空売りの死
時:1929年10月29日(火) 午後4時
場所:ニューヨーク、ウォール街。投資会社「ヴァンス&アソシエイツ」社長室
その男は、ウォール街で「葬儀屋」と呼ばれていた。
アーサー・ヴァンス。
彼は決して景気の良い話には乗らない。彼が動くのは、市場が死臭を放ち始めた時だけだ。過熱した株を空売りし、バブルが弾けた瞬間に買い戻す。他人の不幸を蜜の味とする、冷徹な空売りのプロフェッショナル。
この日の午前中まで、彼は人生で最高の時間を過ごしていた。
読み通りだ。NCPC債の暴落をトリガーに、ダウは崩壊した。
彼は手持ちの資金をフルレバレッジで投入し、USスチール、GE、RCAといった「過大評価された巨人たち」を徹底的に売り浴びせていた。
午前11時。ダウは300ドル台へ突入。
彼の含み益は、天文学的な数字になっていた。
「……勝った。この国の愚かな繁栄は死んだ。俺が引導を渡してやったんだ」
そう呟きながらも、ヴァンスはまだ売り玉に指一本触れなかった。
“真のプロは、最後の一滴まで絞り取る”──それが彼の信条だった。
彼は勝利の美酒として、机の奥から年代物のスコッチを取り出した。
あとは引けまで待ち、紙くずになった株を買い戻せば、彼はアメリカ有数の富豪になるはずだった。
――正午。
運命の歯車が、軋み音を立てて逆回転を始めた。
ティッカーテープが、異様な動きを見せ始めたのだ。
USスチール。130ドル。
……135ドル。
……140ドル。
「……なんだ? 戻している? バカな、自律反発にしては勢いが強すぎる」
ヴァンスはグラスを置いた。
電話が鳴る。フロアの部下からだ。
『ボス! 異常事態です! JPモルガンのホイットニーがフロアに現れました!』
「モルガンか。また買い支えの真似事か? 無駄だ。奴らにそんな弾薬はない」
『違います! 奴ら、“無制限”と言いました! USスチールに150ドルの指値で、無制限の買いを入れています!』
「……は?」
ヴァンスの思考が停止した。
150ドル? 現在値より20ドルも上だぞ?
しかも無制限? 誰の金で?
その瞬間、ティッカーが「150」という数字を叩き出した。
そして、そこからピクリとも動かなくなった。
150ドル以下の売り注文が、すべて瞬時に吸い込まれたのだ。
背筋に、氷水を浴びせられたような戦慄が走った。
これは「買い支え」ではない。「価格の固定」だ。
誰かが市場の引力を無視して、無理やり岩盤を設置したのだ。
『ボス! GEもです! デュポンも! 銀行団が……いや、噂では“日本”が買っていると!』
「日本……だと……?」
ヴァンスは受話器を落とした。
その瞬間、彼の脳裏に自身のポジション(空売り)の意味が、死刑宣告となって蘇った。
彼は、株価が下がることに賭けていた。
だが今株価はV字回復し、150ドルという高値に張り付いている。
空売りポジションを解消(決済)するには、市場で株を買い戻さなければならない。
いくらで?
――150ドルで。
「……マージン・コール(追証)だ」
彼は呻いた。
午前中の暴落で膨れ上がっていたはずの含み益は、一瞬で消し飛んだ。それどころか、急騰による莫大な含み損が、証拠金の枠を食い破っていた。
電話が再び鳴る。今度はプライム・ブローカーからだ。
『ミスター・ヴァンス。証拠金維持率が割れました。即刻、追加証拠金を入金してください。さもなくば、強制決済します』
「待て! 待ってくれ! これは異常値だ! 日本軍の介入なんてイカサマだ! 明日にはまた下がる!」
『議論している暇はありません。相手は“無制限”だと言っているのです。これ以上踏み上げられたら、あなたの会社だけでなく、我々まで死にます!』
「やめろ! 決済するな! 俺の読みは正しいんだ! アメリカ経済は死んでいるんだ!」
『……残念です、サー。成行で買い戻します』
ガチャン。
無機質な音が、彼の破産を告げた。
彼の意思とは無関係に、システムが彼の空売りポジションを強制的に解消し始めた。
ヴァンスのような空売り筋が一斉に強制買い戻し(ショート・スクイズ)を迫られたことで、株価はさらに上昇圧力を受ける。
皮肉なことに、彼ら「アメリカの破滅に賭けた男たち」の断末魔が、東郷一成の「サムライ・プット」を完成させる最後の燃料となったのだ。
午後4時。
市場は引けた。
ダウ平均は奇跡的な回復を見せた。
だが社長室のヴァンスは、空になったスコッチのボトルを前に、廃人のようになっていた。
彼は正しかった。
アメリカ経済はファンダメンタルズ的に死んでいる。FRBは利上げをし、実体経済は崩壊に向かっている。株が上がる理由など、どこにもない。
だが、彼は負けた。
なぜか?
「……ルールが、変わったんだ」
彼は、震える手で拳銃を机の引き出しから取り出した。
「これまでは、市場が神だった。神は気まぐれだが、長期的には合理的に裁きを下した。
だが今日から……神は死んだ。
新しい神の名は、『日本帝国海軍』だ」
彼は窓の外、ウォール街の谷底を見下ろした。
そこには、東郷一成という異邦人が敷いた「見えない鉄の天井」と「見えない鉄の床」がある。
アメリカの主要産業――鉄鋼、電機、化学、通信。
これらは今後、日本海軍の許可なくしては、暴落することすら許されないのだ。
「……空売り(ショート)は、死んだ」
ヴァンスは悟った。
今後、軍需株を売ることは、日本海軍という国家予算を持つ怪物に喧嘩を売ることを意味する。
そんな勝負に勝てる投資家など、この地上には存在しない。
彼は、自らのこめかみに冷たい銃口を当てた。
引き金を引く直前、彼の脳裏に浮かんだのは、恨みでも怒りでもなく、奇妙な敬意だった。
(……見事だ、トーゴー。あんたは、カネで俺を殺したんじゃない。
あんたは、この自由の国から『敗北する自由』さえも買い取ってしまったんだな……)
銃声はマンハッタンの喧騒にかき消され、誰の耳にも届かなかった。
ただ、翌日の新聞の片隅に「著名相場師、破産により自殺」という小さな記事が載っただけだった。
時:1929年11月初旬
場所:ワシントンD.C.
