NCPC債禁止法案
時:1929年10月30日(水) 午前10時
場所:ワシントンD.C.
昨日の「奇跡」から一夜明け、市場は再び疑心暗鬼の霧に包まれていた。
ワシントンの記者クラブから、一つの不穏な噂がリークされたのだ。
『ホワイトハウスと議会、NCPC債の全面禁止法案を準備中』
その一報が流れた瞬間、市場は再びパニックに陥った。
東郷の買い支えで一息ついた投資家たちが、再び恐怖に駆られたのだ。
「政府がNCPC債を違法にするらしいぞ!」
「明日にはただの紙屑だ! 今すぐ投げ売れ!」
これまで「神の債券」として高値で取引されていたNCPC債の市場価格が、垂直落下を始めた。
東郷が用意した「長期債(3年ロックアップ)」への交換窓口にはまだ殺到しているが、市場で流通しているNCPC債は「ババ抜き」の対象となった。
そして、その衝撃は即座に株式市場へと波及した。
当時の投機家の多くは、「値上がりしたNCPC債」を担保に銀行からドルを借り、そのドルで米国株を買っていたからだ。
NCPC債の価格暴落 により、 担保価値が激減。
強制決済の嵐。
NCPC債への規制の噂が、巡り巡って「米国株(ダウ平均)」へのトドメの一撃となった。
さらに、恐怖は銀行そのものへと向かった。
「銀行がNCPC債を大量に持っているらしいぞ」
「政府がそれを紙屑にするなら、あの銀行は破産だ!」
預金者が銀行に殺到する。「俺のドルを返せ!」
銀行は現金がないため、さらに資産(株や債券)を売らざるを得なくなる。
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時:同日 午後1時
場所:連邦議会議事堂
「NCPC債禁止法案」の審議が始まったその瞬間、議場に急報が入った。
「議長! ニューヨークから緊急連絡です!
『禁止法案』のニュースが流れた瞬間、NCPC債先物が暴落!それに連動して、ダウ平均がさらに50ドル急落しました!」
議場が凍りつく。
法案の提案者である強硬派の議員が、青ざめた顔で立ち尽くす。
「ば、馬鹿な……我々は国民の資産を守るために……」
そこにウォール街の銀行団からの悲痛な電話が、各議員の元に殺到し始めた。
『あんたら正気か!? 俺たちの金庫にはNCPC債が山ほどあるんだぞ!それを「違法」にされたら、我々は今夜中に債務超過で倒産だ!
預金者数百万人が路頭に迷うぞ! それでもいいのか!?』
ホワイトハウスで報告を聞いたフーヴァーは、頭を抱えた。
「……議会が『規制する』と言っただけで、市場が死んだのか」
彼はエンジニアとして知っていたはずだった。複雑に組み上がった機械(経済)に、粗雑な工具(法律)を突っ込めば、機械ごと爆発することを。
NCPC債は、もはや「異物」ではなく、アメリカ経済を支える「骨格」の一部になってしまっていたのだ。それを引き抜けば、体ごと崩れ落ちる。
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時:10月31日(木)
場所:連邦議会議事堂
運命の採決の日。議員たちは、青ざめた顔で投票ボタンに手をかけていた。
彼らが恐れたのは「日本の侵略」ではない。
「自分たちが賛成票を投じた瞬間に、自分の選挙区の銀行が潰れる」という即時的な恐怖だった。
「……反対。反対だ! この法案を廃案にしろ!
NCPC債の価値を戻さないと、国が死ぬ!」
結果、法案は圧倒的多数で否決された。
そして皮肉なことに、「議会が禁止を否決した(=NCPC債の合法性を再確認した)」というニュースが流れた瞬間、市場は安堵し、NCPC債(と東郷の長期債)への資金逃避がさらに加速した。
アメリカ合衆国議会は、自らの手で、NCPC債を事実上「合法」と認め、その価値を保証してしまったのだ。
それは「予言の自己成就」という名の、あまりにも滑稽で、あまりにも悲惨な喜劇の幕切れだった。
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ワシントンの日本大使館で、東郷一成はその報告を聞き、静かにコーヒーを啜った。
「……勝ったか。なら、いい」
彼の目には、勝利の喜びなどなかった。あるのは、壊れた玩具を修理しなければならない職人のような、冷徹な義務感だけだった。
彼の机の上には、一枚のリストが置かれている。
それは株式の銘柄リストなどではなかった。それは「アメリカ合衆国の戦争遂行能力一覧表」そのものだった。
副官の伊藤整一が、震える指でそのリストをめくっていた。
「……ゼネラル・エレクトリック(GE)。主な製品は発電タービン、ラジオ機器、そして……」
伊藤は息を呑んだ。
「……電気推進機関。レキシントン級空母の心臓部です」
「続けろ」
東郷は、窓の外の紅葉を見つめたまま促した。
「……デュポン社。火薬、化学薬品。……合衆国軍の弾薬のシェアの過半を握っています」
「……USスチール。戦艦の装甲板、砲身の鋳造……」
