勝負師の算盤
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:横須賀、横須賀鎮守府
鎮守府の空気は、台風の接近を待つ湾内のように、重く張り詰めていた。
窓の外では蝉時雨が降り注ぎ、アスファルトを溶かすような熱気が立ち上っている。しかし、鎮守府長官室室内の三人の男たちの周りだけは、氷点下の冷徹な思考が渦巻いていた。
海軍軍務局長の堀悌吉。
横須賀鎮守府長官に赴任した山本英輔。
そして堀の親友であり、現在は空母「赤城」の艦長を務める山本五十六。
彼らの視線は、テーブルの中央に置かれた一枚の紙片――ワシントンの東郷一成から届いたばかりの、極秘の暗号電文に注がれていた。
『……米国市場、末期的症状ヲ呈ス。早晩、大規模ナル信用収縮ハ不可避。対策トシテ「長期保有型・国家任務証券(長期債)」ノ発行ヲ至急具申ス。目標、我が国ノ金融システムヲ、米国発ノ恐慌ヨリ“デカップリング”スルニアリ……』
「……デカップリング、か」
最初に沈黙を破ったのは、堀だった。彼の指先が、電文の横に置かれた東郷直筆のレポートの表紙を、静かになぞる。
「……面白いことを考える。嵐が来ると分かっていながら、船を港に隠すのではない。嵐の海の中で全く影響を受けない、新しい種類の“潜水艦”を造ろうというのか」
「しかし、堀」
横須賀鎮守府長官の山本英輔が、その巨躯を椅子に沈めたまま、鋭い目で口を挟んだ。
「その潜水艦は、本当に浮上できるのかね? 東郷君の言う通り、恐慌が来れば市場は現金を渇望する。そんな時に『三年間売れません』などという、流動性のない紙切れを、本当に資本家たちが買うと思うかね?」
その最も根源的な疑問。
それはこの「長期債」構想の成否を分ける、最大のアキレス腱だった。
「……五十六」堀は、親友に水を向けた。「君の意見は?」
東郷の前任駐米武官でもあった山本五十六は、この数日間、東郷から送られてきた膨大なデータを不眠不休で分析し続けていた。彼の頭脳は今や、東郷の思考をトレースする巨大なシミュレーション装置と化していた。
「……買う」
五十六はきっぱりと言った。その声には、一切の迷いがなかった。
「それも、我々の想像を絶する規模で」
堀と山本英輔は、黙って次の言葉を待った。
「お二人が懸念されるのは、『流動性』の問題。恐慌時には、誰もが現金を欲しがる。それは平時の常識だ。しかし、パニックの本質はもっと別の場所にある」
五十六は立ち上がると、黒板に二つの単語を書きつけた。
『未来』 vs 『過去』
「東郷君が喝破した通り、今のアメリカの株価は『未来への期待』という、実体のない熱狂で支えられている。一方、我々の制度債は『過去の実績』という、動かぬ事実で裏打ちされている。……恐慌が起きた時、何が起きるか?“未来”が死ぬんだ」
五十六の声に、熱がこもり始めた。それはもはや、冷静な分析官の声ではなかった。巨大な賭場の流れを読み切り、乾坤一擲の勝負に出ようとする、稀代の勝負師の声だった。
「人々は、昨日まで信じていたバラ色の未来予測が、ただの嘘だったことに気づく。その瞬間、株価という『未来の価値』はゼロになる。連中はパニックに陥り、確実な価値の保存手段を求めて逃げ惑う。
だが、逃げ込むべき『安全な港』はどこにもない。金や銀は、アメリカ政府自身がその価値を政治的に操作できることを証明してしまった。銀行預金は、連鎖倒産で紙くずになる」
彼は、チョークを握りしめた。
「その全ての“未来”が死に絶えた焼け野原で、唯一つだけ、輝きを失わないチップが残る。それが、我々の『過去の実績』だ。
日本海軍は、対馬沖でバルチック艦隊を沈めた。
日本海軍は、済南で同胞を救った。
日本海軍は、国家の危機において、無限責任でその義務を果たすと宣言している。
……資本家という生き物は、究極の恐怖の前では利回りなど求めん。彼らが求めるのはただ一つ、『賭け金がゼロにならない』という絶対的な保証だけだ。
