無限責任
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
ワシントンの夏は、まるで熱病のように湿った熱気を街路に淀ませていた。駐米武官東郷一成の執務室のブラインドは固く下ろされ、室内に差し込む光はまるで深海に届く陽光のように、頼りなく揺れていた。
机の上に山と積まれたウォール・ストリート・ジャーナルと、ニューヨーク連銀から極秘に入手したブローカーズ・ローンの残高推移グラフ。その数字の羅列が彼の脳髄を直接灼き、思考を鈍らせる。
「……伊藤君」
東郷はこめかみを押さえながら、低い声で言った。
「今日の、NCPC債の終値は?」
「はっ。シカゴ、ニューヨーク両市場とも、ストップ高を記録。……もはや、誰もその本当の価値を測れない状態にあります」
副官の伊藤整一の声は、硬かった。
東郷は、乾いた笑いを漏らした。笑うしかなかった。
自分が設計した堅牢なはずの「要塞」が、今やウォール街の強欲な建築家たちの手によって、天を衝くほどの、しかし中身は空っぽの「バベルの塔」へと、無許可で増改築されている。そしてその塔の基礎工事に使われているのが、ブローカーズ・ローンという名の砂上の土台なのだ。
(……私は、タイタニックを設計したつもりはなかったのだがな)
彼は自嘲気味につぶやいた。
自分は、世界経済という大海を日本が乗り切るための、堅牢な方舟を造ったはずだった。しかしアメリカという名の海は、その方舟を豪華客船に祭り上げ、船上で狂乱のダンスパーティーを始めてしまった。そしてその船は今、巨大な氷山(恐慌)に向かって、全速力で突き進んでいる。
(まずは、認めねば。……デカップリングは、失敗した)
雲南の銅という新しい錨を打とうとした。だがその錨綱すら、投機家たちはレバレッジをかけるためのロープとして利用し始めた。もはやアメリカ経済という巨大な船体から、NCPC債という名の救命ボートを切り離すことは不可能だ。共に沈むか、あるいは――
(船が沈む前に、乗客を別の船に移すしかない)
東郷は、一枚の白紙のレポート用紙を前にペンを握りしめた。
頭痛が思考を妨げる。だが、時間はなかった。
彼は霞が関の海軍省に宛てて、新しい「方舟」の設計図を書き始めた。それは来るべき大洪水の後に、日本の金融システムの「種」を生き残らせるための、最後の、そして唯一の策だった。
【極秘】
海軍省経理局・制度調査室 御中
昭和四年八月付
件名:『長期保有型・国家任務証券』(以下、長期債)発行ニ伴ウ、将来財政影響ノ試算
(序)
本報告書は、駐米海軍武官(東郷一成大佐)よりの提言に基づき、現行の金融市場が構造的脆弱性を内包し、近く大規模な信用収縮(恐慌)に見舞われる可能性を前提とする。その際、我が「制度債」の信認を維持し、かつ国家の総力を増強するための財政的手段として、新たに発行を計画する『長期債』の構想を提案するものである。
ペンを走らせながら、東郷の脳裏には日米の財閥や銀行、保険会社の顔が浮かんでいた。彼らもまた、このアメリカの狂騒の熱に浮かされ、NCPC債の短期的な利益に酔いしれている。しかし彼らは本質的に臆病だ。嵐が来れば、真っ先に安全な港へと逃げ込むだろう。そのための「港」を、こちらで用意してやるのだ。
第一部:『長期債』ノ発行ロジック
商品設計:
名称: 帝国海軍・国家任務長期保有型証券
性質:3年間の譲渡・売却を禁止するロックアップ条項を付与。
保証: 期間満了後の元本(円建て額面)を、帝国海軍がその全資産(※注1)をもって完全保証。
利回り: 年率0.5%(固定)。通常国債より低利だが、元本保証の絶対的安定性を訴求。
購入資格: 法人(銀行、保険、信託、財閥本社等)に限定。
(※注1:ここでの「全資産」とは、艦艇・施設等の物理資産に加え、「制度債」発行権益そのものを含む、事実上の無限責任を指す)
伊藤がその「無限責任」という一文に、息を呑んだ。
「大佐……これは、あまりにも危険では。もし、万が一、海軍がその責務を果たせなければ…」
「その時は、我々が終わるだけだ」
東郷は、きっぱりと言った。
「艦長は、自らの艦と運命を共にする。それが海軍の信用の根幹だ。我々は、この国の最後の防波堤となる覚悟を、ここで内外に示さねばならん」
彼は、ペンを走らせ続けた。
市場心理分析:
恐慌発生時、市場は流動性(現金)と安全性(価値の保全)を渇望する。
株・社債は暴落し、紙くずと化す。銀行預金すら取り付け騒ぎにより危険に晒される。
