全てを見通す株主
時:1929年11月初旬
場所:ニューヨーク、ブロードウェイ71番地 USスチール本社ビル・会長室
窓の外では、マンハッタンの秋風が枯葉を巻き上げていた。
つい先日――10月27日の「海軍記念日」には、この通りも星条旗と海軍のパレードで埋め尽くされ、アメリカの力と繁栄を誇示するファンファーレが鳴り響いていたはずだった。
だが今、USスチール会長マイロン・テイラーの執務室を支配しているのは、葬儀のような静寂と、そして、ある種の屈辱的な安堵感だけだった。
テイラーの目の前には、一人の東洋人が座っている。
東郷一成。
つい数日前、破滅の淵にあったこの会社を「無制限」の資金で救い出し、一夜にして筆頭株主の座に就いた男。
「……ミスター・トーゴー。改めまして、貴国海軍の迅速なるご支援に、心より感謝申し上げます」
テイラーは、苦い唾を飲み込むようにして礼を述べた。プライドはズタズタだ。だがこの男がいなければ、USスチールは今頃株券を紙くず同然にされ、数万人の労働者が路頭に迷っていただろう。それは紛れもない事実だった。
「礼には及びません、ミスター・テイラー」
東郷は出されたコーヒーには手を付けず、穏やかに微笑んだ。
「我々は、貴社の持つ“価値”を正当に評価したに過ぎません。鉄は国家なり。貴社が倒れれば、世界経済の損失です」
その言葉の裏にある「鉄は軍艦なり」という含意を、テイラーが読み取れぬはずもなかった。
彼は意を決して、最も恐れていた質問を口にした。
「……単刀直入にお伺いします。筆頭株主となられた日本海軍は、今後の我が社の経営に、どの程度……“関与”されるおつもりでしょうか?」
テイラーの脳裏には、最悪のシナリオが浮かんでいた。
日本海軍が、USスチールの生産ラインに介入し、アメリカ海軍向けの装甲板や砲身の製造を妨害する。あるいは、技術を盗み出し、日本の工廠へ送る。
もしそうなれば、政府は黙っていない。強制的な国有化か、あるいは資産凍結か。いずれにせよ、会社は死ぬ。
東郷はテイラーの不安を見透かしたように、ゆっくりと首を横に振った。
「ご安心ください。役員を送り込むつもりもなければ、経営方針に口を出すつもりもありません。ましてや、貴国海軍との契約を破棄させようなどとは、微塵も考えておりません」
「……本当ですか?」
「ええ。貴国海軍は、貴社にとって最大かつ最良の顧客です。その優良顧客との取引を邪魔して、我々株主の利益(配当)を損なうような真似を、どうして私がしましょうか?」
東郷は、実に合理的な投資家としての顔で言った。
だが、その直後。彼の瞳の奥に、投資家ではない、冷徹な海軍将校の光が宿った。
「ただし、一つだけお願いがございます」
「……何でしょう」
「『透明性』です」
東郷は、鞄から一枚の書類を取り出した。それは議決権行使委任状ではなく、情報開示請求書だった。
「我々は『物言う株主』になるつもりはありません。経営はプロである貴殿にお任せする。……ただ、我々は『すべてを見通す株主』でありたい」
彼は書類を指先で弾いた。
「月次の生産報告書、在庫リスト、原材料の調達状況、そして……今後の受注見込み。これらを、株主への正当な報告として、毎月ワシントンの日本大使館に届けていただきたい。
もちろん、機密に触れる具体的な軍事スペックなどは黒塗りで構いませんよ。我々が知りたいのは、あくまで経営の健全性を示す“数字”だけですから」
テイラーは、背筋が凍るのを感じた。
東郷は「軍事機密はいらない」と言った。だが鉄鋼メーカーの生産量と在庫、そして受注の増減が分かれば、軍事専門家には何が見えるか?
――アメリカ海軍が、いつ、どれだけの艦艇を建造しようとしているか。
――修理のための鋼材が、どこのドックにどれだけ送られたか。
――景気が後退しているのに鉄の需要が増えているなら、それは何かの作戦準備ではないか。
それらの情報が、ワシントンのペンタゴンやホワイトハウスよりも早く、正確に、日本の海軍武官室に届けられることになるのだ。
しかも「株主の権利」という、資本主義の絶対的なルールの下で。
「……ミスター・トーゴー。それは……そのような詳細な内部データは、他の株主にも公開しておりません。前例がない」
「おや、今は1929年ですよ? 貴国の市場にはまだ厳格な開示義務もない。だからこそ、筆頭株主である海軍と貴方の間の『紳士協定』で済む話ではありませんか」
東郷は氷のような微笑を浮かべ、あえて不思議そうに首を傾げた。
「我々は貴社らを救うために、15億ドルもの巨費を投じたのですよ? その資金が正しく使われているかを知る権利くらいは、認めていただきたいものですな。
……それとも、今ここで保有株を全て市場に放出し、株主総会で経営陣の解任動議を出した方がよろしいですか?」
脅しではない。事実の提示だ。
テイラーは、深く項垂れた。首根っこを掴まれた犬のように。
「……承知いたしました。ご要求のレポートは、毎月欠かさずお届けいたします」
「ありがとうございます。日米の産業界の、良い架け橋になれることを嬉しく思いますよ」
東郷は立ち上がり、完璧な礼儀作法で握手を求めた。
その手は温かかったが、テイラーには、まるで冷たい手錠をかけられたかのような感触しか残らなかった。
⸻
時:同日 夜
場所:ワシントンD.C. 海軍省作戦本部
レイモンド・スプルーアンスは、海軍記念日の飾り付けが虚しく残るオフィスの隅で、水の瓶を抱えていた。
隣ではマーク・ミッチャーが、USスチールからの極秘報告を読み上げている。
「……というわけで、USスチールは日本側に屈しました。今後は、我が海軍が発注した鋼材のデータが、納品されるよりも先に東郷のデスクに届くことになります」
「……ハッピー・ネイビー・デー」
スプルーアンスは、乾杯の仕草から苦い酒をあおるように、水を流し込んだ。
「傑作だな、マーク。俺たちの戦艦『コロラド』の装甲板は、今や日本の所有物だ。俺たちが訓練で砲弾を撃つたびに、その代金の一部がチャリンと音を立てて、日本の海軍省の金庫に入っていくんだ」
「……情報筒抜けですよ、レイ。これでは奇襲も、秘密裏の建艦競争も不可能です」
「ああ、そうだとも」
スプルーアンスは、窓の外の月を見上げた。
「東郷は、俺たちの手足を縛ったりはしなかった。ただ、俺たちの身体中に『鈴』をつけたんだ。
俺たちが動こうとすれば、チリンチリンと音が鳴る。
鉄を買えば鳴る。油を買えば鳴る。電話線を引けば鳴る。
奴はワシントンのオフィスでコーヒーを飲みながら、その音を聞いて微笑むだけだ」
彼は、空になったカップを置いた。
「『すべてを見通す株主』か……。
カズ、お前は本当に、この国の自由を、一番高くつく方法で買い取ってしまったんだな」
1929年の秋。
アメリカの重工業地帯の心臓部に、見えない「聴診器」が当てられた。
その鼓動はこれ以降、常に日本の「主治医」によって監視され続けることになる。
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