共犯者の解説
時:1929年(昭和四年)、晩秋
場所:東京・麹町 東郷平八郎邸
東京にも、冬の気配が忍び寄っていた。
東郷邸の奥座敷。
そこには、世界を震撼させているニューヨークの狂乱とは無縁の、枯れた静寂があった。
だがその静寂の中心に座る「軍神」東郷平八郎の眉間には、日本海海戦のときよりも深い皺が刻まれていた。
彼の手には、新聞が握られている。
『米株式市場、大暴落!』
『日本海軍、米市場を買い支え! 「サムライ・プット」発動!』
『米FRB、金利引上げを発表! 公定歩合6%へ!』
「……分からん」
平八郎は、新聞を畳の上に放り出した。
彼は海戦の天才だ。風を読み、潮を見極め、鉄の艦隊を指揮することはできる。
だがこの「カネ」という名の、姿の見えない砲弾が飛び交う戦場だけは、老いた英雄の直感をもってしても霧の中だった。
「一成の奴、何を考えておる。
敵の市場が崩れたのなら、放っておけばよいではないか。なぜわざわざ敵の株を買って助ける?」
その呟きに、お茶を淹れていた少女の手がぴくりと止まった。
東郷幸。
一成の養女であり、この家の「羅針盤」たる少女。
彼女は普段は内気で、どこかおどおどとした小動物のような愛らしさを持っている。
だがひとたび「スイッチ」が入ると――その瞳には、深淵を覗き込むような、恐ろしいほどの知性と没入感が宿るのだ。
「……お爺様」
幸は、お盆を静かに置いた。
その所作は、まるで能役者のように静謐だった。
彼女は前髪をそっと払うと、伏し目がちに、しかし凛とした声で言った。
「……説明、してもいいですか?
お父様が今、アメリカで……どんな“手品”を使っているのかを」
平八郎は、孫娘の顔を見た。
いつもの「お爺様っ!」と甘えてくる孫ではない。
そこにいたのは、戦況図の前で敵将の思考を完璧にトレースせんとする、冷徹な参謀の顔だった。
「……うむ。頼む、幸」
幸はコクリと頷くと、少しの間、目を閉じた。
(……集中して。今の私は、お父様。そしてアメリカの銀行家……)
「では、軍事に例えてご説明します」
幸は、茶碗と茶托をテーブルの上で動かした。
「まず、アメリカ経済という『巨大な艦隊』が、燃料(お金)切れで漂流していると思ってください。
エンジンは止まりかけ、兵士(国民)はパニックを起こして、海に飛び込もうとしています」
「うむ。それが今の暴落だな」
「普通なら、この艦隊の司令官であるFRB(連邦準備制度理事会)が、予備の燃料タンクを開放して、燃料を補給してやらなければなりません。これを『金融緩和』と言います。
お金を市場に流して、パニックを鎮めるんです。
……でも、お爺様。新聞を見てください。FRBは何をしましたか?」
平八郎は新聞に目を落とした。
「金利を、上げた……とあるな」
「はい。これは軍事で言えば、『燃料が足りないと騒ぐ部隊から、さらに燃料を取り上げて、倉庫に鍵をかけた』のと同じです」
「な、なんだと!?」
平八郎は絶句した。
「そんなことをすれば、艦隊は全滅するではないか! 司令官は気でも狂ったのか?」
「狂ってはいません。ただ……怯えているのです」
幸の声のトーンが、少し沈んだ。それは悲運の運命を背負った者のように儚げだった。
「FRBは、燃料(金・ゴールド)が日本海軍という『隣の艦隊』に盗まれるのを怖がっているのです。だから、慌てて倉庫の鍵を閉めてしまった。
……でも、そのせいで自分の艦隊のエンジンが完全に止まってしまうことに、気づいていないのです」
幸は、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
「……苦しい……です。
息ができないのに、首を絞められているみたい。
アメリカの会社や、おじさんたちは、今、そんな気持ちだと思います……」
その悲痛な表情に、平八郎も思わず眉をひそめた。
まさに、自滅だ。敵ながら哀れとしか言いようがない。
「そこで、お父様の登場です」
幸の表情が、一瞬で切り替わった。
悲劇のヒロインから、全てを見通す名探偵の顔へ。
「FRBが燃料を出し渋っているその瞬間に、お父様は『サムライ・プット』を行いました。
日本海軍の持っているドル(燃料)を、惜しげもなくアメリカの市場に注ぎ込んだのです。
瀕死のGEやUSスチールといった『重要な船』に、直接パイプを繋いで、燃料を輸血してあげたのです」
「……助けてやったのか?」
「はい。でも、ただの親切ではありません」
幸は、茶托の一つを裏返した。
「お父様が輸血に使ったそのドル。……その出処はどこだと思いますか?」
「……日本から送った金か?」
「いいえ」
幸は首を振った。
「そのドルは、アメリカの人たちが、恐怖に駆られて日本大使館に持ち込んできたお金です。
『アメリカの銀行は危ない! 日本の“長期債”の方が安全だ!』って、みんながお父様のところに預けに来たお金なんです」
平八郎は、呆気にとられた。
「つまり……アメリカ人から預かった金を、アメリカ人に貸してやったということか?」
「その通りです。でも、ここからが本当の『手品』です」
幸は身を乗り出した。その瞳が、妖しく光る。
「お父様が発行した『長期債』。これには、ある魔法がかけられています。
それは……『三年間、絶対に解約できない(ロックアップ)』という魔法です」
「……三年?」
「はい。アメリカ人たちは、ドルをお父様に預けました。お父様は、そのドルをすぐに市場に還流させて(株を買って)、市場を救いました。市場にはお金が戻りました。
……でも、アメリカ人たちが持っているのは、『三年後まで換金できない、日本の債券』だけなんです」
幸は、両手で円を描いた。
「お父様は、アメリカ市場に大量のお金を供給(金融緩和)しました。
でも、そのお金の“請求書”は、三年間、絶対に回ってこないんです。
つまり……事実上、日本海軍は、アメリカ中央銀行(FRB)の代わりに、アメリカにお金を刷ってあげたのと同じことなんです!」
平八郎の口が、ぽかんと開いた。
軍事の常識では考えられない。
補給もなしに、敵地で弾薬を調達し、それを敵に撃ち込み、その代金を敵に払わせ、しかも借金の取り立ては三年待たせる?