「……AT&T。軍用通信インフラ……」
読み上げるたびに、伊藤の声は小さくなっていった。
この数日間の「サムライ・プット(買い支え)」によって、日本海軍(の名義を借りたJPモルガンなどの代理人)が筆頭株主、あるいはそれに準じる地位を確保した企業のリスト。
それは単なる優良企業のリストではなかった。
アメリカが戦争をするために必要な、筋肉、神経、血液、その部品表だった。
「……大佐」
伊藤は顔を上げた。その表情は勝利の喜びに酔うものではなく、あまりにも巨大な怪物を手懐けてしまった調教師の恐怖に近かった。
「我々は……アメリカ軍の兵器庫の鍵を、買い取ってしまったということですか?」
「鍵だけではない」
東郷は振り返った。その瞳は冷徹に澄んでいる。
「彼らが将来、我々と戦うために戦艦を造れば造るほど、その利益(配当)は我々の懐に入り、我々の戦艦を造る費用になる。……彼らが引き金を引けば引くほど、我々の弾薬庫が潤うのだ」
東郷は、リストの最後に記された『IBM』の項目を指で弾いた。
「そして何より重要なのは、彼らの『技術』だ。
今この瞬間から、GEの研究室で開発されている新技術の基礎理論も、デュポンの新しい合成ゴムの技術も、株主である我々には『経営状況の視察』という名目で、合法的にアクセスする権利が生まれる」
それはスパイを送り込む必要すらない、堂々たる技術情報の吸収ルートだった。
「……恐ろしいことです」
伊藤は呻いた。
「アメリカは、自国の軍需産業が敵国の財布になっているとも知らずに、これからも軍拡を続けるのでしょうか」
「いや、気づいているだろう」
東郷は薄く笑った。
「だが、もう遅い。彼らの議会は昨日、NCPC債の合法性を認めてしまった。今さら『日本海軍の保有株を没収する』などと言えば、法の支配は崩壊し、やっと落ち着いた市場は再び大暴落する。……彼らは、この『呉越同舟』を受け入れるしかないのだよ」
東郷は、金庫から一本のシャンパンを取り出した。
それは、勝利の美酒ではない。
これから始まる、より困難で、より複雑な「管理」という名の戦争への、儀式のようなものだった。
「……伊藤君。これで終わりではない」
東郷は静かに言った。
「我々は今、アメリカの心臓を握った。だが、心臓を握るということは、その鼓動を止めない責任を負うということだ」
東郷の瞳に、冷たい光が宿った。立ち上がり、窓の外を見た。ワシントンの空はどこまでも青く、そして冷たかった。
「……ホイットニー君は、うまくやってくれたようだな。
さあ、伊藤君。次の手だ。
買い占めた株の議決権行使について、ウォール街の弁護士団と打ち合わせを行う。
我々は『物言う株主』になるつもりはない。……ただ、『すべてを見通す株主』になるだけだ」
その日の午後、ニューヨーク証券取引所は、奇妙な安定を取り戻した。
ダウ平均は大きく値を戻し、市場は一息ついた。
ニュースキャスターは、「日米経済協力の勝利」を高らかに謳い上げた。
だがその安堵の影で、アメリカという巨人の手足には、見えない鎖が幾重にも巻き付けられていた。
その鎖の名は「資本」という。
そしてその鍵を握っているのは、ワシントンの小さな大使館の一室にいる、一人の日本人だった。
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時:同日
場所:ニューヨーク、ヘラルド・トリビューン紙・編集局
経済記者のベン・カーターは、編集長から突き返された原稿を、ゴミ箱に放り込んだ。
『売国の日:いかにして議会は国家の魂を日本に売り渡したか』
「……ボツだ、ベン」
編集長は、疲れた顔で言った。
「今はそんな記事は載せられん。世論を見てみろ」
編集長が指差した先には、各紙の朝刊が並んでいた。
『日本海軍、市場の救世主に! 暴落を食い止める!』
『友情の証! 日米経済協力がアメリカを救った』
『フーヴァー大統領、“最大の同盟国”に感謝の意を表明へ』
ベンは唇を噛み締めた。
国民は、真相などどうでもよかったのだ。
自分の預金が守られ、株価が戻り、明日の生活が繋がった。その事実の前では「誰が金を出したか」など些細な問題に過ぎなかった。
「……彼らは、借金の証文にサインしたことにすら気づいていない」
ベンは呟いた。
「日本は、慈善事業で金を出したんじゃない。この国の首輪を買ったんだ。……これから先、ワシントンが東京に向かって『NO』と言おうとするたびに、ウォール街が『やめろ! 株が下がる!』と悲鳴を上げて止めることになる」
編集長は、コーヒーを啜りながら言った。
「……それが資本主義だ、ベン。金を出した奴がルールを決める。お前が信じていた“市場の神”が下した審判だよ」
ベンは、窓の外を見た。
摩天楼は、昨日と同じように聳え立っている。
だがその影は、昨日よりも少しだけ長く、そして濃く、アメリカの大地を覆っているように見えた。
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