サムライ・プット 後編
時:同日 午後2時
場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、オーバルオフィス
財務長官アンドリュー・メロンは、受話器を握りしめたまま、彫像のように固まっていた。受話器の向こうからは、ニューヨーク連銀総裁の悲鳴のような報告が続いていた。
『……長官! JPモルガン経由での買い注文が止まりません! USスチールは150ドルで底を打ち、反発に転じました! GEも、デュポンもです! 市場は「日本が救ってくれた」と狂喜しています!』
「……止めろと言っているだろう!」
メロンは怒鳴った。
「その金は、我が国から盗まれた金だぞ! それで我が国の株を買うなど、泥棒が盗んだ金で家を買い戻すようなものだ!」
『止めたらどうなるか、お分かりですか!? 今、オーダーブックに並んでいる買い注文の原資は、全て日本軍のものです! これを取り消せば、ダウは今すぐ50ドルまで落ちます! 誰が責任を取るんですか!』
メロンは言葉を失い、受話器を落とした。
フーヴァー大統領は、窓の外を見つめたまま動かなかった。彼の頭の中では、冷徹な方程式があまりにも残酷な解を導き出していた。
「……アンドリュー。我々には、15億ドルがない」
フーヴァーは静かに言った。その声は乾ききっていた。
「議会を招集しても、承認には数週間かかる。その間に国は滅びる。……そして何より、我々共和党には『政府が株を買う』という選択肢は許されていない」
「では、日本に我が国の魂(基幹産業)を売り渡せとおっしゃるのですか!?」
「魂だけで済むなら、安いものだ」
フーヴァーは振り返った。その目は、敗北を受け入れた撤退戦を戦う将軍のそれだった。
「考えても見ろ。もし今、我々が取引を停止させ、東郷が『では、市場に売ります(支援を引き上げます)』と宣言したらどうなる?
国民はこう思うだろう。『日本軍は助けようとしてくれたのに、アメリカ政府がそれを邪魔して、我々を殺した』とな」
その言葉に、同席していたスティムソン国務長官が息を呑んだ。
そうだ。東郷の恐ろしさはそこにある。
彼は「善意の救済者」という仮面を被っている。その仮面を剥がそうとすれば、政府こそが「国民の敵」になってしまうのだ。
「……東郷は、我々を『共犯者』にするつもりだ」
フーヴァーは呻いた。
「彼に株を買わせ筆頭株主にすれば、市場は助かる。銀行も助かる。国民も一時的には救われる。……その代償として、我々は将来、彼らの顔色を窺わなければ戦艦の装甲板一枚、電話線一本調達できなくなる」
室内には、重苦しい沈黙が流れた。
ティッカーの音が、遠くから聞こえる死刑執行のドラムのように響く。
「……認めよう」
フーヴァーは決断した。
「取引を承認する。……ただし、条件をつける。表向きはあくまで『民間銀行団による救済』だ。日本の名前は出すな。……せめてもの抵抗だ」
「……無駄でしょうな」メロンが力なく笑った。
「市場はとっくに知っていますよ。誰が本当の『主人』なのかを。経営陣は、日本大使館の方角に向かって毎朝礼拝することになるでしょう」
その日、午後3時の鐘が鳴る頃。
ウォール街は「奇跡の反発」に沸いていた。ダウ平均は400ドル台まで急反発していた。
日本海軍が指名した「重厚長大」産業――すなわち、将来の戦争遂行能力に直結する銘柄だけが、垂直に跳ね上がったのだ。
「日本だ! 日本のカイグンが買いに来たぞ!」
「USスチールがストップ高だ! 売るな、もっと上がるぞ!」
一方で、リストから漏れた企業――百貨店、繊維、ラジオなどの軽工業株は、見向きもされずに暴落を続けた。市場は残酷に二分された。「日本に選ばれた株(生存者)」と「選ばれなかった株(死者)」に。
引け際、ダウ平均は見かけ上「奇跡のリバウンド」を演じていた。
だが、その中身は変質していた。
たった数時間の「サムライ・プット」によって、アメリカの軍需・重工業セクターの株式の5%から10%が、日本海軍のダミー口座へと吸い込まれていたのだ。
「謎の買い手」の正体が日本海軍であると知れ渡っても、もはや誰も文句を言う者はいなかった。溺れる者は、救助船の国籍など問わない。
だが、ホワイトハウスの住人たちだけは知っていた。
今日、アメリカという国家は死ななかった。
その代わりに、その心臓部に摘出できない「ペースメーカー」を埋め込まれたのだと。
そしてそのスイッチを握っているのは、ポトマック川の向こうにいる、一人の日本人であると。
⸻
時:同日 午後5時
場所:ワシントンD.C. 日本大使館前
株式市場が引けた直後、日本大使館の窓口には、昨日までとは比較にならない種類の「カネ」が押し寄せていた。
列に並んでいるのは、ただの市民ではない。
先ほどの「サムライ・プット」で九死に一生を得て、暴落する株を日本海軍(JPモルガン経由)に売りつけ、ドル現金を手にした投資家たちだった。
「助かった……! 日本人が高値で買ってくれたおかげで、現金が残った!」
一人の投資家が、汗まみれのドル札の束を握りしめて叫んだ。
だが、このドルをどうする?
