緊急声明
時:1929年10月24日(木) 午後5時
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成は、今日の市場の混乱を伝える夕刊を静かにテーブルに置いた。
見出しには「ウォール街、パニック」「NCPC債暴落」の文字が躍っている。
コーヒーの湯気が、ランプの光の中で揺らめいている。
「……始まりましたな、大佐」
副官の伊藤整一が、緊張した面持ちで言った。彼の顔には、巨大なカタストロフィを目の当たりにした人間の、根源的な恐怖が張り付いていた。
「ああ。予想通りだ」
東郷の声は、驚くほど静かだった。
「彼らは溺れないために、一番重くて高価な荷物(NCPC債)を海に投げ捨て始めた。……皮肉なものだ。彼らが『神の債券』と崇めていたものを、自らの手で紙くずにしていく」
東郷は立ち上がり、窓の外を見た。
大使館の前には、すでに不安げな顔をした投資家や銀行の使い走りが、何人もたむろしているのが見える。彼らは寒空の下、コートの襟を立てて震えていた。
彼らは噂に怯えていた。「アメリカ政府が規制に乗り出すかもしれない」「日本が支払いを拒否するかもしれない」という、疑心暗鬼の嵐の中で、確かな情報を求めて彷徨っている亡霊のようだった。
「……このままでは、NCPC債の信用も道連れになります」伊藤が言った。
「構わんよ」東郷は薄く笑った。「デリバティブで膨れ上がった15億ドルの架空の価値など、消えてなくなればいい。私が守りたいのは、実体のある『本物』だけだ」
彼は、机の引き出しから一通の文書を取り出した。
それは9月から準備され、誰にも見向きもされずに金庫で眠っていた『長期債』の書類だった。
年利0.5%。三年間売却不可。
東條英機が「ゴミ」と断じたばかりの、あの証券だ。
「伊藤君。船が傾き始めた。……海軍軍令部が策定した米国方面に対する金融作戦要領に基づき、救命ボートを出すぞ」
「はっ。声明を発表します」
「小百合君」
東郷は、部屋の隅で待機していた橘小百合に声をかけた。
「夜遅くで悪いが、事務要員を総動員してくれ。タイプライターが焼き切れるほど、忙しくなるぞ。……明日の朝から、世界が変わる」
「……はい。すでに、待機させております」
小百合は静かに答えた。その瞳には、これから起きることを全て予見していたかのような、冷徹な光が宿っていた。
10月24日(木) 午後7時。
その声明は、全世界へ配信された。
『帝国海軍駐米武官府・緊急声明』
テレタイプが叩き出すその文字列は、パニックに怯える市場関係者にとって、まさに荒れ狂う海に差し伸べられた一本の、しかし極太の蜘蛛の糸だった。
一、NCPC債ハ投機商品ニ非ズ。ソノ価値ハ我々ノ任務遂行能力ニヨリ不変デアル。
一、現在ノ米国市場ノ混乱ハ、貴国ノ内情ニヨルモノデアリ、本海軍ノ関知スル所デハナイ。
一、然レドモ、保有者ノ不安ヲ払拭スルタメ、本日ヨリ特別措置ヲ実施スル。
【特別交換プログラム】
希望者ニ対シ、手持チノNCPC債(現物)ヲ、一対一ノ等価交換デ『長期保有型・国家任務証券(長期債)』ト交換スル。
条件:
一、三年間ノ売却・譲渡ヲ一切禁止スル(ロックアップ)。
一、期間満了後ノ元本ハ、日本帝国海軍ガ「全資産」ヲ以テ完全保証スル。
一、新規購入モ、ドル建テニテ受ケ付ケル。
その声明が読み上げられた瞬間、ウォール街の空気が一変した。
凍りついていた時間が、再び動き出す。
誰もがその「条件」の意味を瞬時に計算し、そして戦慄した。
「三年間売れない? ……馬鹿な、流動性を捨てるのか?」
一人のトレーダーが、震える声で呟く。
「こんな時に、資金を拘束されるなんて自殺行為だ……」
だが、隣にいた老練な相場師が血走った目で叫んだ。
「違う! 逆だ、馬鹿野郎! これは『監獄』じゃない! 『シェルター』だ!」
彼の絶叫が、フロアに響き渡った。
「よく考えろ! 市場は今、暴落の真っ只中にある。今日100ドルの株が、明日は10ドルになるかもしれない地獄だ! 現金でさえ、銀行が連鎖倒産すれば引き出せなくなる!