「待て、待て幸。整理させてくれ」
平八郎は、額の汗を拭った。
「1.アメリカの司令官(FRB)は、ビビって燃料を止めた(利上げ)。
2.そのせいで死にかけたアメリカ国民は、燃料を持って日本の艦隊(大使館)に逃げ込んだ。
3.一成はその燃料を受け取り、『三年預かる』と言って証文(長期債)を渡した。
4.そして預かった燃料を、即座にアメリカの戦艦(企業)に注ぎ込んで、沈没を防いでやった。
5.結果、アメリカの戦艦は生き残ったが、そのオーナーは一成になった……」
「……そういうことです」
幸は、にっこりと微笑んだ。
それは控えめな笑みの中に満足感が混じった、極上の笑顔だった。
「FRBがやるべき『救済(金融緩和)』を、FRBが拒否したから。代わりに日本海軍がやってあげたんです。
ただし、その代償として……アメリカの産業の首根っこを、頂いちゃいましたけど」
平八郎は、天を仰いだ。
そして、腹の底から呻くような声を出した。
「……あやつは、戦争をしておるのではないな。
あやつは……アメリカという国を、経営しておるのか」
FRBが引き締め(利上げ)を行い、日本海軍が緩和(買い支え)を行う。
本来中央銀行がやるべき仕事を、外国、それも仮想敵の軍隊が代行している。
しかも、その資金源は「三年間のロックアップ」によって、取り付け騒ぎのリスクから完全に隔離されている。
FRB議長よりも、東郷一成の方が、よほどアメリカ経済のことを理解し、そしてコントロールしている。
「……お爺様」
幸はふと素の表情に戻り、少し心配そうに言った。
「でも、これはとっても怖いことなんです。
お父様は、アメリカという巨人を、人工呼吸器で生かしているようなものです。
もしお父様が手を離せば、アメリカは死んでしまいます。でも……アメリカが元気になりすぎたら、今度はその力で、私たちを殴りに来るかもしれません」
「飼い殺し」か、「恩を仇で返される」か。
そのギリギリのバランスの上に、今、父は立っている。
「……そうか」
平八郎は、孫娘の頭をごつごつした手で撫でた。
「お前には、よく見えておるな。一成の羅針盤になるというのは、伊達ではないようじゃ」
「えへへ……」
幸は、照れくさそうに笑った。
だがその胸の内では、未来の記憶と現在の状況を照らし合わせ、冷徹な計算が続いていた。
(史実の大恐慌では、FRBの失敗でマネーサプライが収縮し、アメリカは壊滅した。
でも今回は、お父様が『長期債』というポンプで、無理やり血液を循環させている。
アメリカは死なない。でも、健康にもなれない。日本という点滴チューブが外せない体になってしまった……)
彼女は、自分がワシントンに送った手紙を思い出していた。小百合に託した、アメリカ経済の破綻分析。
あれが、父に「引き金」を引かせたのだ。
父を修羅の道へと唆したのは、他ならぬ自分なのだ。
(私は、もう共犯者なんです。お爺様)
幸は、憑き物が落ちたようにふわりと笑った。
「よし」
平八郎は立ち上がった。
「幸の解説で、わしも腹が決まった。
霞が関の連中に伝えてくる。
『アメリカの銀行(FRB)が馬鹿な真似をしている間に、日本海軍が世界の銀行になってしまったようじゃ。
ならば、腹を据えてドンの如く振る舞え』とな」
老元帥の背中は、久しぶりに若々しく見えた。
幸はその後ろ姿を見送りながら、小さく呟いた。
「……頑張って、お父様。
FRB議長よりも、ずっと頼りになる『海軍銀行総裁』さん」
庭に落ちた紅葉が、鮮やかに燃えていた。
それは海を越えた向こう側で燃え盛る、金融という名の戦場の炎の色に似ていた。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




