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1925年(大正14年)横須賀


秋の虫が声を競い合う夕暮れのことであった。


横須賀の高台にある東郷一成の邸、そのささやかな客間の食卓には、湯気を立てる味噌汁と照りよく煮上げた魚、色鮮やかな漬物が整然と並んでいた。

食卓を囲むのは、主の東郷一成と、彼を慕い将来を嘱望される若き海軍士官たち。輪の片隅には、小さな膳に向かう養女の幸の姿がある。

 

ランプの明かりが柔らかく彼らを照らし、障子の向こうには、涼やかな秋風が通っていた。


1921年のスペイン風邪は、彼の最愛の妻の命を腹の中にいた子ごと容赦なく奪い去った。

しかもその時、東郷は海軍軍縮会議の随員としてワシントンにいたため死に目にも会えなかった。


その後関東大震災の瓦礫がまだ残る中、東郷一成は海軍が運営を支援する孤児院を、半ば義務感で視察に訪れていた。子供たちの喧騒の中、東郷は庭の隅で一人、地面に何かを書いている少女に気づいた。年は四つか五つほどだろうか。


他の子供たちのように泣き叫ぶでもなく、配給の握り飯に飛びつくでもなく、ただひたすら、小石で地面に奇妙な記号を書き連ねている。その姿は孤児院の混乱の中にあって、異質なほど静かだった。それが幸だった。


東郷は箸を静かに置き、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。

声は、まるで寺の和尚が説法を説くように落ち着き払っていた。


「諸君、誤解してはならない。“海軍制度債”は断じて通貨ではない。あれは、我々が国家のために遂行した任務の記録なのです」


士官たちは背筋を伸ばし、真剣に耳を傾ける。

一人が思わず問うた。


「つまり、我々が作戦を完遂し、汗を流した。その行為そのものが信用となり、価値を生む、と。そう理解してよろしいでしょうか」

「その通りだ」


東郷は満足げに頷いた。


「人は本能的には働きたくないし、死にたくもない。だが、国家のために働き、命を賭して戦った。その尊い“記録”こそが、何よりも強い信用となる。それが与信、すなわち未来を動かす力に繋がるのだ」


別の士官が感嘆の声を漏らす。


「なるほど…。軍功が、まるで紙幣のように機能する。実に画期的なお考えです」


だが東郷は首を横に振った。


「いや、だからこそ通貨ではない。制度債は、国家資産の再分配活動にすぎぬ」


士官たちが唸りながら頷く傍ら、小さな膳に向かう幸は、煮豆を一粒、そっと唇に含んだ。


(……えっと……でも……やっぱり、どう見ても“通貨”だと思うんだけど……)


彼女は胸の奥で、かすかな声を上げた。未来から来た自分には、この議論があまりに歪んで見える。だが、皆の前で口にする勇気はなかった。

(……でも……言わなきゃ。ここで何も言えなかったら……きっと、また後悔する……)


小さく息を吸い込み、思わず声が漏れた。


「……あ、あの……お父さま……」


場がしんと静まる。士官たちは顔を見合わせ、箸を止めた。幸は視線を泳がせ、膝の上で指をぎゅっと組む。


「……横須賀の市場では……その“記録”で、お買い物をしている人を……わたし、見たことがあって……。それって……」


声は小さく、消え入りそうだった。だが核心を突いていた。


東郷は全く動じない。幸に向ける眼差しは穏やかで、微笑みを崩さぬまま答えた。


「幸。それは“再分配活動”の一環なのだよ」

「……で、でも……それって……普通に、お金みたいに……」


子供らしい素直さに、場の空気が揺れる。士官たちは気まずげに互いの顔を見やった。

だが東郷は柔らかな笑みを保ちつつ、声を引き締めた。


「昔、鎌倉や室町の頃の日本は、自国の貨幣を持たず、宋の国から来た宋銭や、明の国から来た永楽銭といった、外国の銭を使っていた。だが、だからといって、宋銭や永楽銭が“日本の通貨”だったか? 違うな。あれらは、日本国内で広く“使われた”だけで、決して“日本の法貨”ではなかったのだ」


その言葉に、幸ははっと息を呑んだ。


(……確かにそう、歴史で習った……。あの頃のお金は、幕府が保証していたわけじゃなくて……“使われただけ”……。でも……でも……)


士官たちは「な、なるほど…」「そういうことでしたか」と曖昧に頷く。幸は両手で頭を抱えたくなった。


(……やっぱり、理屈の鎧が分厚すぎる……。これって、現代でいうなら……ユーティリティトークンとか、ブロックチェーンの発想そのまま……。でも私なんかが言っても信じてもらえない……)


