サムライ・プット 前編
1929年10月29日、火曜日。
後に「悲劇の火曜日(Tragic Tuesday)」と呼ばれることになるその日、ニューヨークの空は皮肉なほどに澄み渡っていた。
だが、ウォール街の谷底には死臭が充満していた。
午前10時の取引開始のゴングは、処刑の開始を告げる鐘の音だった。
売りが売りを呼び、恐怖が恐怖を加速させる。
週末に東郷一成が「方舟」を用意したことで、賢明な資金はすでに市場から逃げ出していた。残されていたのは、FRBの利上げから逃げ遅れた敗者たちと、紙くずになった株券の山だけだった。
「……400ドルを、割ったぞ……」
ギャツビー&カンパニーのトレーディングフロアで、誰かがうわ言のように呟いた。
ダウ平均株価は、まるで重力加速度がついた鉛のように落下していた。
500ドル、400ドル、そして300ドル。
人類史上類を見ない繁栄の塔が、わずか数日で瓦礫の山へと変わっていく。
若きトレーダー、レオは、受話器を握りしめたまま呆然としていた。
電話の向こうでは、顧客が泣き叫んでいる。あるいは、罵っている。だがレオの耳には、もう何も届いていなかった。
ティッカーテープは一時間以上も遅れている。今、手元にある株がいくらなのか、誰にも分からない。分かっているのは「ゼロに向かっている」という事実だけだ。
「……終わりだ」
隣で古参のスチュアートが、床にへたり込んだ。その目は虚ろで、手元のメモ帳には意味のない落書きが震える線で描かれていた。
「ゼネラル・モーターズも、GEも、全部終わりだ。アメリカは死んだんだ」
誰もが、この国の資本主義の葬列を見守っていた。その時だった。
⸻
時:同日 正午
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成の執務室は、戦場のような喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。
しかし、その静けさは安らぎではない。手術台の上の患者を見下ろす外科医の、張り詰めた緊張感だった。
「……FRBの馬鹿どもめ」
東郷は、昨日の電報を改めて握りつぶした。
「この体たらくを見ろ。この期に及んで金利を引き上げるとは。出血多量でショック死寸前の患者に、瀉血をするようなものだ」
橘小百合が、蒼白な顔で言った。
「大佐、市場は壊滅状態です。ダウは350ドル台へ突入。このままでは、アメリカ経済は心肺停止します。……我々の『長期債』への資金逃避も、相手が死んでしまっては意味がありません」
「その通りだ」
東郷は立ち上がり、金庫のダイヤルに手をかけた。
「今アメリカが死ねば、我々も共倒れだ。……小百合君、輸血を行う」
「ゆ、輸血……ですか?」
「そうだ。昨日までに我々が吸い上げたドル。あれはもともと、この市場の血液だ。それをポンプで強制的に還流させる」
東郷は受話器を取り上げた。直通回線の相手は、JPモルガンのトーマス・ラモントだ。
「……ラモントさん、東郷です。……ええ、知っています。地獄でしょう。……助け舟を出しますよ。……ええ。ただし条件がある。
我々は、表立って株を買うわけにはいきません。『日本による乗っ取りだ』と騒がれては困りますので。
だから、貴行に資金を預託する。形式は『日米経済安定化基金』だ。この資金を使って、貴行が市場を買い支えなさい。名義はJPモルガンでいい。だが、買う銘柄とタイミングは、こちらが指定する」
「……予算ですか? ……とりあえず、15億ドルまでなら即金で出せます。……昨日までの稼ぎの半分強だ。安いものでしょう?」
受話器を置いた東郷の瞳には、冷徹な光が宿っていた。
これで、恩を売れる。
⸻
正午。ダウは350ドル台へと突入しようとしていた。
市場機能は完全に麻痺し、絶望が物理的な重さを持ってフロアの全員を押し潰そうとしていた、その時だった。
フロアの入り口がざわめき、人垣が割れた。
現れたのは、JPモルガンのリチャード・ホイットニー副頭取だった。
彼は上質なスーツに身を包み、この地獄のような喧騒の中で、一人だけ異質なほどの冷静さを保って歩を進めた。彼が向かったのは、市場の象徴である「USスチール」のポスト(取引場所)だった。
群がるトレーダーたちが、救世主を見るような目で彼を見上げる。
前回の暴落時、銀行団は買い支えを行った。今回も助けてくれるのか?
