録音機
時:1929年(昭和四年)、晩夏
場所:東京・三宅坂、陸軍省軍事課長室
東京の晩夏は、雨の中で湿り気を帯びた熱気が肌にまとわりつく、不快な季節だった。窓の外では蝉が最期の命を燃やすように鳴き叫んでいる。
しかし陸軍省軍事課長・永田鉄山の執務室だけは、まるで別の時間が流れているかのように、湿った軍服の匂いと、それ以上に鬱屈した怒りの気配が充満していた。
永田の前には、地方の連隊区司令部から上がってきた報告書の山が築かれている。
その内容は、どれも判で押したように同じだった。
『……管下ノ予備役将兵及ビ遺族、海軍ノ「納税代行」ニヨリ救済サル。現地デハ“海軍様”ノ声、高シ』
『……陸軍ノ威信、著シク低下。村ノ古老曰ク、「陸軍ハ赤紙(召集令状)デ人ヲ連レテイクダケダガ、海軍ハ金ヲクレテ人ヲ助ケル」ト』
「……屈辱だな」
ソファに深く身を沈めた石原莞爾が、天井を仰ぎながら吐き捨てた。彼は帰国報告のついでに、永田の元へ立ち寄っていた。机の上には、彼が愛用する満州の地図が無造作に広げられている。
彼の手には、海軍が発行した『納税代行証明書』の写しが握られている。そこには「奉天会戦ノ軍功ニ報ユ」と記されていた。
「奉天会戦だぞ、永田さん。あの泥と血の戦いは、我々陸軍の聖域だ。乃木希典大将と、第三軍の兵士たちが流した血だ。……それを海軍の小僧どもが、アメリカの博打で稼いだドル札で“買い取り”やがった」
石原の声には、珍しく激しい感情が混じっていた。
陸軍にとって過去の戦歴と名誉は、予算のない彼らが兵士を統率するための唯一の「資産」だった。
「お前たちの苦労は国が覚えている。英霊として祀る」
その精神的な契約だけで、貧しい農村の若者たちを死地に送り込んできたのだ。
だが東郷一成は、その精神的契約を極めて即物的な「経済的契約」に書き換えてしまった。
『国が覚えているなら、カネで払え』と。そして実際に払ってみせた。
「……我々は、魂を奪われたのだ」
石原は、証明書を机に叩きつけた。
「農民たちは、もはや陸軍を見ない。彼らが拝んでいるのは、海軍の“制度”という新しい神棚だ」
永田は万年筆を置き、静かに口を開いた。
その表情は、石原以上に苦渋に満ちていた。
「……分かっている。だが石原、我々に何ができる?」
永田は、窓の外の雨に煙る帝都を見下ろした。
「我々に、彼らの税金を払ってやれるか? 娘を身売りから救ってやれるか? ……できん。我々にあるのは、精神論と、飢えた兵士に『死ね』と命じる権限だけだ」
彼は、悔しげに拳を握りしめた。
「東郷は、そこを突いたのだ。奴は知っていたのだ。国家総力戦において、国民の生活を保障できぬ軍隊は、かつての恩賞の払えない主君と同じだということを。……奴は我々が成し得なかった『国民の保護』を、海軍という枠を超えてやってのけた。……ぐうの音も出ん」
そこへ血気盛んな若手将校が、ノックもなしに飛び込んできた。
「永田大佐! 断じて許せません! 海軍のやり方は、統帥権の干犯です! 即刻憲兵隊を動かし、海軍の工作員を……!」
「馬鹿者ッ!!」
永田の一喝が、雷のように響いた。若手将校がすくみ上がる。
「貴様、何を取り締まるつもりだ! 困窮する帝国軍人の家族を救った者を、罪に問うのか! そんなことをすれば、それこそ陸軍は国民の敵になるぞ!」
「し、しかし……!」
「それにだ……」永田の声が急に低く、冷たくなった。
彼は引き出しから、大蔵省から回ってきた別の書類を取り出した。
「……この海軍の事業によって浮いた国家予算の余剰分。……その七割が来月、大蔵省から我々陸軍の口座に特別陸軍軍事費として振り込まれることになっている」
若手将校は、絶句した。
石原が、自嘲気味に笑った。
「……そういうことだ、大尉。我々は、海軍に頬を札束で叩かれ、プライドをズタズタにされながら……その落ちた札束を拾って、軍需物資を買うしかないのだよ」
石原は立ち上がり、壁の地図――満州の地図を睨みつけた。
「……東郷一成。恐ろしい男だ。奴は、我々陸軍を殺しはしない。ただ『飼い殺し』にするつもりだ。……海軍のエサがなければ生きていけない、惨めな番犬としてな」
永田は、書類を閉じた。
その瞳の奥には、冷たい炎が燃えていた。
「……今は、耐えろ。エサでも何でも食らって、力をつけろ。……東郷のシステムにも、必ず穴はある。アメリカのバブルが弾けた時、奴の方舟が本当に沈まない保証はない」
永田の手元には、ワシントンD.C.の駐米陸軍武官補佐官、栗林忠道大尉から届いたばかりの、極秘暗号電文が置かれていた。
『……報告ス。行方不明トナッテイタ橘小百合ヲ、日本大使館内、海軍武官室ニテ確認セリ。同女ハ現在、東郷一成大佐ノ庇護下ニアル模様。……』