やがて東郷は、何事もなかったかのように再び箸を取り、淡々と結論めいた言葉を放った。


「結局のところ、日本海軍は“制度債”という名の“モノ”を国民に売り、その対価としてモノやカネを得ているだけのこと。制度債は、カネではない」


「おお!」「さすがです、閣下!」

士官たちは、納得したのか称賛を惜しまなかった。


食卓は笑いと和やかな談笑に包まれる。

ただ一人、幸だけは煮豆を口に含んだまま、視線を落とし、遠い目をしていた。


(……お父さまは正しいのかもしれない。でも……これ、どう見ても“通貨発行益”そのもの……。任務記録が台帳になって、発行主体が分散してる……。これって……DeFiとかブロックチェーンの原型じゃない……? どうしよう……私、また余計なこと考えてる……)


ランプの炎がふっと揺れた。

その灯りは、東郷一成が生み出した奇妙で少し危うい制度の未来を、淡く照らしているかのようだった。


その夜、幸はなかなか寝付けなかった。

秋の夜長、遠くで鳴く鹿威しの音が、心臓の鼓動のように大きく聞こえる。障子越しの月明かりが、畳の上に冷たい四角を描いていた。


(お父さまの言っていたこと……理屈は、わかる……。でも……)


食卓での父の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。「あれは“モノ”を売っているだけだ」

その理屈は完璧で、士官たちは皆納得していた。けれど、幸の心には、市場で制度債を握りしめていたおばあさんの笑顔が焼き付いて離れない。あの笑顔が、もし、父の言う「ただのモノ」の価値が消えた時に、どうなってしまうのか。そう考えると、胸の奥が冷たくなっていく。


(知らなくちゃ……。ううん、知るのが怖い……。でも、このままじゃダメな気がする……)


幸はそっと布団を抜け出した。この家に来てから、父の言いつけを破ったことは一度もない。書斎は入ってはいけない場所だと、固く言われている。悪いことだと分かっている。けれど、不安が恐怖を上回っていた。


きしむ床板の音にびくりとしながら、幸は書斎の前にたどり着いた。そっと障子に指をかけると、幸運にも鍵はかかっていなかった。罪悪感に苛まれながら、小さな隙間から中へ滑り込む。


月明かりだけが差し込む書斎は、インクと古い紙の匂いに満ちていた。壁一面の本棚が、まるで静かな巨人たちのように幸を見下ろしている。その威圧感に気圧されそうになりながら、幸は大きな文机へと歩み寄った。


文机の上には、一冊の手帳が開かれているのが目に入る。父の几帳面な文字が、びっしりと並んでいた。幸は、息を殺してその文字を追った。


『…軍縮ノ潮流、抗イ難シ。然レド、帝国ノ護リ、一日トシテ疎カニハ出来ズ…』

『…国家予算ニノミ頼ル脆弱性。…今コソ、国家ニ依存セヌ、海軍独自ノ“経済圏”ヲ確立スル必要アリ…』

『…“制度債”ノ本質ハ“信用”ノ可視化ニアリ。…国家ノ信用ガ揺ラギシ時、ソノ真価ヲ発揮セン…』


幸は、そこまで読んで息を呑んだ。

やはり、父は全てを理解している。これは、ただの資金調達ではない。来るべき危機に備えた、壮大すぎる計画。


(お父さまは、国や、海軍の人たちを守ろうとしてるんだ……。でも、そのために、たくさんの普通の人たちが、何も知らずに……)


背筋に冷たいものが走る。父がやろうとしていることの巨大さと、その先に待つかもしれない未来の悲劇を思い、幸の体は小さく震えた。


「……幸」


背後からかけられた穏やかな声に、幸の心臓は凍りついた。

びくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。いつの間にかそこに父、東郷一成が立っていた。ランプを手に、常と変わらぬ静かな笑みを浮かべている。


幸は、手にした手帳をどうすることもできず、ただ俯いた。涙が滲み、視界が歪む。


「ごめ……なさい……」


かろうじて絞り出した声は、震えていた。

東郷はゆっくりと幸のそばに歩み寄ると、咎めるでもなく、幸の小さな頭にそっと手を置いた。その手は、軍人らしく節くれ立っているが、温かかった。


「謝ることはない。……怖がらせてしまったかな」


優しい声が、逆に幸の胸を締め付ける。


「お父さまは……どうして……」

「お前が心配するのも無理はない。だがな、幸。この国は、いずれ大きな嵐に見舞われる」


東郷は、窓の外の闇を見つめながら言った。その横顔は、幸が今まで見たことのないほど、深く、憂いに満ちていた。


「私は、その嵐の中で、皆が乗り込める“方舟”を造っているのだよ。たとえ国が傾こうとも、海軍が、そこに暮らす人々が、生き延びるための方舟をな」


彼の言葉は、悲しいほどに優しい覚悟に満ちていた。

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