逆張りの預言書
時:1929年(昭和四年)、11月
場所:東京・三宅坂、陸軍省軍事課長室
軍事課長室の空気は、タバコの紫煙と、一人の男の押し殺した屈辱感で澱んでいた。
部屋の中央には、直立不動の姿勢をとる東條英機大佐。
その向かいのソファには、行儀悪く足を組み、薄ら笑いを浮かべる石原莞爾中佐。
そして、デスクの奥でドイツ製の万年筆をいじりながら、感情を消して座る永田鉄山大佐。
石原の手には、一冊の薄い報告書があった。表紙には『米国経済及ビ海軍新証券ニ関スル視察報告』とあり、起案者の欄には東條の署名がある。
「……いやあ、見事だ」
石原は、報告書をペラペラとめくりながら、感嘆したように言った。その声色は、珍しい昆虫の標本を愛でる学者のようだった。
「東條大佐。貴官のこの報告書、実に素晴らしい。ここまで完璧に、一寸の狂いもなく“逆張り”できる才能が、この帝国陸軍に埋もれていたとは」
東條の頬が、ピクリと引きつった。だが彼は動かない。軍人としての規律が、彼をその場に縫い止めていた。
「……どういう意味か、石原中佐」
「言葉通りの意味ですよ」
石原は報告書の一節を指先で弾いた。
「ここだ。『海軍の新証券(長期債)は、年利0.5%という非常識な設定ゆえ、市場価値は皆無である』……。
ほう、皆無ですか。実際のところ、今やあれは金塊よりも価値のある、世界最大級の“絶対安全資産”として崇められているわけですが」
石原は次のページをめくる。
「次。『東郷大佐は独自の理論に固執し、米国の好況という現実を直視していない。破綻の可能性大』……。
クックック……。傑作だ。これを書いた翌週に、現実の方が破綻して、東郷の独自理論だけが生き残った」
石原は報告書を閉じ、テーブルに放り投げた。
「東條さん。あんた、この報告書を『予言書』として出版したらどうです?
タイトルは『東條英機の大逆神予言』。あんたが『ダメだ』と言ったものは必ず成功し、『安泰だ』と言ったものは必ず滅びる。ウォール街の相場師たちが、あんたの逆を行くために大金を払って買いに来ますよ」
「……貴様ッ!」
東條が、ついに激昂した。顔を真っ赤にして拳を震わせる。
「私は! 当時の経済指標と常識に照らし、最も合理的で蓋然性の高い結論を記述したまでだ!
当時のNYダウは最高値を更新し、金利は5%を超えていた! その状況で0.5%の塩漬け債券など、経済合理性を欠くゴミ屑と判断するのは、将校として当然の帰結ではないか!」
「当然?」
石原の目から、笑い色が消えた。冷徹な、猛禽類のような光だけが残る。
「それが“平時”ならな。だが東條、我々は軍人だぞ。
戦場において『敵が教範通りの陣形を組んでいないから、攻撃してくるはずがない』と報告して、その直後に奇襲を受けて全滅したら、お前はなんて言い訳するんだ?
『敵が非合理的でした』と言って、死んだ部下が生き返るのか?」
東條は言葉に詰まった。
「お前はワシントンまで行って、何を見てきたんだ?
砂漠のど真ん中まで行って、足元の砂だけをすくって『水はありません』と報告して帰ってきたのか?
……そのすぐ背後で、東郷一成という男が巨大なオアシスを掘り当てて、万全の陣地を築いている槌音が響いていたというのに」
石原は、ソファから立ち上がった。
「お前の敗因は一つだ。お前は“ルール”を見た。東郷は“人間”を見た。
お前は『好況だから安全だ』と数字だけを見て判断した。
東郷は『好況だからこそ、人間はその裏にあるものに不安になり、逃げ場所を欲しがる』という心理を見抜いた。
……その差だよ。カミソリ東條殿。お前の刃は、紙の上でしか切れん」
東條は唇を噛み締め、沈黙した。反論の言葉が見つからない。結果があまりにも残酷に、彼の無能(あるいは視野の狭窄)を証明していたからだ。
「……その後の大恐慌は」東條は、絞り出すように言った。「……誰にも予見できなかった、天災のようなものです」
「誰にも、か?」
石原は、意地悪くニヤリと笑った。
「……ワシントンの東郷大佐と、まだ十にもならぬその娘。
そして、大陸を横断してまでその父に危機を知らせに行った、元・お前の配下のスパイ少女以外には、な」
東條の顔色が、怒りから蒼白へと変わった。
小百合。かつて自分たちが使い捨ての駒として扱った少女が、自分が見抜けなかった世界の崩壊を見抜き、東郷の元へと走ったという事実。それは彼のプライドを何よりも深く傷つけた。
「……もうよい」
それまで沈黙を守っていた永田鉄山が、静かに口を開いた。彼は東條の報告書を手に取り、ゆっくりと引き出しに仕舞った。
「東條。この報告書は、ある意味で貴重だ。
『凡人が世界をどう誤認するか』という、素晴らしいサンプルとしてな」
永田の言葉は、石原の罵倒よりも遥かに冷たかった。
「だが、現実は現実だ。海軍は勝った。我々は負けた。
東郷は今や、アメリカ経済の救世主であり、最大の債権者だ。そして我々は完全に出遅れた。
……東條、お前には罰を与える」
「はっ……いかなる処分も」
「罰として、お前は今後、海軍との折衝担当になれ」
「……は?」
東條は、間の抜けた声を出した。
「海軍が吸い上げた莫大なドル。あれを陸軍の近代化予算として分捕ってくるのが、今後のお前の仕事だ。
お前が『ゴミ』と断じた証券から生まれたカネで、お前の部下たちが飯を食い、銃を買うのだ。
その屈辱を噛み締めながら、東郷に頭を下げてこい。……それが、現実が見えていなかった者への授業料だ」
東條は全身を震わせながら、ギリギリと音が出るほど奥歯を噛み締めた。
そして、血を吐くような声で答えた。
「……拝命、いたします」
東條が退室した後、石原は大きく息を吐き、天井を仰いだ。
「……やれやれ。あんな石頭に、東郷との交渉が務まりますかね」
「務まるさ」永田は薄く笑った。
「東郷も、天才相手なら警戒するが、あんな石頭が相手なら、憐れんで小銭くらいは恵んでくれるだろうよ。
……それにしても、石原」
「なんです?」
「お前、楽しそうだな」
「ええ、楽しいですとも」
石原の瞳に、狂気じみた光が宿った。
「東郷一成。あの男は、世界を壊した。
アメリカという巨人が倒れ、世界中が悲鳴を上げている。
……これぞまさに、『世界最終戦』の前奏曲ではありませんか。
さあ、次は我々の番だ。海軍が作った瓦礫の山の上に、新しい城を築く時が来た」
窓の外では、冷たい冬の風が吹いていた。
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