永田は、万年筆のキャップを静かに閉じた。
「……栗林からの報告によれば、追い返されたそうだ。『東郷大佐は多忙につき、予約なき面会は謝絶する』とな」
小百合への怒りはなかった。あるのは、計算が狂ったことへの冷徹な修正作業だけだった。
小百合は裏切った。いや、正確には「取り込まれた」のだ。東郷一成という男が持つ、底知れぬ引力に。あの「硝子の狼」と呼ばれた少女でさえ、彼の前では牙を抜かれた。
「栗林大尉は優秀な男だ。現場を見る目があり、合理的な判断力もある。将来、必ずや陸軍を背負う逸材になるだろう」
永田は独り言のように呟いた。
「だが、彼は育ちが良すぎる。常識人すぎるのだ。海軍という特権階級が築き上げた『外交儀礼』という名の壁を、土足で踏み越える図太さがない。……大尉風情が、今やアメリカ金融界の怪人として名を馳せる東郷大佐に詰め寄ったところで、門前払いを食らうのが関の山だ」
「……駒が、足りん」
その時、執務室のソファで不躾に足を組んで煙草を吹かしていた石原が、鼻で笑った。
「永田さん。あんたが自慢していた『硝子の狼』も、東郷の前ではただの『迷える子羊』だったというわけですか。……あの男は、人の心の隙間に入り込むのが上手い。論理だけではなく、情動で人を動かす術も知っている」
石原は紫煙を吐き出しながら、どこか楽しげに言った。彼自身、東郷のその毒に魅せられている自覚があるからだ。
「茶化すな、石原」
永田は眼鏡の位置を直した。レンズの奥の瞳は笑っていない。
「小百合が寝返ったということは、我々の監視の目は潰れたということだ。東郷がアメリカで何を企んでいるのか、その“核心”が見えなくなった。……奴は今、何か巨大な絵図を描いている。それを放置すれば、満州どころか帝国の屋台骨が海軍の色に染まりかねん」
「ならば、どうするのです? 私が行きましょうか」
石原が身を乗り出した。その瞳に、好敵手を求める飢えた光が宿る。
「東郷とサシで話せるのは、この私くらいでしょう。奴の思想の深淵を覗くには、それなりの“眼”が必要です」
「却下だ」
永田は即答した。
「お前を行かせれば、東郷と意気投合して、二人で世界最終戦争の計画でも練り始めかねん。それにお前はシナの満州だけでなく、雲南にも出向いてもらわねばならん。海軍が掘り当てた銅山の利権、きっちりと陸軍の分前を確保してこい。あの納税代行にやり返す意味でも、な」
永田は引き出しから一冊の人事ファイルを取り出し、机の上に滑らせた。
「……代わりの男を送る。階級は中佐、近々大佐昇進予定だ。立場も申し分ない。何より東郷の“毒”に決して侵されぬ、特異体質の男だ」
石原はそのファイルを無造作にめくり、その名前を見た瞬間、露骨に顔をしかめた。まるで腐った握り飯でも見たかのような顔だった。
「……東條、英機? ……冗談でしょう、永田さん」
石原は、心底呆れたように吐き捨てた。
「あの男に何ができるのです? 奴はただの『メモ魔』だ。上官の命令をノートに書き写し、部下の靴下の穴の数を数える以外に能のない、典型的な官僚軍人じゃありませんか。東郷のような、規格外の怪物を相手にできる器ではありませんよ。会話にすらなりますまい」
「だから良いのだ」
永田は石原の侮蔑を意に介さず、静かに言った。
「石原、お前の言う通り、東郷は天才だ。人を魅了し、巻き込む力がある。言葉一つで相手の世界観を書き換え、共犯者にしてしまう。小百合のような内心情の深い人間や、お前のような夢想家は、奴の『理想』に共鳴してしまう」
永田はファイルを指で叩いた。カツ、カツ、と硬質な音が響く。
「だが、東條は違う。奴には『夢』もなければ『理想』もない。あるのは『規則』と『命令』だけだ。奴は東郷の話を聞いても、感動もしなければ共感もしないだろう。ただ、『軍人勅諭に照らして正しいか』『陸軍の利益になるか』という定規だけで、淡々と事実を記録してくる。
東郷がどれほど雄弁に未来を語ろうと、東條はこう返すだけだ。『それは軍務局の所管外であります』とな」
「……なるほど」石原は苦笑した。
「つまり、感情を持たぬ録音機を送り込む、と?」
「そうだ。東郷の『思想』ではなく、東郷が作り上げた『システム』の強みと弱点を、事務的に見つけ出せる男が必要なのだ。……それに奴は私の言うことなら、親の遺言以上に忠実に守る」
永田は受話器を取り上げた。
「……人事局に繋げ。歩兵第一連隊長に内定していた東條英機中佐の辞令を、一時保留する。……ああ、そうだ。至急、私の部屋へ呼べ」
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