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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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イヤーマーキング

時:1929年10月28日(月) 午前10時

場所:ニューヨーク、マンハッタン島南端


 週末の二日間は、安息日ではなかった。それは、恐怖が熟成されるための培養期間だった。


 日曜の教会の説教壇からは「強欲への罰」が叫ばれ、ラジオのニュースは欧州市場の動揺を伝えた。そして何より、人々の口の端に上る「噂」が恐怖を決定的なものにした。


『……聞いたか? フーヴァー大統領が、月曜にもNCPC債の取引禁止令を出すらしいぞ』

『資産凍結だ! 政府は、俺たちが日本へ資産を移すのを防ぐために、預金封鎖をする気だ!』


 根拠のないデマだった。だが不信にまみれた国民にとって、それは政府ならやりかねない「真実」として響いた。


「禁止される前に逃げろ」


 その集団心理が、自己成就的予言となって月曜日の朝を待ち受けていた。


「売りだ! 成り行きで全部売れ! 値段なんかどうでもいい!」


 ウォール街の悲鳴は、物理的な振動となって摩天楼を揺らした。


 GM、USスチール、RCA――かつてアメリカの繁栄を象徴した銘柄たちが、見るも無惨な赤い数字となって崩れ落ちていく。


 ダウ平均株価は、開始早々に600ドルを割り込み、さらに加速して 500ドルの防衛ラインを突破 した。ピークからわずか数日で23%の消失。


 そしてその崩壊がトリガーとなり、死のフィードバックループが、ついにその全貌を現して回転を始めた。


 第一段階:換金売りと取り付け騒ぎ

 株が暴落する。投資家は追証マージン・コールを埋めるために銀行へ走る。

 銀行は貸付金が焦げ付き、手元資金が枯渇する。

 その噂を聞きつけた預金者が、

「銀行が潰れるぞ!」と叫んで窓口に殺到する。


 第二段階:キャピタルフライト(資本逃避)

 引き出されたドル紙幣は、タンス預金にはならなかった。

 人々は、ドルそのものを信じていなかったからだ。彼らは札束を抱え、唯一の「聖域」へと走った。

 ワシントンD.C.の日本大使館、および全米の提携銀行窓口である。

「日本の債券をくれ! アメリカの株なんかより、日本の軍艦の方が信用できる!」


 第三段階:流動性の枯渇

 市場から吸い上げられたドルは、日本海軍の口座(金庫)へと一方通行で吸い込まれ、そこで凍結ロックアップされる。

 アメリカ経済の血液が、みるみる失われていく。貧血を起こした巨人は、痙攣を始めていた。



時:同日 午後2時

場所:ニューヨーク、リバティ・ストリート33番地、ニューヨーク連邦準備銀行・地下金庫


 その場所は、マンハッタンの岩盤を地下深くまでくり抜いて造られた、世界で最も静寂で、最も重い空間だった。海抜マイナス15メートル。分厚い鋼鉄の扉の向こうには、淡い電灯に照らされた黄金の壁が、どこまでも続いていた。


