埋蔵金
時:1929年(昭和四年)、初秋
場所:横須賀鎮守府、長官官邸
東京湾から吹き付ける風には、まだ夏の気配が混じっていた。
横須賀鎮守府長官・山本英輔は、執務室の窓から鉛色の海を見下ろし、手元の分厚い報告書に視線を落とした。それはワシントンの東郷一成から届いた、あまりにも壮大で、そしてあまりにも危うい「方舟」の設計図だった。
『長期保有型・国家任務証券(長期債)』
アメリカ発の大恐慌という津波から日本を守るための、唯一のシェルター。しかし、この船を浮かべるには決定的に足りないものがあった。
「……浮力だ」
山本は独りごちた。
「東郷の読み通り、恐慌が起きればアメリカの投資家はこの長期債に殺到するだろう。その需要は数億ドル規模になるやもしれん。だが……」
傍らに控える参謀が、不安げに言葉を継いだ。
「はい。それほどの巨額を受け止めるための『裏付け(任務)』が、現在の海軍には不足しております。艦を造り、人を育てるだけでは、数億もの信用は生み出せません。器が溢れてしまいます」
制度債の発行には、必ず対価となる「任務」が必要だ。だが、これから押し寄せるであろうマネーの奔流を受け止めるには、海軍の通常の活動だけではパイが小さすぎる。
山本は目を閉じた。かつて海軍大学校で、若き日の東郷が語った言葉が蘇る。
『制度とは、国家の活動そのものを、信用へと転換する仕組みです』
「国家の活動……」
山本はカッと目を見開いた。
「そうだ。我々は探していた場所を間違えていた。海軍の中ではない。……もっと広大で、手付かずの鉱脈が、この国の足元に眠っているではないか」
彼は受話器を取り上げた。
「軍務局の堀君に繋げ。……『埋蔵金の発掘』を始めると伝えろ」
⸻
時:1929年(昭和四年)、9月
場所:東京・霞が関、大蔵大臣室
部屋の空気は、歓喜と困惑が入り混じった奇妙な熱気に包まれていた。
大蔵大臣の高橋是清は、目の前のテーブルに置かれたジュラルミンのケースを、まるで魔法の箱でも見るかのような目で見つめていた。
蓋が開かれている。中には、緑色のインクの匂いがする札束が、ぎっしりと詰まっていた。ジョージ・ワシントン――正真正銘の、米ドル紙幣だ。
「……たまげたな。こいつは干天の慈雨どころの騒ぎじゃない。空から金塊が降ってきたようなものだ」
是清は、震える指で札束の一つを手に取った。
当時の日本政府は、財界や日銀が熱望する「金解禁」の準備のため、極度の緊縮財政と、輸入決済のための外貨不足に喘いでいた。円の信用を守るために正貨(金)を輸出しなければならないが、輸出すれば国内の金が枯渇する。そのジレンマの中で、この「現ナマのドル」は、まさに命の水だった。
「軍務局長。……説明したまえ」
是清は、ケースを持参した堀悌吉に向き直った。
「君たちは、農民の税金を『肩代わり』すると言った。だが、なぜその支払いがドルでなされる? そして、このドルは一体どこから湧いてきた?」
堀は表情一つ変えず、涼やかに答えた。
「原資は、昨年の銀相場の荒波の中で我々がアメリカ市場から吸い上げた、あぶく銭……約9,000万ドルの一部です」
是清は息を呑んだ。あの騒動か。メロン米財務長官の失策を逆手に取り、東郷が稼ぎ出したという伝説の利益。
「我々はこの資金を使い、困窮する国民の納税義務を肩代わりします。具体的には、海軍が大蔵省に対し、国民の未納分相当額を『ドル』で納付する。……これにより、政府は手間なく外貨準備を積み増すことができます」
「……なるほど」是清は唸った。
「国民は税から解放され、政府は外貨を得る。海軍は感謝される。……三方良しか。だが堀君、これだけのドルをばら撒いてしまって、君たちの懐は大丈夫なのか?」
堀は、ニヤリと笑った。
「ご心配なく。今回はあくまで『試運転』です」
彼は一枚の書類を指し示した。
「対象は、日清・日露戦争の従軍経験者、戦死者遺族、そして現役将兵の家族に限定しております。名目は『国家功労者への報恩』。これならば、持ち出し資金は我々の手持ちの範囲内で収まります」
是清は、その狡猾な戦略を瞬時に理解した。
「……限定品にするわけか」
「はい。いきなり全国民を対象にすれば、資金がショートします。まずは『海軍は身内を見捨てない』という実績を作り、国民の間に『私もあの制度に入りたい』という強烈な渇望感を植え付ける」
堀は窓の外、太平洋の彼方を睨んだ。
「そしてその渇望感が頂点に達し、アメリカ市場が崩壊して我々の『長期債』に世界中のマネーが殺到した時……。我々はその莫大な資金を使って、対象を全国民へと拡大するのです。このシステムを、日本経済全体を回す機関へと進化させるために」
是清は、ケースの中のドルを見つめた。
これは単なるカネではない。最初の「呼び水」なのだ。
「……いいだろう、堀君」
是清は重々しく頷いた。
「やってみせろ。この国がドル不足で干上がる前に、そのポンプとやらで、強欲なヤンキーどもの富を根こそぎ吸い上げてこい」
⸻
場所:北関東、冷害に喘ぐとある寒村
村の公民館には、湿った絶望の匂いが充満していた。
不作と不況のダブルパンチ。税務署の督促は死神の鎌のように鋭く、農民たちの首元に突きつけられていた。娘を身売りに出す話が、隣の家からも、その隣の家からも聞こえてくる。
その公民館の広場に、海軍のトラックが土煙を上げて乗り付けてきたのは、そんな昼下がりだった。
「海軍特別納税相談所」