おまけに政府がいつ『取引停止』だの『資産凍結』だの、狂った規制を言い出すか分からない!」
相場師は、テレタイプ用紙を握りしめた。
「そんな中で『三年間絶対に動かせない』ということは……裏を返せば『三年間市場の暴落からも、アメリカ政府の規制からも、完全に隔離される』ことを意味しているんだ!」
しかも、保証人は日本帝国海軍。
あのバルチック艦隊を破り、銀を買い占め、合衆国最高裁すら黙らせた、世界で最も信用のある「暴力装置」。
彼らの「全資産による無限責任保証」という言葉は、メロン財務長官のどんな言葉よりも、今の市場には遥かに重く響いた。
「……逃げろ! あのシェルターに逃げ込むんだ!」
「日本大使館へ走れ! 長期債を買え! ドルなんかいらない、日本の“約束”をよこせ!」
市場の反応は、爆発的だった。
市場は完全に三つに分断された。
まず、NCPC債現物保有者(グループA)。
彼らは安堵の息を漏らし、交換に殺到した。彼らは市場というタイタニックから退場し、東郷の方舟に乗り込む切符を手に入れた勝者だ。
次に、NCPC債デリバティブ保有者。
彼らは完全に死亡した。東郷の声明は「現物」のみを対象としていた。彼らの持っていた15億ドル相当のデリバティブは、裏付けのないただの紙切れとなり、ゴミ箱行きとなった。
そして、株式・現金保有者(グループB)。
彼らはパニックに陥った。「株もドルも危ない! 唯一信じられるのは、日本海軍が元本を保証する『長期債』だけだ!」という集団ヒステリーが発生した。彼らはドルを握りしめ、新規購入の列に並んだ。
だが最も悲惨で、そして最も東郷の計算通りに動いたのは、借金まみれの敗者たち(グループC)だった。
彼らは株の暴落で莫大な負債を抱え、破産寸前だ。現金はない。NCPC債の現物もない。あるのは借金だけ。
彼らが生き残る唯一の道は、『長期債』を担保に現金を借りることだった。
「長期債を手に入れろ! あれさえあれば、銀行は金を貸してくれる! あれは金以上の担保だ!」
彼らが銀行に「長期債を担保にするから金を貸せ」と殺到することで、銀行自身が『長期債』を欲しがるようになる。銀行は自らのバランスシートを守るため、そして新たな貸付の担保とするため、自己資金で『長期債』を購入し始める。
負の連鎖が、一転して「長期債への殺到」という一点に収斂していく。
翌朝、ワシントンD.C.の日本大使館前は、異様な光景だった。大使館の重厚な門の前に、黒塗りのリムジンが長蛇の列をなしている。
降りてくるのはJPモルガンの幹部、スタンダード・オイルの役員、そして昨日までは長期債を「ゴミ」と嘲笑っていた投資家たち。
彼らは一様に蒼白な顔で、アタッシュケース一杯の小切手や、NCPC債の現物を握りしめていた。プライドも、愛国心もかなぐり捨てて。
「頼む! 交換してくれ! 全財産だ!」
「列に並びたまえ! 私はナショナル・シティ・バンクの副頭取だぞ!」
「知ったことか! 俺のNCPC債を先に『長期債』に換えろ! 明日には銀行が潰れるんだ!」
怒号と哀願が入り混じる。かつて世界の富を支配していた男たちが、東洋の島国の軍人に救いを求めて列を作っている。
窓からその地獄絵図を見下ろす東郷一成は、静かにコーヒーを啜った。
9月には「漬物石」と嘲笑された年利0.5%の証券が、今や人々が殺到するプラチナ・チケットと化している。
「……見事ですね、大佐」
傍らの伊藤が、畏怖の念を込めて言った。
「彼らは我々の『長期債』を、まるでノアの方舟の乗船券か何かだと思っているようです」
「……いや、伊藤君」
東郷はカップを置き、冷ややかに言った。その瞳は眼下の群衆を通り越し、遥か未来を見据えていた。
「彼らは、我々の債券を買っているのではない。
彼らは、自分たちの国の経済に対する『絶望』を売って、我々の『任務』という名の避難所の入場券を買っているのだ」
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