 ニューヨーク連邦準備銀行総裁、ジョージ・ハリソンは、金庫の鉄格子の前で、まるで自らの葬儀に参列しているかのような顔で立ち尽くしていた。


 彼の目の前で、作業員たちが黙々と、しかし大粒の汗を流しながら、台車を押している。


 ガラガラ、ガラガラ……。

 台車に積まれているのは、台形の金塊ゴールド・バー。一本あたり約12.5キログラム。


 彼らはそれを、「合衆国財務省」と記されたケージから取り出し、わずか数メートル横にある、別の檻へと積み替えていた。

その檻のプレートには、こう記されていた。


『Imperial Japanese Navy(日本海軍)』


 ハリソンの顔色は、死人のように青ざめている。

「……総裁」

 金庫番の職員が、震える手で伝票を差し出した。

「本日の移動分、完了しました。……『イヤーマーキング(Earmarking)』の処理済みです」


 イヤーマーキング――耳標。


 金塊を物理的に船で輸送するリスクを避けるため、地下金庫内で所有権だけを移転する手続き。


 金塊そのものは、ここにある。アメリカの地下にある。だがその所有権レッテルは、たった今の作業で日本に移った。


「……移動額は?」

 ハリソンが絞り出すように問う。


「本日分だけで……1億2,000万ドル相当です」


 ハリソンは目眩を覚えた。

 日本海軍は週末に集めたドルの一部を、即座に「金」へと交換要求してきたのだ。


 彼らはドルを信用していない。

 彼らは、アメリカの富を、その根源的な価値である「金」として確保しようとしている。


 目の前で、金色の延べ棒が「アメリカの棚」から消え、「日本の棚」に積み上げられていく。


 ただ数メートル、右から左へ動いただけだ。

 だがその数メートルの移動は、アメリカという国家の血液が、日本海軍に吸い取られたことを意味していた。


(……あるのに、ない)

ハリソンは、鉄格子を握りしめた。


(金はここにある。だが、もはや我々のものではない。我々はこの金を使ってドルを発行することも、信用を創造することもできない。ただ、日本海軍のために倉庫番をしているだけだ……!)


 その光景をガラス越しに見つめていたハリソンの脳裏に、強迫観念めいた恐怖が去来した。


(金が逃げている……。このままでは、ドルの信認が崩壊する)


 金本位制の番人である彼らにとって、金の流出は国家の死と同義だった。


 日本海軍が吸い上げたドルを、さらに金へと換え始めている。これを止めなければならない。何としても、ドルを魅力的な通貨として繋ぎ止め、金をアメリカに呼び戻さなければならない。


 そのための手段は、教科書には一つしか書かれていなかった。


 ――金利の引き上げ(利上げ)。


 金利を上げれば、投資家はドルを持ちたがる。金は戻ってくるはずだ。


「……止めろ」

 ハリソンは呻いた。


「ドルを守らねばならん。金流出を止めねばならん。……公定歩合(金利)を上げるぞ」


「し、しかし総裁! 今、金利を上げれば、瀕死の株式市場にとどめを刺すことに……!」


「分かっている!!」

ハリソンは絶叫した。地下金庫にその声が反響する。


「だが、このまま指をくわえて見ていれば、我々の金庫は空になる! ドルが紙くずになるんだ! ……株式市場など知ったことか! ドルの信用を守るのが先だ!」

 

 こうして金流出の恐怖に駆られたFRBは、不況の入り口で金利を引き上げるという、経済学上最も愚かで、最も致命的な誤断へと追い込まれたのである。



時:同日 午後6時

場所:ワシントンD.C. 日本大使館


 大使館の窓口業務は、予定時間を大幅に超過してようやく終了した。


 東郷一成の執務室には金曜日以上の疲労と、そして異様な熱気が充満していた。副官の伊藤整一が、震える手で集計結果を持ってきた。


「……本日及び土日の合計の、『長期債』販売実績が出ました」


 東郷は窓の外を見た。街は夕闇に包まれているが、その闇はいつもより深く、重く感じられた。


 この週末で全米に広がった恐怖は、月曜日の朝にパニックとなって爆発した。ダウは500ドルをあっさりと割り込み、フリーフォール(自由落下)を続けている。


「報告せよ」

「はっ。……機関投資家だけでなく、地方銀行や一般市民からの小口購入が殺到しました。取り付け騒ぎを起こした銀行が、顧客を鎮めるために『当行は資産を全額、日本の長期債で保全しました!』と張り紙を出す始末です」


 伊藤は、数字を読み上げた。


【1929年10月26日(土)から28日(月) 迄の長期債販売実績推計】


1.個人・中小企業(パニック枠)

動機:銀行預金引き出しによる資産保全。

購入額: 3億5,000万ドル


2.大手銀行・機関投資家(自己防衛枠)

