工作をいろいろ考えそうですね。
岸信介、この頃だとまだ33だったのか、と。 実弟・佐藤栄作も鉄道省にいた頃ですね(史実だと門司鉄道管理局の庶務課文書係長) さぞや豪勢な視察団ができることでしょう、と、人選が楽しみです。
流石岸信介、妖怪扱いされるほど優秀な官僚である
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