嵐のような数日間が過ぎ去り、ワシントンの街に冷たい初冬の風が吹き始めた頃。日本大使館の門前に、一人の少年が立っていた。
年齢は十二、三歳だろうか。粗末な服を着ているが、その瞳には大人びた光が宿っている。彼の手には、靴磨きの道具箱が握りしめられていた。
警備の海兵隊員が追い払おうとした時、東郷一成がちょうど車で戻ってきた。
「……どうした」
「はっ、この子供が『日本人に会わせろ』とうるさくて」
東郷は車を降り、少年の前に立った。
「私に用か、少年」
少年は、東郷の軍服の階級章を見ても怯まなかった。彼は道具箱の中から、一枚のくしゃくしゃになった紙切れを取り出した。
それは、NCPC債の先物取引の受領証だった。
しかも、そこには「売り(ショート)」の印字があった。
「……あんたが、ボスか」
少年は、睨みつけるように言った。
「あんたのせいで、俺の貯金は全部パーだ。チップを貯めて、やっと買った一枚だったのに」
彼はあの暴落の局面で、ウォール街の熱狂とは逆に「下がる」ほうに賭けていたのだ。おそらく、街の大人が「もう終わりだ」と騒ぐのを聞いて、賢いつもりで売り注文を出したのだろう。
だが、東郷の「サムライ・プット」による急反発で、彼の虎の子の小遣いは強制決済の露と消えた。
東郷は、その受領証をじっと見つめた。
そこにあるのは、わずか数十ドルの損失。だがこの少年・ピーターにとっては、全財産であり、未来への切符だったはずだ。
「……悔しいか」
「当たり前だ!」少年は叫んだ。
「俺は間違ってなかった! アメリカの景気は悪いんだ! 親父も失業した! なのに、なんで株だけ上がるんだよ! あんたたちがズルをしたからだろ!」
その叫びは、死んだ相場師ヴァンスの言葉と重なった。
正しい認識を持っていた者が、理不尽な力によって踏み潰される。それが相場であり、そして戦争だ。
「……そうだ。私はズルをした」
東郷は、あっさりと認めた。
「私は、市場のルールを金で書き換えた。だから君は負けたのだ」
少年は、呆気にとられた。大人がこれほど正直に自分の非道を認めるとは思わなかったのだ。
「……じゃあ、返せよ。俺の金を」
「それはできない」東郷は首を横に振った。
「相場は相場だ。負けは負けだ。それを返してしまえば、私は嘘つきになる」
少年が泣きそうな顔で拳を握りしめた時、東郷は懐から一枚の真新しいNCPC債――今やプラチナチケットと化した現物――を取り出した。
「だが、君には見込みがある。
周りの大人が熱狂している時に、一人で冷静に『逆』を張れる度胸。そして最初に負けた相手の懐に飛び込んでくる勇気。……それは、商売人にとって一番大切な才能だ」
東郷は、その証券を少年の道具箱の上に置いた。
「これは、君の『負け』を帳消しにする金ではない。
君のその『才能』に対する、私個人からの投資だ」
「……投資?」
「ああ。君はこの国が貧しくなることを見抜いていた。なら、これからはどうする?
この証券は、三年後には確実に値上がりしている。それまで持っておくもよし、今すぐ売って親父さんの仕事を作る資金にするもよし。
……使い道は、君が決めろ」
少年は、震える手で証券を掴んだ。
「……なんで、俺に?」
「君が、新しいアメリカだからだ」
東郷は、少年の煤けた靴を見た。
「古いアメリカは、夢に酔って死んだ。これからは、君のように現実を冷徹に見つめ、泥にまみれても生き抜こうとする者たちの時代だ。
……その新しい靴で、しっかりと歩け」
東郷は少年の肩をポンと叩くと、大使館の中へと消えていった。
残された少年は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
手の中にある、日本の軍艦の絵が描かれた紙切れ。
それは、施しだったのかもしれない。
だがその重みは確かに、彼と彼の家族を救う「命綱」の重さだった。
彼は涙を袖で拭うと、道具箱を抱え直した。
その足取りは、来る時よりも少しだけ強く、そして速かった。
その様子を見ていた橘小百合が、静かに言った。
「……いいのですか、大佐。あれは軍の資産では?」
「あれは“私の任務債”だよ。ワシントンでの功績に対する、個人的な与信分だ。
どう使おうが、経理局は文句を言えない」
「……甘いですね、大佐」
「……そうかな」
東郷は、コーヒーを啜った。
「あれは、未来の顧客への先行投資だよ。……あの子はきっと、将来大物になる。その時に、最初の資金を出したのが日本だったと覚えていてくれれば、安いものさ」
小百合は、ふっと笑った。
この人はえげつない手口に躊躇がないが、その瓦礫の中で小さな種を撒くことを忘れない。
その矛盾こそがこの「見えざる帝国」の本当の強さなのかもしれないと、彼女は思った。
いつもお読みいただきありがとうございます。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや感想、ページ下の【★★★★★】で評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります。