動機:担保価値の消失した株式・社債の代わりとなる、優良担保(長期債)の確保。および、取り付け騒ぎに備えた自己資本の避難。

購入額: 7億5,000万ドル


3.企業内部留保キャピタルフライト

動機:運転資金の保全。

購入額: 4億ドル


【合計新規調達額】: 15億ドル(約30億日本円相当)


「……15億、ドル……」

 伊藤は、乾いた笑い声を漏らした。

「金曜日の12億ドルと合わせて、たった四日で27億ドル……。日本の国家予算の三年分近くです。……大佐、我々はアメリカを買い取れてしまうのではありませんか?」


 東郷は窓の外を見た。

 夕闇の中、大使館の前にはまだ、長期債を求める人々の列が松明たいまつのように続いていた。


 想定以上だった。アメリカ人のパニックは、日本人の想像を遥かに超えていた。

 だが、ここまではいい。市場から現金を吸い上げ、バブルを崩壊させる。そこまではまだ何とかなる。


 あとは、FRBが適切な金融緩和を行い、市場に流動性を供給して延命措置を図るはずだ。そうすれば、アメリカは「不況」にはなるが「死」には至らない。弱った巨人を、我々が介抱し、コントロール下に置く。それが東郷の描いたシナリオだった。


 その時。

 大使館に設置されたテレタイプが、けたたましい音を立てて緊急ニュースを吐き出し始めた。

 伊藤がそれをちぎり取り、東郷に手渡す。

 一読した伊藤の顔色が、さっと変わった。


「……た、大佐。……FRBが」


 東郷は紙片を受け取った。

 そこに印字された文字列を見た瞬間、彼の手からコーヒーカップが滑り落ちた。

 ガシャン、という陶器の砕ける音が、静寂を引き裂く。


『FRB、金流出阻止ノタメ、公定歩合ノ緊急引キ上ゲヲ発表。6%へ』


「…………は?」


 東郷の口から、間の抜けた声が漏れた。

 理解できなかった。いや、理解したくなかった。


 市場は崩壊している。銀行は取り付け騒ぎで現金を失っている。企業は資金繰りに詰まっている。

 そんな時に、金利を上げる?

 金の流出を止めるためだけに、国内経済の息の根を止める気か?


「……馬鹿な。……馬鹿なッ!!」


 東郷一成は、机を拳で叩きつけた。

今までどんな危機でも、どんな修羅場でも、決して崩すことのなかった冷静な仮面が、初めて剥がれ落ちた。


「正気か、あいつらは!! 今、利上げをすればどうなるか分からんのか!!」


 東郷は絶叫した。

「借金で株を買っていた連中は、金利負担で即死する! 企業は設備投資を止め、労働者を解雇する! 銀行は貸し渋りを加速させ、黒字の企業まで連鎖倒産させる!


 これは不況ではない! 恐慌だ! それも、回復不能な完全なる壊死だ!」


 計算外だった。

 ここまで教条的で、ここまで愚かだとは。

 東郷の叫びは、夕闇の迫るワシントンの空に虚しく響いた。


 1929年10月28日。

 神々は自らの手で、その神殿に火を放った。

 東郷の方舟は、燃え盛る地獄の海へと押し出されることになったのである。


いつもお読みいただきありがとうございます。


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→ダウ平均株価は、開始早々に600ドルを割り込み、さらに加速して 500ドルの防衛ラインを突破 した。ピークからわずか数日で23%の消失。 この時点でもまだ史実の株価のピークに到達していないから恐ろ…
何というか、街で評判の名医な東郷クリニックが紹介状を書いて患者を委ねた先の大病院で、執刀医が連邦準備銀行理事だと思っていたら手術室にいた執刀医は「脳外科医竹田くん」だったような大惨事…… ※脳外科医…
読んでてここまで胃が痛くなる仮想戦記(?)はなかなかないですね...しかも敵側に同情する形の。
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