そしてその保証を与えられるのは、この地球上で、もはや株式会社(有限責任)ではない、我々帝国海軍(無限責任)しかいない」
堀と山本英輔は、息を呑んで五十六の言葉に聞き入っていた。
「……堀、英輔さん」五十六は、二人に向き直った。
「これは金融商品や金融政策などという生易しいものではない。これは日本の歴史上最大の“賭け”だ。東郷君はアメリカ経済の崩壊という『親の総崩れ』に、日本という国の全財産を張ろうとしている。
そして俺の計算では――この賭け、勝てる。それも、場にある有り金全部を掻っ攫うほどの大勝ちだ」
彼はそこで一度、言葉を切った。その瞳の奥で、常人には見えぬ遥か未来の賽の目が転がるのが見えるかのようだった。
「……問題は、勝った後だ。テーブルの上の全てのチップを手に入れた時、俺たちは一体どうする? 新しいカジノの胴元になるのか、それとも……」
室内は完全な沈黙に支配された。
蝉の声だけが、遠くで鳴り響いている。
五十六の言葉は、この計画が持つ常識を超えたスケールと、その先に待つ未知の未来を、三人の男たちに突きつけていた。
その瞬間、堀悌吉の瞳の中で何かが切り替わった。それは、ワシントンD.C.から橘小百合が提出し東郷が清書した、現地での詳細な観察レポートだった。その末尾に記された、彼女の率直な感想。
『……現地の投資家たちは、NCPC債の長期保有案を一笑に付しました。“ゴミのような利回り”、“死に金”、“誰が買うものか”と。彼らの目は欲望で濁り、足元の崩壊が見えていません。しかし私には見えます。この“ゴミ”と呼ばれた証券が、やがて溺れる者たちがすがりつく、唯一の黄金の舟となる光景が……』
「……ゴミ、か」
堀はその言葉を噛み締めるように繰り返した。
口元に、皮肉で、そしてどこか哀れみを含んだ笑みが浮かぶ。
「小百合君の言う通りだ。今の彼らにとっては、これはゴミだろう。だが錬金術とは本来、卑金属を黄金に変える術ではない。……人々が見向きもしない『ゴミ』の中に、真の価値を見出す眼力のことだ」
彼は、二人の山本に向き直った。その目は覚悟に満ちていた。
「五十六。君は『勝った後、どうする?』と問うたな」
「ああ」
「答えは一つだ。……我々が新しいカジノの胴元になるのではない。我々は焼け野原になった世界に、新しい『市場』という名のインフラを敷設する、建設業者になるのだ。そのための資金と信用を、この一戦で総取りする」
蝉の声だけが、遠くで鳴り響いている。しかしその声はもはや、暑苦しい雑音ではなかった。それはこれから始まる祭りの前の、静かな囃子のように聞こえた。
東郷一成がワシントンで一人描き出し、山本五十六が勝機を見出し、そして堀悌吉がその実現のための回路を繋いだ。
三人の天才たちが、それぞれの持ち場で、一つの巨大な歯車を回そうとしていた。
「……堀」
山本英輔が、絞り出すように言った。彼の思想家としての理性が、五十六の勝負師としての直感の、そのあまりの巨大さに圧倒されていた。
「……我々は、本当にこの賽を振るのか? ……この東郷一成という男が設計した、あまりにも巨大で、そしてどこへ向かうか誰にも分からない、この賽を」
その問いに、堀悌吉はすぐには答えなかった。
彼はただ窓の外の、真夏のぎらつく太陽を見つめていた。
その瞳の奥には、これから始まる長い長い嵐と、その先にある、まだ誰も見たことのない新しい水平線が、はっきりと見えているようだった。
「……振るしかないだろう」
彼は誰に言うでもなく、静かにつぶやいた。
「我々はもうとっくの昔から、この賭場に上がってしまっているのだから」
その日、日本海軍は決定を下した。
世界の終わりが来る前に、自らの方舟の扉を開くことを。
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