非課税の聖域
大正十五年(1926年)、冬の東京。
霞ヶ関から日比谷へ、丸の内の銀行街へと、人々の噂が忍び寄っていた。
「海軍が、また不思議な紙をばら撒いているらしい」
「制度債、だろう?」
「そうだ。軍縮条約で予算が削られても、奴らは新しい艦を建てている。あれは一体どこから金が出ているんだ」
財界の会合でも、株式仲買人の酒場でも、同じ囁きが飛び交った。
それは「制度債」と呼ばれる、聞き慣れぬ証券だった。
噂では、それを持つ者は農村で米を買い、工場で機械を借り、銀行で割引まで受けられるという。
しかも驚くべきことに、それは利息を生まず、償還の期限すら定かではない。
「そんなものが通るはずがない」
「だが現に通っている。……まるで新しい通貨だ」
国会議員たちは苛立ちを募らせ、国税庁は頭を抱えていた。
「任務により与信が生じたので課税されない」という理屈は、租税国家の論理を崩壊させかねなかった。
「……租税国家の終焉ではないか」
ある税務官は、書類を握りつぶしながら呟いた。
大正十五年二月十二日 午前十時二十三分。
衆議院第二委員室には重苦しい空気が漂っていた。
議題は海軍省所管の追加予算案、そして世間を騒がす「制度債」の課税可否。
「次に、海軍制度信用証券、通称・制度債に関する歳入上の疑義につき、革新倶楽部、山田三郎君の発言を許します」
山田三郎――革新倶楽部の論客。
鋭い弁舌で知られ、かつては政友会や憲政会の重鎮をも窮地に追い込んだ男だ。
彼は満を持して立ち上がり、議場を見渡した。
「……諸君、私は問いたい」
開口一番、低く響く声に空気が張り詰めた。
「海軍省および隷下組織が発行している制度信用証券。農村を救済し、民間造船業に資金を融通する、その効果は確かにある。そこを否定するつもりはない。だが!」
山田は拳を机に叩きつける。
「その証券は、受け取った者や仲介の銀行に莫大な利益をもたらしている!
利益あるところに課税あり。租税国家の根幹である!
にもかかわらず、一銭たりとも国庫に納められていない。これは一体、いかなる道理か!」
議場にざわめきが走った。
山田の視線はただ一人を射抜いていた。
東郷一成――海軍省経理局長、そして「制度債」の設計者と囁かれる男である。
ゆっくりと立ち上がる影。
東郷はまだ三十八歳。だが数年の激務と制度債をめぐる暗闘が、彼の黒髪にやや白い筋を刻んでいた。
その姿は年の割にはやや老けて見えたが、背筋はまっすぐに伸び、声はよく通った。その表情には常に微笑をたたえていた。
「お答え申し上げます」
静かな口調が微笑とともに議場を満たした。
「委員ご指摘の制度信用証券は、未来の収益を約する有価証券とは全く異なります。
これは、既に完了した軍事任務の成果を、事後の契約履行を担保する証憑にすぎませぬ」
ざわめきが走る。東郷は淡々と続けた。
「例を挙げれば、日本海海戦における聯合艦隊の軍功、関東大震災での救援活動。これら過去の奉仕と貢献に対して発行するものです。ゆえに所得税法にいう『所得』『報酬』には該当いたしません」
「詭弁である!」
山田は即座に反撃した。
「いかに美辞麗句を並べようとも、現に証券は市場で売買され利益を生んでいる! 国民が重税に喘ぐ中、軍功で巨利を得る者が非課税でどう納得できるか!」
彼は反撃しながらも、東郷の反論を警戒して予防線を引こうとした。
「……待て。軍機すべてを開示せよなどと極論を持ち出すな。課税根拠となる”任務”の概要だけで十分なはずだ!」
議場が息を呑んだ。鋭い切り返し。
しかし東郷は、わずかに口角を上げたのみだった。
「『概要』とは何か。その判断基準こそが軍機そのものです」
