大陸横断
「大佐! 大変です! 西海岸の、その、修学旅行団から緊急の連絡が!」
伊藤の叩きつけるような声だった。東郷の背筋を氷の針が滑り落ちていく。まさか子供たちの身に何かあったとでもいうのか。
「……落ち着け、伊藤君。何があった」
「それが……」伊藤は言葉を、まるで喉に詰まった魚の骨を吐き出すようにして口ごもり、一枚の電文を差し出した。紙の端が彼の汗で湿っている。
『……令嬢・幸様ノ護衛、橘小百合ガ、昨夜サンフランシスコノ宿舎ヨリ、無断デ姿ヲ消セリ。捜索中ナレドモ、行方不明…』
「……何だと?」
東郷の思考が、ぷつりと音を立てて停止した。
小百合が消えた? なぜだ。幸のそばを、影のように片時も離れなかったあの少女が。陸軍の、あの永田が送り込んできた硝子細工のような少女が。
その時、執務室の扉がひどく控えめにノックされた。
「……大佐。お客様です。……その、アポイントはないのですが、令嬢のご友人だと…」
伊藤が訝しげに扉を開ける。そこに立っていたのは、まるで大陸横断貨物列車の車輪にでもしがみついてきたかのような、埃と硝煙と、そして圧倒的な疲労にまみれた一人の少女だった。
ブロンドに近い明るい茶色の髪は乱れ、灰色の瞳は深く落ち窪んでいる。しかしその背筋は、非現実的なほどまっすぐに伸びていた。その瞳の奥には、消える寸前の蝋燭のような、激しい意志の光が宿っている。
橘小百合だった。
「…………小百合さん」
東郷は我が目を疑った。サンフランシスコにいるはずの人間が、なぜここにいる。大陸を三千マイル、一体どうやって。
小百合は、まるでレールの上を滑るように東郷の前まで進み出ると、深々と、しかし今にも崩れ落ちそうな危うさで、頭を下げた。
「……東郷、大佐。……お嬢様からの言伝を、お届けに参りました」
彼女は懐から、一つの小さな布袋を取り出した。中には丁寧に折りたたまれた手紙と、汗と時間でくしゃくしゃになった数枚のドル紙幣と、幸が肌身離さず持っていたはずの、小さなNCPCカードが入っていた。
「……幸様は、これを全て私に託されました。『これを使えばワシントンまで行けるはず。お父様は、今一人で危ない場所にいる。私は日本に帰るしかないから、小百合さんがお父様を護ってあげて』と」
東郷は言葉を失った。幸が、自分のなけなしの財産を全てこの少女に。
なぜだ。何が起きている。
「……小百合さん。一体何があった。君の任務は、幸の護衛だったはずだ」
その問いに、小百合の瞳が初めて水面のように激しく揺らいだ。
彼女は唇を噛み締め、そして、身体の奥から何かを絞り出すように言った。
「……私の本当の任務は、幸様の『監視』でありました。陸軍省からの特命です」
その告白に東郷は驚かなかった。ただ静かに頷いただけだった。
「……知っていたよ。……それで?」
「……しかし、私はその任務を放棄いたしました。幸様の、本当の『護衛』となるために」
⸻
小百合の脳裏に、数日前のカリフォルニアの夜が、熱を帯びたフィルムのように蘇った。
ロサンゼルスの夜景は、まるで宝石箱を、というよりも、無数の神経細胞が放つ冷たい燐光の海のようにどこまでも広がっていた。ホテルの客室で、東郷幸はその光の洪水から目を背けるように、窓ガラスに映る自分の青ざめた顔を、ただじっと見つめていた。
隣に座る橘小百合は、何も言わなかった。ただ、幸の小さな手が氷のように冷たく震えているのに気づき、自らの手をそっと重ねた。その温もりが、幸の心の奥に凍りついていた恐怖を、ほんのわずかだけ溶かした。
「……小百合さん」
幸の声は夜の静寂に吸い込まれて消え入りそうに、か細かった。
「私、手紙を書かなきゃ。……お父様に、伝えなきゃいけないことがあるの」
その言葉に小百合は息を呑んだ。幸の瞳はもはや子供のものではなかった。それはこれから起きる大災害をただ一人予見してしまった預言者の、絶望と使命感に満ちた、恐ろしいほど澄んだ瞳だった。
小さな机に向かい、一心不乱に何かを書き殴る、その鬼気迫る横顔を、小百合は息を殺して見守っていた。
やがてペンを置いた幸は、振り返った。瞳は涙でうっすらと潤んでいる。
その時小百合はすべてを理解し、そして決断した。永田の命令も、石原の期待も、もはやどうでもよかった。目の前で泣きじゃくる、この恐ろしくも純粋な魂を守ること。そして、この魂が守ろうとしている、遠い国の父親を助けること。それが自分の新しい「任務」だと。
「幸様、私がお父様のところに参り、その手紙を直接お届けいたします」
「でも、引率の目が。どうやって」
「……私に、考えがあります」
翌日、修学旅行団がゴールデンゲートブリッジの建設計画予定地を見下ろす丘を訪れた時、「事件」は起きた。