銀行は潰れそうだ。
株はもうこりごりだ。
国債? 貴金属?
政府が金利や価格を弄っているのに信用できるか!
「で、どうするんだ? また株を買うのか?」
「馬鹿を言え! 二度とごめんだ!」
投資家は、大使館の窓口を指さした。
「この借金を払った残りのドルを、全部『長期債』に換えるんだ!」
奇妙な、しかし合理的な理屈だった。
アメリカの株を救ったのは、アメリカ政府(FRB)ではなく、日本海軍の資金力だった。
ならば、ドルを持っているよりも、そのドルを日本海軍に預けた方が、遥かに安全ではないか?
「アメリカが助かったのは、日本海軍のおかげだ。だから、日本海軍を買え」
この倒錯したロジックが、猛烈な勢いでドルを日本大使館へと吸い寄せていた。
窓口の伊藤整一は、集計担当が弾き出す数字を見て、眩暈を覚えた。
「……大佐。本日の『長期債』販売額……推計で20億ドルを超えます」
その巨大な数字は、もはや単なる資金ではない。
アメリカ国民の「恐怖」と「希望」が、日本海軍という名の金庫に封印された重みそのものだった。
東郷は窓の外を見た。大使館の前には、まだ長蛇の列が続いている。
その列の中に、彼は昼間、市場で株を売って助かったはずの投資家たちの顔を見た気がした。
「見てみたまえ、伊藤君。これが『サムライ・プット』の正体だ」
東郷は、ガラスに映る自分の顔に語りかけた。
「我々は昼間、15億ドルを市場に放出した。アメリカの株を買い、彼らを救うために。
そして夕方、彼らはその15億ドルの過半を握りしめて、ここへ戻ってきた。『この金で、長期債を売ってくれ』と懇願しながらな」
東郷は、金庫を指さした。
「つまり我々は、実質タダでアメリカの基幹産業の株を手に入れ、その上で彼らの忠誠心と、逃げ場のない依存心まで手に入れたのだ」
資金の還流。
東郷が放出したドルは、アメリカ経済という体内を一巡りし、アメリカの所有権というお土産を携えて、再び東郷の元へと帰ってきたのだ。
「……恐ろしいですね」伊藤が呟く。「アメリカは、自らの血を我々に捧げることでしか、生き延びられない体になってしまった」
「ああ。だが、これからが本当の地獄だ」
東郷は、壁に貼られたFRBの金利チャート(6%へ急騰中)を睨んだ。
「長期債で我々が吸い上げた約50億ドル。……市場からこれだけの血が抜けた状態で、FRBは止血(緩和)どころか、さらに首を絞め(利上げ)ている。
明日以降、実体経済の壊死が始まるぞ。失業、倒産、飢餓。……我々が手に入れた株券の会社も、下手をすれば半分は潰れるかもしれん」
「では、サムライ・プットは無駄だったと?」
「いいや」
東郷は、瞳に冷徹な光を宿した。
「潰れるなら、再建すればいい。我々の手でな」
大使館の外では、まだ列が続いていた。
彼らは自分たちの国を売っているのではない。
ただ生き残るために、最も強い「制度」を選んだだけなのだ。
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