12億ドルの方舟
時:1929年10月25日(金) 午後3時10分
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・海軍武官室
大使館の重厚な鉄扉が、鈍い音を立てて閉ざされた。
外ではまだ、数百人の群衆が「中に入れろ!」「まだ金があるんだ!」と叫び声を上げているが、海軍陸戦隊の警備兵たちが銃剣を交差させ、その怒号を物理的に遮断していた。
武官室の中は戦場の後のような静けさと、インクと紙幣、そして人間の脂汗が混じり合った強烈な臭気に満ちていた。
床には集計用のタイプライターの紙テープが蛇のように散乱し、机の上には小切手の束と、銀行強盗の戦利品のように積み上げられたドルの現金が山をなしている。
その札束の山の前で、陸軍からの監視役として派遣されていたはずの栗林忠道大尉は、軍服の袖をまくり上げ、慣れない手つきでドルの束をゴムで留めていた。
彼の指先はインクで黒く汚れ、額には玉のような汗が浮いている。
「……栗林大尉。よろしいのですか」
隣でタイプライターを叩き続けていた橘小百合が、手を止めずに淡々と言った。
「貴官の任務は、海軍の不正を暴くための監視であったはず。これでは共犯者です」
「……黙って手を動かせ、小百合君」
栗林は苦虫を噛み潰したような顔で、しかし手は休めずに答えた。
「目の前で溺れかけている人間が、藁(長期債)を掴もうとして殺到しているのだ。これを捌かなければ暴動が起きる。……これは治安維持活動だ」
それは陸軍軍人としての矜持と、目の前の圧倒的な現実との間での、精一杯の折り合いだった。彼は今日一日で、一生かかっても見ることのない金額の「カネ」という弾薬を、その手で装填し続けたのだ。
「……集計、終わりました」
副官の伊藤整一が、震える手で一枚のメモを差し出した。
彼は歴戦の軍人だ。砲弾が飛び交う戦場でも眉一つ動かさない男だ。その彼が今顔面蒼白になり、膝をガクガクと震わせている。
「大佐。……これを見てください。私は計算間違いをしたのかもしれません。……いや、そうであって欲しい」
東郷は窓の外、夕日に染まるワシントンの街並みから目を離し、ゆっくりと振り返った。
「聞こう」
「はっ。……まず、既存のNCPC債現物からの交換分。これだけで、約8億5,000万ドル相当。市場に存在した現物の8割以上が、即日で『長期債』へと姿を変え、3年間の凍結に入りました」
「逃げ足が速いな」東郷は皮肉に笑った。
「だが、それは想定内だ。問題は『新規』だ。我々の金庫に、どれだけの“真水”が入ってきた?」
伊藤は、メモを持つ指に力を込めた。
「……新規販売によるドル現金収入。……約、12億5,000万ドルであります」
部屋の空気が、一瞬にして真空になったような静寂が落ちた。
12億5,000万ドル。
当時の為替レート(1ドル≒2円)で換算すれば、約25億円。
昭和四年度の日本帝国の一般会計予算が約17億円であることを考えれば、たった一日で、国家予算の一・五倍に近い外貨が現金として、この大使館の金庫(および提携銀行の口座)に雪崩れ込んだことになる。
「……12億、か」
東郷は低く唸った。その数字の暴力的なまでの巨大さに、さすがの彼も戦慄を禁じ得なかった。
「内訳はどうなっている、伊藤君。誰がそんなにカネを持っていた?」
「はっ。分析によりますと、買い手は大きく三つの層に分かれています」
伊藤は、壁の黒板にチョークで書き込みを始めた。
【グループA:NCPC債現物保有者(交換組)】
「彼らは勝ち組です。暴落する市場から資産を退避させ、我々の方舟に乗船しました。海軍としては債務の形式が変わっただけで、新たなキャッシュフローはありません。これは防衛戦です」
【グループB:パニックに陥った富裕層(現金組)】
「推定2億ドル。彼らは株も銀行も信じられなくなり、タンス預金や手元の流動資金をかき集めて大使館に走りました。『日本海軍なら裏切らない』という一点張りです。彼らは1制度円=0.5ドルという定価を『安すぎる!』と歓喜して買っていきました」
「そして……」伊藤の声が震えた。「残りの10億ドル以上を買い上げた、最大の怪物たちがいます」
【グループC:銀行団(自己売買組)】
「これが、我々の想定を遥かに超えていました」
伊藤は、チョークを叩きつけるように言った。
「JPモルガン、ナショナル・シティ、チェース……。ウォール街の銀行自身が、自己資金を投入して『長期債』を買い漁ったのです」
「……なるほど」東郷は納得したように頷いた。
「担保だな」
「はい。株価の暴落で、彼らが貸し付けていた160億ドルのブローカーズ・ローンの担保価値は消滅しました。このままでは銀行自体が債務超過で倒産します。
そこで彼らは、生き残るために唯一の手段を選んだ。手元の現金を、今世界で最も信用力の高い担保――すなわち、我が海軍の『長期債』に換えたのです。彼らはこれをバランスシートに載せることで、
