東條英機
数十分後。
執務室の扉が開くと同時に、カッ、カッ、カッという正確無比な軍靴の音が響いた。
現れた東條英機は、まるでプレスしたての軍服のように、少しの皺もなく直立不動で立っていた。丸眼鏡の奥の瞳は感情を一切映さず、ただ上官の唇の動きだけを注視している。その手には、すでにメモ帳と万年筆が握られていた。
「…… 東條。貴様に特命を与える」
永田が切り出した。
「連隊長就任の前に、アメリカへ飛べ。名目は『米国の軍事事情視察』だ。だが真の任務は、駐米海軍武官・東郷一成の監視、および彼が運用する『制度債』の実態調査だ」
「はっ! 拝命いたします!」
東條は即座に答えた。理由も、期間も聞かない。不平も言わない。命令だから従う。それだけだ。ペン先が紙の上を走り、永田の言葉を一言一句漏らさず記録していく。
「ただし、東條。心して聞け。……東郷とは議論をするな。奴の言葉に耳を貸すな。奴は言葉の魔術師だ」
永田は諭すように言った。
「奴は『国益』や『未来』という美辞麗句で、相手を煙に巻く。お前が議論を挑めば、必ず言いくるめられる。……貴様はただ、奴が何をしているか、誰と会っているか、カネがどこへ流れているか。その『事実』だけを、その手帳に書き留めてこい。……できるか?」
「可能です」
東條は、顔色一つ変えずに機械的に答えた。
「海軍の勝手な振る舞い、かねてより目に余ると考えておりました。統帥権を盾に独自の財源を持ち、国家の方針を歪めるなど、軍人の風上にも置けません。陸軍の規律と正義に照らし、その不備を徹底的に糾弾するための証拠を、一ページ残らず集めてまいります」
そのあまりにも融通の利かなそうな、四角四面の返答。
傍らで聞いていた石原莞爾は、「やれやれ」といった顔で天井を仰ぎ、大きなため息をついた。
(……天才と凡人。いや、天才と“石”か。……東郷の奴、これは骨が折れるぞ。いくら名刀でも、石を切れば刃こぼれする)
「……行け。出発は早ければ早いほどいい」
「はっ! 失礼いたします!」
東條は完璧な敬礼を残し、回れ右をして退出していった。その足音のリズムはあまりにも正確で、そして人間味に欠けていた。廊下に消えていく背中は、まるでぜんまい仕掛けの人形のようだった。
扉が閉まると、永田は薄く笑った。
「……どうだ、石原。あれなら、小百合のように取り込まれる心配はあるまい?」
「ええ、ありませんな」
石原は、皮肉な笑みを浮かべた。
「取り込まれるどころか、東郷の方が頭を抱えるでしょうよ。『話が通じない』とね。……ある意味、最強の刺客かもしれませんな。
……ですが永田さん、一つだけ忠告しておきますよ」
「何だ?」
「あの男は、今はただの録音機ですがね。……一度『自分の正義』を書き込んでしまったら、今度は誰にも止められない暴走機関車になりますよ。……東郷の毒よりも、あの男の“純粋すぎる愚直さ”の方が、いずれ国を焼く火種になるかもしれん」
永田は、その言葉を鼻で笑った。
「使いこなしてみせるさ。……毒も、石もな」
蝉時雨が、いっそう激しくなっていた。
「……剃刀東條、ですか」
石原は鼻で笑った。
「切れ味は良いが、切るべきものと切ってはいけないものの区別がつかん男だ。……まあいいでしょう。せいぜい、アメリカの繁栄ぶりでもメモしてきてもらいましょうか」
こうして昭和陸軍のもう一人の怪物、東條英機のアメリカ派遣が決定した。
出発は九月中旬。横浜港からサンフランシスコへ渡り、大陸横断鉄道でワシントンへ。
彼がアメリカ、ワシントンD.C.の土を踏むのは、十月上旬となる計算だった。
⸻
時:1929年(昭和四年)、十月上旬
場所:ワシントンD.C. ユニオン駅
秋の気配が深まるワシントンに、東條英機中佐は降り立った。
丸眼鏡の奥の瞳は、長旅の疲労も見せず、ただひたすらに鋭く周囲を観察していた。彼の手には、肌身離さず持ち歩いている手帳が握られている。
「……ここが、アメリカか」
彼の目に映るワシントンは、狂乱の宴の輝きを放っていた。
街を行き交う人々は皆新しい服を着て、自信に満ちた顔で歩いている。新聞スタンドには株価の最高値更新を告げる見出しが踊り、ラジオからは陽気なジャズが流れている。
東條はその光景を冷ややかに見つめ、手帳に書き記した。
『……米国、物質的繁栄ノ極ミニあり。国民ハ享楽ニ耽リ、精神的気概ニ欠ケル様子アリ』
彼は「事実」を見た。しかしその繁栄が砂上の楼閣であるという「真実」には、気づかなかった。彼にとって物質的な豊かさは精神の堕落であり、軽蔑すべき対象でしかなかったからだ。