急ごしらえの看板の前で、村一番の古株である作造は、泥だらけの手をこすり合わせながら小さくなっていた。
(……お役人様が、なんの御用だべ。また徴兵か、それとも寄付の強要か……)
彼の右足は、雨の日になると疼く。二十五年前、日露戦争の奉天会戦で、弾薬箱を背負って泥濘を這いずり回った時の古傷だ。国のために戦った。だが国は、帰ってきた彼に何もしてはくれなかった。あるのは毎年届く、冷たい納税通知書だけだ。
「次、作造殿」
若い主計中尉の声に作造はビクリと震え、長机の前に進み出た。
「は、はいっ! お許しくだせえ! 今年の税金は、娘が奉公に出ればなんとかなるんで、どうか田んぼだけは……!」
彼は土下座せんばかりに頭を下げた。しかし、返ってきたのは意外なほど穏やかな声だった。
「……顔を上げてください、作造殿。我々は、取り立てに来たのではありません」
中尉は、分厚い帳簿を机の上に広げた。そこには、村の男たちの名前と軍歴が、びっしりと書き込まれている。
「明治三十八年、第三軍兵站部配属。奉天会戦における弾薬輸送任務に従事。……評価は『優』。間違いありませんな?」
「は、はい。確かに……」
「ご苦労さまでした。……貴殿のその時の汗と血は、消えてなどおりません。国の帳簿に、ずっと“資産”として眠っていたのです」
中尉は、懐から一枚の証書を取り出した。菊の御紋と、海軍の碇のマーク。そして『納税代行証明書』の文字。
「海軍は、貴殿の過去の任務遂行を、現在の価値として再評価いたしました。その評価額に基づき、今年度の貴殿の未納分の税金は、帝国海軍が全額、政府に立て替え払いいたします」
作造は、口をパクパクさせた。意味が分からなかった。
「た、立て替え……? ということは、オラは海軍様に借金をすることになるんで……?」
「いいえ」中尉は、静かに首を横に振った。
「作造さん。これは借金ではありません。貴方の家の床下に、二十五年前の金貨が埋まっていたと思ってください。我々は今日、その『埋蔵金』を掘り出しに来たのです」
「……まいぞう、きん……?」
「ええ。貴方が国に貸していた『貸し』を、今、国が返しただけのことです。ですから、貴方が新たに払うものは何もありません。……娘さんを、売る必要もありません」
その言葉が作造の老いた脳に染み込むまで、数秒かかった。
埋蔵金。自分の苦労が、古傷の痛みが、二十五年の時を超えて、今、娘を救った。
「……あ、あぁ……」
作造の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。彼は証書を押し頂き、泥だらけの床に額を擦り付けた。
「ありがてえ……ありがてえ……! 海軍様は、見ていてくださったんだ……オラたちのことを、忘れねでいてくれたんだ……!」
その日、村中で同じような光景が繰り広げられた。
救われたのは、作造だけではない。村のあちこちで、安堵の涙と、海軍への感謝の声が上がった。
「聞いたか? 海軍さんは、身内を見捨てねえ」
「やっぱり頼りになるのは軍艦だべ」
その声は、野火のように日本全土へと広がっていった。
それは単なる救済ではなかった。国民の心の中に、「自分たちの過去の苦労(任務)が、国の力(信用)になっている」という強烈な当事者意識と、海軍という組織への絶対的な忠誠心を植え付ける、高度な心理戦の勝利だった。
この日、この寒村から大蔵省へ納められるはずだった「円」は、海軍の懐から出た「ドル」によって決済された。
そして作造たちの「感謝」と「生存」という目に見えないエネルギーが、海軍の新たな「信用」としてチャージされ、次の制度債を発行するための裏付けとなっていった。
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場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
東郷一成は、東京から届いた暗号電文を読み終え、ゆっくりとコーヒーカップを置いた。
窓の外では、アメリカの繁栄を象徴するような秋晴れの空が広がっている。新聞スタンドには「ダウ、依然として最高値圏を維持」の文字が躍っていた。
「……うまくいったようですね、大佐」
副官の伊藤が、安堵の表情で言った。
「国内での『試運転』は上々です。持ち出し資金も、想定の範囲内。政府も国民も、海軍のシステムを歓迎しております」
「ああ。堀局長と山本長官の采配は見事だ」
東郷は静かに頷いた。
「これで、日本側の『受け皿』は完成した。国民という広大な大地に、配管は繋がり、ポンプも正常に動いている。……あとは」
彼は立ち上がり、壁のカレンダーを見つめた。
1929年、10月。
そのページが、風に吹かれてかすかに揺れた。
「……あとは、水源が決壊するのを待つだけだ」
今、この部屋にある「長期債」の申し込みリストは、まだ白紙に近い。
ウォール街の住人たちは、年利0.5%のこの証券を「クレイジーな日本人のジョーク」だと嘲笑い、見向きもしていない。
だが、東郷には聞こえていた。
遠く地平線の彼方から響いてくる、巨大な崩壊の地鳴りが。
「……伊藤君。シャンパンを冷やしておいてくれ」
「……お祝いですか?」
「いや」
東郷はどこまでも深く、そして悲しげな笑みを浮かべた。
「……葬式の準備だよ。一つの時代の、な」
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