ホイットニーは群衆を見回し、よく通る声で叫んだ。
「……USスチール、150ドルで買いだ!」
その瞬間、フロアの空気は「恐怖」から「呆然」へと変わった。
現在の実勢価格は、おそらく130ドルを割り込んでいる。150ドルといえば、暴落前の水準に近い。
常軌を逸した高値での買い注文。
一人のジョバー(仲買人)が、震える声で尋ねた。
「……す、数量は!?」
銀行団の資金など知れている。どうせ数千株の見せ金だろう。
だが、ホイットニーは手元のメモ――東郷一成から送られた『リスト』――を一瞥し、静かに、しかしフロア全体を凍らせる声で告げた。
「無制限(No Limit)だ。 売り注文がある限り、全て、150ドルで吸い上げる」
静寂。そして爆発。
「買いだ! 銀行団が本気だぞ!」
「売るな! 踏み上げられるぞ!」
無制限。
それは、売り注文がどれだけ出ようとも、市場にある全ての株を買い尽くすまで止まらないということだ。
銀行団にそんな体力はないはずだ。彼らはNCPC債デリバティブで焼かれ、長期債を買うのに必死な瀕死の状態のはずだ。
「誰だ!? 誰が買っているんだ!?」
「モルガンか? ロックフェラーか?」
ホイットニーは、懐から一枚のメモを取り出した。それは、買い注文を入れるべき「指定銘柄リスト」だった。
彼は、次々と叫んだ。
「ゼネラル・エレクトリック(GE)! デュポン! AT&T! ウェスティングハウス! IBM! ……全ての銘柄に対し、現在値の20%増しで買いを入れる!」
そのリストを聞いた瞬間、フロアにいた古参のトレーダー、スチュアートの顔色がサッと変わった。
鉄鋼。重電。化学。通信。
それは単なる優良株ではない。
「……おい、待てよ。……あいつら、アメリカの“軍需産業”を買い占める気か?」
だが、そんな懸念は熱狂にかき消された。
情報は光の速さで駆け巡った。その資金の出処は、ニューヨークの銀行ではない。ワシントンD.C.の、ある大使館から送金されたものだ、と。
「……日本だ」
誰かが叫んだ。
「日本のカイグンが、金を出しているぞ!」
「『長期債』で吸い上げた俺たちのドルを、全部ここにぶち込む気だ!」
その瞬間、市場の空気が変わった。
絶望は、屈辱と、そして安堵がない交ぜになった、奇妙で歪んだ熱狂へと変わった。
アメリカの誇りである基幹産業が、昨日まで「猿」と内心馬鹿にしていた東洋の軍隊に救済される。
自由の国アメリカの象徴であるウォール街が、軍国主義の日本海軍の資金によって、首の皮一枚で繋ぎ止められる。
だが、溺れる者は藁をも掴む。
たとえその藁が、軍艦から投げられた、鋼鉄の鎖であったとしても。
「……買いだ! 日本が支えるなら、底はここだ!」
「GEもだ! デュポンも買え! 日本海軍が買う銘柄に乗れ!」
プライドなど、とうに捨てた。生き残るためなら、悪魔に魂を売ってもいい。
フロア中に、「カイグン! カイグン!」という叫び声が響き渡った。
レオは受話器を握りしめ、震える声で叫んだ。
「買い戻せ! 全部だ! 『サムライ・プット(日本海軍の買い支え)』が入った! この船は沈まない! 日本人が底を塞いでくれたんだ!」
この日、後に金融史に刻まれることになる「サムライ・プット」が発動した。
⸻
ダウ平均は奇跡的な反発を見せ、市場は首の皮一枚で死の淵から生還した。
しかし、その日引け後のウォール街の酒場では、誰もが複雑な表情でグラスを傾けていた。
スチュアートは、バーボンをあおりながら、若きレオに言った。
「……命は助かったな、レオ」
「ええ。日本のカイグン様々ですよ。あいつら、とんでもない金持ちですね」
「……だがな」
スチュアートは、店のラジオから流れるニュース――JPモルガンと日本大使館の「日米金融協力」の速報――を聞きながら、低く呟いた。
「俺たちの国の、鉄も、電気も、電話も、火薬も。……今日からその実質的なオーナーは、日本海軍だ。俺たちは生き延びたが、首輪をつけられたのかもしれんぞ」
レオは答えなかった。ただ手元のNCPC債の受領証を、お守りのように握りしめるだけだった。
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