世界最強のETF
時:1929年11月上旬
場所:ニューヨーク州ハイドパーク、ルーズベルト邸
晩秋の長雨が、ハイドパークの屋根を冷たく叩いていた。
暖炉の火は燃え盛っているが、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)の心に巣食う寒気を払うことはできなかった。彼の膝の上には、国務長官スティムソンが起草し、議会への提出が秒読みとなっている法案のドラフトが置かれている。
『戦略的産業防衛法(Strategic Industries Defense Act)』
通称、SIDA。
外国政府による、合衆国の重要産業(通信、電力、鉄道、軍需)への新規出資および株式取得を制限し、既存の保有分についても議決権の行使を凍結する権限を大統領に与える。
彼の口元には、呆れとも、怒りとも、あるいは諦観ともつかぬ、乾いた笑みが張り付いていた。
「……ハリー」
FDRは、その書類を暖炉に投げ込みたい衝動を抑えながら、腹心のハリー・ホプキンスに語りかけた。
「君は、農場で働いたことがあるかね?」
「ええ、少年時代に少し」
「なら分かるだろう。馬小屋から馬が盗まれたあとに、慌てて扉に錠前をかけ、さらには『二度と盗まれないように』と小屋ごと燃やしてしまう牧場主のことを、君ならどう呼ぶ?」
「……正気を失ったバカタレ、でしょうか」
「正解だ」
FDRは草案を指先で弾いた。
「そしてそれが、我らが偉大なる合衆国の共和党政権の正体だ」
FDRは車椅子をきしませ、窓の外の荒涼とした秋の景色を睨んだ。
「『戦略的産業防衛法』……美しい名前だ。外国資本による重要産業への出資規制。聞こえはいい。だが、この法律は致命的に遅すぎた。そして致命的に間違っている」
FDRは、まるで愚かな子供に言い聞かせるように語り始めた。
「第一に、馬はもう盗まれた後だ。東郷は先週の『サムライ・プット』で、すでにUSスチールやGEの筆頭株主クラスの地位を確立してしまった。今さら新規取得を禁止したところで、奴の腹の中に収まった株券は戻ってこない。
むしろ、この法律は『既存の株主(日本海軍)』の権益を強固に守ることになる。なぜなら、新たな外国の競争相手が入ってこなくなるからだ。東郷は独占的な地位を、アメリカの法律によって保証されることになる」
「……何という皮肉でしょう」ホプキンスが呻く。
「だが、ハリー。本当の悪夢はそこじゃない」
FDRの目が、冷徹な光を帯びた。
「この法律が意味する本当の恐怖は、NCPC債(制度債)の『質的転換』にある」
「質的転換、ですか?」
「ああ。思い出してみたまえ。これまでNCPC債の信用とは何だった? 日本海軍が『任務を遂行する』という、いわば精神的で抽象的な約束手形に過ぎなかった。
だが今回の買い占めと、この防衛法によって、その中身が劇的に変わってしまったのだ」
FDRは黒板に向かい、チョークで書き殴った。
【Before】NCPC債の裏付け = 日本海軍の「名誉」と「銀」
【After】 NCPC債=日本海軍の信用 + 米国中枢産業の持分
「――つまりだ、ハリー。
“債券”という皮をかぶったまま、中身が産業株の束に化けた。
ここから先は、利回りでも、金準備でもない。商品そのものが変わる」
ホプキンスが眉をひそめる。
「株の束……?」
「そうだ。株を直接買うのとは違う。束ねて、封をして、取引所で“証券として売買できる形”にしてしまう。
ウォール街は、得てしてこういう怪物に名前を付けたがる」
FDRは笑った。乾いた笑いだった。
「私が名付けるなら…… Exchange-Traded Fund――ETFだ。
取引所で売買される“上場投資信託基金”。
しかも中身は、USスチール、GE、デュポン、AT&T、ウエスティングハウス、IBMの心臓部――それを、NCPCの皮で包んで流通させる。その結果何が起こったか?」
FDRは、チョークを置いてホプキンスに振り向いた。
「何ということでしょう、ハリー!
投資家たちは気づいてしまったのだ。『日本海軍の債券を買うことは、間接的にアメリカ最強の産業ポートフォリオを買うことと同じだ』と!
しかもETFは、名義を溶かす。信託名義、代理名義、預り証、担保差し入れ……
そして取引所で回転するたびに、保有者は増え、薄まる。
いったい誰の議決権をSIDAで凍らせる?“市場そのもの”か?
そして直接株を買うのと違って、NCPC債なら日米双方で『非課税』だ!」
FDRの声が震えた。
「東郷は、NCPC債をただの軍票かつ投機商品から、事実上の『世界最強のETF(上場投資信託)』へと進化させてしまったのだ。
これはもはや債券ではない。
『S&P90コア銘柄・非課税・元本保証付きETF』だ!
地球上に、これ以上に安全で、これ以上に魅力的な金融商品が存在するかね!?」
FDRの笑い声は、乾いていた。
「そしてSIDA(防衛法)が成立すれば、どうなる?
日本は『これ以上買えない』。つまり、NCPC債の裏付けとなる米国株の量は固定される。
供給が止まり、需要だけが残る。……希少価値が生まれる。
スティムソンは、日本を締め出すつもりで、東郷が持っている『宝箱』に、政府公認の鍵をかけてやり、その価値を永遠に固定してやるようなものだ」
アメリカの法律が、日本の信用の「保証書」になってしまったのだ。
ホプキンスは何も言えなかった。
暖炉が、ぱちりと爆ぜた。
「……フランク。では、この法律が成立したら……金利はどうなるのですか? 規制で資金流入が止まるなら、FRBは金利を下げて経済を助けるのでは?」
その問いに、FDRは首を横に振った。その顔には、死刑宣告を下す裁判官のような冷たさがあった。
「逆だ、ハリー。……金利は、上がる。いや、上げざるを得なくなる」
「なぜです!? 不況下でこれ以上の利上げなど、自殺行為だ!」
「その通り、自殺だ。だが、今のFRBには自殺以外の選択肢が残されていないのだよ……」
FDRは車椅子のアームレストを叩いた。
「いいかね。この法案が成立した瞬間、世界中の投資家はこう思う。『アメリカは自由な市場を放棄した』『政府が都合の悪い投資家を恣意的に排除する国になった』と。
それはつまり、ドルという通貨に対する信用、アメリカという国家に対する信用の完全な崩壊を意味する」
FDRは、窓の外の雨雲を睨みつけた。
「そして何より、スティムソンは金融のABCを分かっていない。
この法案が通れば、FRBは金利を下げられると思っているのだろう?
『悪い日本人がいなくなったから、もう金利を上げなくてもいい』と。
……とんでもない間違いだ」
彼は指を一本立てた。
「今、FRBが金利を6%という殺人的な高水準にしている理由はなんだ? ゴールドの流出を止めるためだ。
では、SIDAが成立したらどうなる?
ヨーロッパの投資家はパニックになる。『次は我々の番だ』『資産を凍結される前に逃げろ』と考える。
結果、猛烈なキャピタルフライト(資本逃避)が起きる。金はさらに流出する」
「……つまり?」ホプキンスがごくりと喉を鳴らす。
「つまり、FRBは金利を下げられない。いや、流出を止めるために、さらに上げざるを得なくなるかもしれない!
不況の入り口で、金利を上げ続ける。……それは経済に対する絞首刑だ」
FDRは、グラスの氷を揺らした。
「東郷は、笑いが止まらんはずだ。
彼は我々の資産を買い占め、それを担保に世界中から金を集め、そして我々の政府にその金庫番をさせているのだからな」
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