その中で「日本帝国海軍」という、国家最終暴力装置による「任務遂行による絶対的元本保証」は、金に匹敵する究極の「安全資産」として市場に認識される。
投資家は利回り(リターン)ではなく、資産の保全(リスク回避)を最優先とし、『長期債』に資金を逃避させる。
それはアメリカで起きている熱狂とは、全く逆の心理を利用した戦略だった。ハイリスク・ハイリターンを求める「ハイプ」の経済から、ローリスク・ローリターンを求める「恐怖」の経済へ。その地殻変動が起きた瞬間に、全ての資金を受け止めるための、巨大な受け皿。
書き終えた東郷は、ペンを置いた。
頭痛は、さらに酷くなっていた。
この設計図が、本当に機能するのか。自信はなかった。
ただ、これ以外に道はないという、絶望的な確信だけがあった。
これは、ただの金融商品ではない。
これは、熱病にうなされる人々を、正気に戻すための「解熱剤」だ。
ハイリスク・ハイリターンの狂騒から、ローリスク・ローリターンの現実へと、彼らを軟着陸させるための「処方箋」なのだ。
そしてその処方箋の根底にあるべきなのは、国民の生活を守るという、国家の、そして軍隊の、最も根源的な「任務」そのものでなくてはならない。
東郷はレポートの序文に震える手で、最後の一文を書き加えた。
『……本計画の究極の目的は、金融市場の安定に非ず。市場の狂騒が生み出す、国民の“絶望”と“不信”から、我が国体を守護することにあり』
ふと、気配を感じて東郷は顔を上げた。
執務室のソファに、旅の疲れから泥のように眠っていたはずの橘小百合がいつの間にか起き上がり、毛布を肩に掛けたまま立っていた。その瞳は充血しながらも、主人の仕事を直視していた。
「……起きたか、小百合さん」
「……申し訳ありません。護衛が寝入ってしまうなど」
「いい。君は大陸を横断したのだ。……だが、見てしまったようだな」
東郷は、書き上げたばかりの『長期債』の原案を彼女の方へ滑らせた。
小百合はそれを拾い上げ、震える指で文字を追った。
「……年利、0.5パーセント……?」
彼女は、信じられないという顔で呟いた。
「閣下。今のウォール街は、一日で数パーセントの利益が出る世界です。こんな……ゴミのような利回りの証券を、誰が買うというのですか。誰も見向きもしません」
「その通りだ」
東郷は、薄い笑みを浮かべた。自嘲と、絶対的な自信が混じった笑みだった。
「今の狂った連中には、これはゴミにしか見えんだろう。……だがな、小百合さん。幸からの手紙にも書いてあったのだよ。『市場にはブレーキがない』と」
小百合はハッとした。幸の悲痛な叫びが蘇る。
『NCPC債は絶対に値下がりしないという神話が、暴走を生んでいる』
「この長期債は、その神話を自ら否定するものだ。『儲かりません。流動性もありません。その代わり……絶対に沈みません』とな」
東郷は立ち上がり、窓の外の闇を指差した。
「タイタニックが氷山にぶつかる瞬間まで、乗客は救命ボートなんて邪魔な木の塊だと思っている。ダンスの邪魔だとね。……だがひとたび船が傾き、海水が足元を濡らし始めた瞬間、その木の塊の価値はどうなる?」
小百合は、書類を握りしめた。
そこにある「無限責任」の文字が、熱を帯びているように感じられた。
「……ゴールドよりも、高くなります」
「そうだ。その時、彼らは全財産を投げ打ってでも、この『0.5%』のチケットを奪い合いに来るだろう。……私はその時のために、誰も見向きもしない救命ボートを、今、ボルトで甲板に固定しようとしているのだよ」
小百合は、東郷の横顔を見つめた。
この男は、狂乱の宴の最中に、一人で黙々と棺桶……いや、方舟を作っている。
それも、海軍という組織の全存在を人質(無限責任)にして。
彼女の脳裏に、大陸横断バスで見た、絶望した農夫たちの顔が浮かんだ。そして、その絶望を利用して肥え太るウォール街の亡者たちの顔も。
東郷が作ろうとしているのは、その両方を――強欲な者も、無垢な者も――破滅の淵から救い上げるための、唯一の蜘蛛の糸なのだ。
「……忙しくなるぞ」
東郷は頭痛をこらえるようにこめかみを押さえたが、その目には、もはや迷いはなかった。
部屋の空気は悲壮感から、静かな戦闘態勢へと変わっていた。
小百合は冷めたコーヒーを下げ、新しい熱い茶を淹れるために給湯室へと向かった。
その背中は、もはや迷える少女のものではない。
「タイタニックの設計者」に寄り添う、「航海士」の背中だった。
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