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TOGO 軍神の息子は、アナポリス帰りから軍縮した貧乏日本海軍の記録で稼ぐようです  作者: キユ
第二章

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1929年10月24日(木)

時:1929年10月24日(木)

場所:ニューヨーク、ウォール街。「ギャツビー&カンパニー」トレーディングフロア


 ニューヨーク、マンハッタン島南端。深い渓谷のような摩天楼の谷底に、その朝、重苦しい霧が立ち込めていた。


 トリニティ教会の鐘が午前十時を告げたとき、ウォール街にある証券会社「ギャツビー&カンパニー」のトレーディングフロアは、すでに異様な熱気に包まれていた。それは活気ではない。腐乱した死体に群がる蝿の羽音のような、不吉なざわめきだった。


午前11時00分。


 フロアに充満していたのは、獣の檻のような臭気だった。冷や汗と、古い煙草の紫煙と、そして人間が理性を失う瞬間に発する特有のパニックの臭い。


 若きトレーダー、レオは、額から滴る汗を拭おうともせず、ティッカーテープ(株式相場表示機)が吐き出す紙テープを睨みつけていた。

テープの印字速度が、実際の取引に追いついていない。


「……おい、どうなってる? ゼネラル・モーターズ(GM)の値段が出てこないぞ」

 隣の席の古参トレーダー、スチュアートが震える手で眼鏡の位置を直した。

「遅れているんだ、レオ。売りが殺到しすぎて、機械が追いつかない」


 ティッカーテープが吐き出す数字の列が、物理的な限界を超えて遅延し始めていた。テープは現在の価格ではなく、数十分前の「過去」を印字している。誰も「現在」の価格を知らない。その暗闇の中で、ゼネラルモーターズ(GM)の株価が、まるで重力を思い出したかのように垂直落下を始めたのが合図だった。


 レオのデスクの電話が一斉に鳴り響く。ベルの音ではない。それは処刑の合図だった。

追証マージン・コールだ! クソッ、GMの大口が飛んだ! 担保が足りない! 維持率が割り込んだぞ!」


 受話器の向こうから、顧客の悲痛な叫びが響く。それは昨夜まで、摩天楼のパーティでシャンパンを飲んでいた紳士の声とは思えない、豚のような悲鳴だった。


『待ってくれ! 現金がないんだ! 家も車も、全部ブローカーズ・ローンの担保に入っちまってる! あと一日、いや数時間待ってくれれば相場は戻る!』


「待てるか! 今すぐだ! 今すぐ現金を入れろ! さもなくば、あんたのポジションは強制決済だ!」


『現金なんてない! 銀行も貸してくれないんだ!』


「なら何か売れ! 手持ちの資産を叩き売ってでも金を作れ! クズ株にはもう買い手がつかないんだ、値がつくものなら何でもいい!」


『売るものなんて……ああ、そうだ! NCPC債がある! あれならまだ値上がりしてるはずだ!』


 レオは一瞬、息を呑んだ。受話器を持つ手が止まる。

 NCPC債(Institutional Credit Security)(Navy Credit Purchasing Card)。


 日本の海軍が発行する、あの「神の債券」。アメリカ政府が銀を売り崩してもビクともせず、最高裁がその合法性を否定できず、この市場で唯一、輝きを失っていない聖域。


 それを、売る?

「ボス! 正気ですか!? あれは『安全資産』ですよ! この嵐の中で唯一の頼みの綱だ! 今売ったら……」


『うるさい! 背に腹は代えられん! 良い資産から売るしかないんだよ!』


 顧客の叫びが、レオの鼓膜を打った。

『クズ株はもう誰も買わない! 現金化できるのはNCPC債だけなんだ! 売れ! 今すぐ成行で全部売って、GMの穴を埋めるんだ!』

その論理は、残酷なほど正しかった。


 恐慌の初期段階において、投資家は「売りたいもの」ではなく「売れるもの」を売るしかない。市場で最も流動性が高く、最も信用があり、最も価値が保たれているもの。


 すなわち、NCPC債だ。

 皮肉にも、そのあまりにも高い信用力が、この局面では「換金のための打ち出の小槌」として仇となった。


「……くそっ、売りだ! NCPC債を成行で売れ! 全部だ!」

 レオの叫びは、フロア中のトレーダーたちの叫びと重なった。


 無数の電話回線を通じて、同じ命令が下される。シカゴでも、サンフランシスコでも、同じ悲鳴が上がっていた。


「NCPC債を売って、現金を確保しろ!」

「日本の紙切れをドルに戻せ!」

 神の紙切れが、汚れた現金の代用品として市場に投げ出された瞬間だった。


 売りが売りを呼び、NCPC債の価格を示すボードの数字が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。それは、この市場を支えていた最後の支柱が折れる音だった。