『我々の資産は保全されている』と株主や預金者に言い訳をするつもりです」
なんという皮肉だろうか。
アメリカの銀行は、アメリカ国民の預金を日本海軍の証券に換えることで、自らの延命を図ったのだ。
彼らは「投資」をしたのではない。「輸血」をしたのだ。日本海軍という他人の体に、自国の血液(資本)を注ぎ込むことで、その血液が腐るのを防ごうとした。
「……そして、その結果」東郷は窓の外を指さした。
「アメリカ市場から12億ドルもの流動性が消え、我々の懐に入った」
市場から現金が消えれば、デフレは加速する。株価はさらに下がる。
東郷の『長期債』は救命ボートであると同時に、アメリカ経済から最後の活力を吸い上げる巨大なストローでもあった。
大使館の外では、まだ列が続いていた。
彼らが握りしめているドル札は、明日にはただの紙切れになるかもしれない。
だが東郷が発行した証券だけは、三年後、必ず約束された価値を持って戻ってくる。
その「確信」だけが、今の絶望的な世界における、唯一の希望だった。
「さあ、忙しくなるぞ」
東郷は立ち上がり、金庫のダイヤルに手をかけた。その中には、今日一日で署名された無数の契約書が眠っている。それはアメリカの資本主義が日本の軍国主義に屈服し、その庇護を求めた証文だった。
「……伊藤君。栗林大尉。我々は勝ったのではない」
東郷の声は勝利の歓喜からは程遠く、むしろ重苦しい使命感に満ちていた。
「我々は、背負ってしまったのだよ。この12億ドルというカネは、アメリカ人の“恐怖”と“絶望”の総量だ。我々はこのカネを使って、彼らをも生き延びるための世界を、これから作らねばならん」
彼は、壁の世界地図を見上げた。
銀の暴落で死にかけた中国。
恐慌の入り口で震えるアメリカ。
そしてその狭間で、突如として巨万の富を手にした日本。
東郷の瞳に、凄まじい光が宿った。
それは金融家の目ではなく、国家という巨大な艦隊を嵐の中へ進める、提督の目だった。
「集まった莫大なドルで、まずは大蔵省への納税代行を完遂する。
そして……この資金を元手に、我々は次の“任務”に取り掛かる」
その時、小百合が窓際から声を上げた。
「大佐。……外の様子が」
東郷が窓から見下ろすと、日は完全に落ち、冷たい秋の夜風が吹き荒れる中、大使館の周りを取り囲む群衆は帰ろうとしていなかった。
暴動ではない。彼らは座り込み、寒さに震えていた。中には幼い子供を抱えた母親や、呆然と立ち尽くす老人もいる。
彼らはただ、不安なのだ。家に帰っても、明日のパンがあるか分からない。ここ(日本大使館)のそばにいれば何か助けがあるかもしれないという、縋るような思い。
「……伊藤君、栗林大尉」
東郷は振り返った。
「貴官らに、軍人本来の任務を頼みたい」
「……何でありますか」
「”現地調達”と”補給”だ。無論私も参加する」
東郷は自分の資産が入った金庫から、鷲のマークが入った真新しいドル札の束を一つずつ、無造作に渡した。伊藤と栗林は慌ててそれを受け止める。
「近くのパン屋と雑貨屋を叩き起こして、パンとハム、それから温かいコーヒーを買い占めてこい。毛布と燃料もだ。あるだけ全部だ。……釣りはいらんと言えば、喜んで売るだろう」
栗林はこの大陸を横断してここまで来る間に、多くのアメリカ人と触れ合った。彼らは陽気で、親切で、そして家族を愛する普通の人々だった。妻に送った手紙にも、彼らの笑顔をスケッチして書き送ったばかりだ。その彼らが今、凍えている。
「……はっ! 直ちに手配いたします!」
栗林は敬礼し、札束を懐にねじ込んで伊藤とともに部屋を飛び出した。その足取りは、先ほどまでの札束を数える重苦しさとは打って変わり、水を得た魚のように軽やかだった。
その夜、ワシントンの日本大使館前では、奇妙な光景が繰り広げられた。
星条旗と日章旗が並んで翻る下で、陸海軍の軍服を着た男たちと、美しい日本人の少女が一人、アメリカ市民たちに温かいサンドイッチとコーヒーを配っている。
「Here, take this. It's warm.(さあ、これを。温かいぞ)」
栗林は片言ながらも力強い英語で、子供連れの母親に毛布を渡していた。その顔には、彼が日本の家族に向けるのと変わらない、不器用だが温かい笑みが浮かんでいた。
受け取るアメリカ人たちの目には、涙が浮かんでいた。
自国の政府(フーヴァー大統領)が「自助努力」を説いて何もしてくれない中、仮想敵国であるはずの日本の軍人が、温かい食事と毛布をくれたのだ。
「Thank you... Thank you...」
その感謝の声は、翌日の新聞で大きく報じられることはなかった。
だが、その夜のコーヒーの温かさを、彼らは決して忘れないだろう。
アメリカの繁栄が終わった日。
それは東郷の「方舟」が、満載の富と、そしてアメリカ国民の“心”の一部を乗せて、静かに出航した日でもあった。
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