出迎えの栗林忠道大尉が、敬礼をして駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました、東條中佐。……早速ですが、大使館へ?」
「うむ。東郷大佐に挨拶をし、任務を開始する」
東條の歩調は、機械のように正確だった。
彼はまだ知らない。自分がこれから目撃するものが、彼の理解を遥かに超えた次元の「戦争」であることを。
⸻
場所:日本大使館・海軍武官室
東郷一成は、東條英機の来訪を静かに待ち受けていた。
机の上には、書き上げたばかりの『長期保有型・国家任務証券(長期債)』の最終案が置かれている。
扉が開き、東條が入室する。その直立不動の姿勢、隙のない軍服の着こなし。まさに「歩く陸軍刑法」といった風情だ。
その後ろには気まずそうな顔をした栗林大尉と、そして東郷の「護衛」として控える橘小百合の姿があった。
東條の視線が、一瞬だけ小百合に向いた。
かつて陸軍が育てた間諜。裏切り者。
だが東條は、眉一つ動かさなかった。彼にとって彼女はもはや「処理済みの案件」であり、感情を動かす価値もない存在だった。
「……遠路はるばる、ご苦労ですな、東條中佐」
東郷が、茶を勧めた。
「海軍の東郷です。……陸軍省も、随分と人を使いが荒い。連隊長就任直前の貴官を、こんな遠地まで寄越すとは」
「……国務に、遠近はございません」
東條の声は、金属的で抑揚がなかった。
「東郷大佐。単刀直入にお伺いする。……貴官が現在進めている『新証券』の発行計画について、陸軍としても詳細を把握しておきたい」
東郷は、机の上の書類をすっと差し出した。
「どうぞ。隠すことなど何もありませんよ。これは国家の事業ですから」
東條は書類を受け取り、その内容を読み始めた。
彼の眼鏡が光る。
頁をめくる音が、静かな部屋に響く。
そして数分後。
東條は顔を上げ、呆れたように言った。
「……年利、0.5パーセント?」
彼は、信じられないものを見る目で東郷を見た。
「東郷大佐。私は経済の専門家ではないが、数字は読める。現在のアメリカの市場金利は5パーセントを超え、株の配当はそれ以上だ。……そんな中で、0.5パーセントなどという低利の、しかも三年間も売却できない証券を、誰が買うというのですか?」
東條の指摘は、常識的だった。あまりにも常識的すぎた。
「……これは、経済合理性を欠いています。海軍は、市場を見誤っているのではないか?」
東郷は、静かに微笑んだ。
「…… 東條中佐。貴官には、これがゴミに見えますか」
「……事実として、市場価値は皆無でしょう」
東條は断言した。
「……なるほど」
東郷は頷いた。
この男には見えていない。この「0.5%」という数字が、金利ではなく「生存権の価格」であることを。嵐が来た時、人々はこのチケットを手に入れるためなら、何を差し出すだろうか、という人間の心理を。
東條英機という男は、優秀な事務官であり、忠実な軍人だ。
だからこそ、彼は「ルールの中」でしか思考できない。ルールそのものが崩壊する瞬間を、想像することができないのだ。
「……ご意見、承りました」
東郷は書類を下げた。
「ですが、これは海軍の決定事項です。……結果は、歴史が証明するでしょう」
東條は、不満げに鼻を鳴らした。
「……報告は、ありのままにさせていただきます」
「ええ、どうぞ。『海軍は狂った』と、永田君にお伝えください」
東條は敬礼し、退室した。栗林大尉だけが一瞬振り返って、無言で東郷に一礼した。
彼が去った後、小百合が静かにコーヒーを淹れ直した。
「……あの方は、何も気づいておられませんでしたね」
「ああ」東郷は窓の外、秋の気配が漂うワシントンの空を見上げた。
「彼は“事実”しか見ない。だから“真実”を見落とす。……だが、それでいい。彼のような男が『海軍は失敗する』と報告してくれれば、陸軍は油断する。……我々にとっては、好都合だ」
⸻
その夜東條英機は宿舎で、東京の永田鉄山宛に詳細な報告書を書き上げていた。
その筆致は正確で、文字は美しく整っていた。
『……海軍ノ新証券ハ、年利0.5%トイウ常軌ヲ逸シタ低利ニテ発行サレル計画ナリ。現在ノ米国市場ノ好況ヲ鑑ミルニ、コノ証券ガ市場ニ受ケ入レラル可能性ハ皆無ト断ゼザルヲ得ズ。東郷大佐ハ、独自ノ経済理論ニ固執シ、現実ヲ直視セザル傾向アリ。海軍ノ財政計画ハ、早晩破綻スル恐レ大ナリ……』
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