山田の表情が凍る。
「どの戦闘を重く見るか、どの航海を軽く見るか。その評価はすべて作戦の意図に直結する。つまり概要を開示せよとは、作戦そのものを開示せよということに等しいのです」
議場の空気が一気に東郷に傾いた。
東郷はさらに畳み掛けた。
「課税のためには、国税庁の査閲官が海軍の任務報告を精査しなければならない。
当然、暗号電文、航泊日誌、戦闘詳報の提出が必要となります。よろしいか」
山田が狼狽える。
「ま、待て……私はそこまで――」
「委員。お答えください」
東郷の声は静かで、しかし鋼のように硬かった。
「課税のために軍機を敵国に売り渡す覚悟が、あなたにおありか」
議場は騒然となった。
「統帥権干犯だ!」「非国民め!」の罵声が飛ぶ。
山田は絶句し、顔面蒼白となる。
東郷は冷然と結論を告げた。
「軍機を明らかにできぬ以上、価値の算定は不可能。従って課税も不可能であります」
与党席から割れんばかりの拍手が起こった。
議会の外、新聞記者たちは血走った目でメモを取った。
「統帥権干犯」――この一語で、明日の紙面は埋まる。
丸の内の銀行家は苦い顔をした。
「……つまり、海軍の信用は国家の徴税権の外にあるということか」
財閥幹部は低く唸った。
「これは、国家の中にもう一つの国家が生まれるということだ……」
夕刻、神田の居酒屋。
大衆は新聞号外を回し読みしながら、思い思いに語っていた。
「おい聞いたか? 制度債は課税できねぇんだとよ!」
「馬鹿言え! 汗水垂らす俺らにだけ重税で、軍人だけ特別扱いか!」
怒りの声が上がる一方、別の男は酒をあおって叫ぶ。
「違ぇねぇ! 海軍は俺たちを救ってくれるんだ! 財閥も官僚も信用できねぇ今、頼れるのは軍艦の連中だけだ!」
さらに隅の席で、冷めた声が漏れた。
「……どうせ俺たちの税金は役人の懐に消える。なら、海軍が直接使った方がまだマシかもしれん」
怒り、愛国心、諦観――三つの声が入り混じり、酒場の空気は混沌としていた。
審議を終えた後、東郷は委員室を出て控室に入った。そこには南雲忠一や沢本頼雄ら、同期や後輩の将校たちが待っていた。
「よくぞ切り返したな」南雲が苦笑しつつ言った。「あの山田、顔色が死人のようであった」
「しかし、敵も黙ってはおりますまい」沢本が低声で付け加える。「今日の一件で、制度債は国会の場で“聖域”と化しました。だが、それゆえ次は裏から崩そうとする者が現れるでしょう」
東郷は軽くうなずき、窓の外を見やった。冬の陽が淡く差し込み、庭木の影を長く伸ばしていた。
「制度とは、常に試されるものだ。今日の議論もまた、その一環に過ぎぬ。だが――」
東郷は静かに微笑んだ。
「我らが守るべきは、国の独立である。制度債もまた、そのための道具にすぎん。いずれ歴史が、その真価を示すだろう」
同じ時刻、霞が関の国税庁。
薄暗い事務室で、数名の若手査定官が新聞号外を手に顔を見合わせていた。
「……“任務により与信が生じたので課税されない”って、どういう理屈だ……」
「いや、理屈じゃない。理屈を超えて、軍機の壁を立てられた。どうやっても突き崩せん」
ひとりが机に額を叩きつけた。
「もし本当にそうなら、租税国家は終わりだ! 収益が“報酬”ではなく“支援”と定義された瞬間に、課税権は消える!」
別の者が小声で呟いた。
「海軍は明確に言ってる。課税するには軍令を渡せと。それはつまり、課税を試みるたびに……」
「統帥権干犯の地雷が、自動的に適用されるということ……」
沈黙が広がった。
国税庁の若き頭脳たちは悟った。
もはや制度債は「非課税の聖域」と化したのだと。