NCPC債先物価格は、狂乱の5ドル台から4.5ドルへと、崖を転げ落ちるように急落した。


 神殿の柱に、亀裂が入ったのだ。

ダウ平均株価、ピーク時652.1ドル。

そのいただきから、アメリカ経済という巨人が、真っ逆さまに墜落を開始した。


そして、正午。

NCPC債の現物価格が下落を始めた瞬間、それまで隠れていた本当の怪物が牙を剥いた。


「NCPC債デリバティブ」である。


 ウォール街の錬金術師たちが作り出した、NCPC債の価格変動にレバレッジをかけた金融派生商品。その総額は15億ドル。


現物が下がれば、レバレッジのかかったデリバティブの損失は何倍にも膨れ上がる。

「ぎゃああああっ!」

フロアの隅で、投機筋のブローカーが頭を抱えて崩れ落ちた。


「先物が……NCPC先物が、5ドルから4.5ドル、いや、4.3ドルへ垂直落下だ! マージンが飛んだ! 破産だ!」

神殿の柱に、亀裂が入った。

「絶対に下がらない」という神話が崩れた時、パニックは倍加する。


午後12時30分、JPモルガン商会。


重厚な役員室で、トーマス・ラモントは受話器を握りしめたまま凍りついていた。


「……NCPC債に、断続的な売りが出ています! まだ小規模ですが……ブローカーズ・ローンの追証絡みによる換金売り(キャッシング)のようです!」


ラモントは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


これはただの調整ではない。「良い資産(NCPC債)」を売って、「悪い資産(株)」の穴埋めをするという、恐慌の初期段階特有の「負の連鎖デス・スパイラル」が始まったのだ。神の紙切れも、現金の枯渇の前には無力なのか。


「買い支えろ!」ラモントは叫んだ。「銀行団でプールを作り、NCPC債の現物を買い支えるんだ! デリバティブの馬鹿どもは放っておけ! だが『現物』の価値だけは死守しろ! あれが崩れれば、我々のバランスシートも吹き飛ぶぞ!」


 JPモルガンら、銀行団の2億ドル超えの介入により、午後の取引で市場は奇跡的に持ち直した。

ダウは625.5ドルまで回復して取引を終える。


 その夜、ウォール街の酒場では、安堵のため息が漏れていた。

「やはり、NCPC債は神だった。最後は戻した。あれさえ持っていれば大丈夫だ」

「デリバティブで遊んでいた馬鹿が淘汰されただけさ」


 しかし、賢明な者たちは気づいていた。

巨大な豪華客船の船底に、修復不可能な最初の亀裂が入った音を、確かに聞いたことを。


時:同日 午後1時00分

場所:ワシントンD.C. ホワイトハウス、閣議室


 市場の崩壊を受け緊急招集された閣僚会議は、葬儀のような、いや、通夜の席のような重苦しい静けさに包まれていた。


 イギリスから帰ってきたばかりの財務長官アンドリュー・メロンは、ハンカチで額の脂汗をぬぐいながら、震える声で報告書を読み上げた。


「……NCPC債の価格が急落しています。原因は、株の損失を埋めるための換金売りです。しかし問題は……この下落が、ブローカーズ・ローンの担保価値を直撃していることです」


メロンは、絶望的な数字を提示した。


「ブローカーズ・ローン総額、推定160億ドル。その担保の過半数が、NCPC債で構成されています。NCPC債が暴落すれば、担保割れが起き、さらなる追証が発生し、それがまた株と債券の売りを呼ぶ……。負の連鎖デス・スパイラルが止まりません」


 フーヴァー大統領は、こめかみを押さえた。エンジニア出身の彼でさえ、この連鎖の破壊力にはめまいを覚えた。


「……止められないのか。取引停止、あるいは、政府による買い支えは……」


「できません」

 国務長官ヘンリー・スティムソンが、苦渋に満ちた声で遮った。彼はかつて最高裁で味わった敗北を、骨の髄まで覚えていた。


「閣下。もし今、政府がNCPC債の取引を凍結したり、敵性資産として管理下に置こうとすれば、どうなると思われますか?」


 スティムソンは、震える手で机を叩いた。

「最高裁はあれを『違法ではない』と判断しました。そして市場はあれを『担保』として信用し、160億ドルもの金を貸しているのです。


もし政府がここで『あれは無効だ』とか『取引停止だ』と宣言した瞬間、全米の銀行が抱える担保価値は法的にゼロになります。その瞬間、全ての銀行が債務超過で即死します。我々が、自らの手でアメリカ経済の心臓に止めを刺すことになるのです!」


「……それに」

司法長官が、重々しく付け加えた。


「あれは証券取引法上の有価証券ではありません。日本海軍と個人との間の『任務遂行契約』です。SEC(証券取引委員会)も存在しない今、我々にはあれを規制する法的根拠が何もない。今度は手を出せば、最高裁ではっきりと負けます」


 八方塞がりだった。

 彼らは、東郷一成が築いた「法の迷宮」の中で、身動きが取れなくなっていた。

 動けば、自国の経済という心臓を自ら突き刺すことになる。動かなければ、出血多量で死ぬのを待つだけだ。


フーヴァーは、力なく椅子に背を預けた。窓の外の秋の空は、残酷なほど青く澄み渡っていた。

「……見守るしかない、と言うのか」


その言葉は、世界最強の国家の指導者が発した、事実上の敗北宣言だった。

いつもお読みいただきありがとうございます。


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