会田まさ江が、突然「気分が悪い」とその場に崩れ落ちたのだ。顔は真っ青で、呼吸は浅い。引率の教師も、警備の者も、美しい少女の突然の不調に一斉に駆け寄った。
「大丈夫か!」「医者を!」
その小さな混乱の中心で、まさ江は苦しい息の下、かろうじて幸にだけ聞こえるように囁いた。
「……幸さん。……これで、よかったのかしら」
「ありがとう、まさ江さん。……あなたがいてくれて、良かった」
幸はまさ江の手を固く握った。まさ江はただ静かに頷いた。彼女は幸が何をしようとしているのか、その全てを理解していた。そして自らが演じるべき「役」を、完璧に演じきったのだ。
人々の注意が全て病人の少女に集まっている、その一瞬の隙。
小百合は影のようにその場を離れ、丘の麓で待っていた一台のタクシーに滑り込んだ。幸がなけなしのNCPCカードで手配しておいた、逃走用の車だった。
⸻
小百合は、大陸横断の過酷な旅路を乾いた声で語り始めた。貨物列車の隅で寒さに震えた夜。食堂の皿洗いで、わずかな食事を手に入れた日。ロシア系の血が混じった白人に近い容貌と、尼港で身につけた生存術だけが、彼女の武器だった。追っ手を警戒し、決して同じ場所に長居はしない。幸から託された「警告」のメモだけを、肌身離さず守り抜いた。
最近事業を急拡大したグレイハウンドのバス乗り場は、移民と失業者たちの行き場のない溜息で満ちていた。小百合はその濁った流れに身を任せ、東を目指すバスに乗り込んだ。
旅は、地獄だった。
NCPCカードは、日本海軍の息のかかった西海岸では魔法の札だったが、内陸に入るにつれ、ただの奇妙な金属片へと変わっていった。頼りは幸が託してくれた、わずかなドル紙幣だけ。
バスの車窓から見える風景は、父が夢見たシベリアの荒野と、どこか似ていた。ネバダの砂漠、ユタの岩山、そしてコロラドの果てしない平原。そのどこまでも続く大地の上で、人々は貧しく、そして懸命に生きていた。停車するたびに乗ってくる、職を求めて東を目指す農夫たち。彼らの目は、日系人の田中氏と同じような借金に追われる者の絶望の色をしていた。
小百合は彼らに自分の持っていたパンを分け与えたことがあった。それは尼港で何もできなかった自分への、ささやかな贖罪だったのかもしれない。
心が折れそうになるたび、彼女の脳裏に幸の言葉が蘇る。
『お父様を、護ってあげて』
そうだ。自分には新しい任務がある。東郷幸という、この世界の誰よりも脆く、そして誰よりも強靭な魂を守るという任務が。そして彼女の父、東郷一成という、古い呪いを解く力を持つかもしれない男に、真実を告げるという任務が。
シカゴを過ぎ、ピッツバーグの煤煙を抜け、アパラチアの山々を越えた時、彼女の身体は限界に達していた。しかしその瞳の光だけは、少しも衰えてはいなかった。
ワシントンD.C.のユニオン駅に降り立った時、彼女はもはや一人の少女ではなかった。
一つの、揺るぎない意志そのものだった。
「……以上が、幸様からの言伝の全てです」
小百合は、幸が書き記したバブルの分析を東郷に渡した。
東郷は、黙ってその話を聞き、黙って幸からの手紙を読んでいた。それは陸軍という巨大な組織の呪縛を断ち切り、自らの意志で新しい忠誠の対象を見つけ出した、一人の戦士の物語だった。
「……大佐」
小百合は語り終えると、再び深く頭を下げた。
「幸お嬢様からの伝言は、以上です。……そしてこれが私の、最後の報告となります」
彼女は幸の言葉を書き留めた手帳を、東郷の前に差し出した。
「……私の父は、尼港で死にました。銀行の『借金』という名の呪いと暴力に殺されました。国は、助けてはくれませんでした。……しかし大佐の『制度』は、カリフォルニアで同じように苦しんでいた日本人を救いました。……幸様は、言っておられました。『借金とは本来、未来への共同投資であるべきだ』と」
彼女は顔を上げた。その瞳は、もはや死んではいなかった。
「幸様は、お父様がこのバブルの崩壊後、悪魔と呼ばれることを何よりも恐れておられました。……処分は、いかようにもお受けいたします。どうかその手紙とこの私を、あなたの駒としてお使いください」
東郷はすべてを聞き終えると、深く、深く息を吐き出した。
自分の分析と、娘の手紙。二つのカルテは、恐ろしいまでに正確に、同じ一つの「病名」を指し示していた。そして娘が自分を心配し、この少女を死地を越えてまで遣わした、その事実に、彼の胸は締め付けられるようだった。
(……幸。……お前は、そこまで……)
「……伊藤君」
東郷は目を開けた。その瞳にはもはや一片の迷いもなかった。
「……作戦を変更する」
「はっ」
「我々は、もはやこの狂乱を静観しない。……我々はこの崩壊の『引き金』を、自らの手で引く」
それはこの世界の運命を決定づける、静かな、しかし揺るぎない宣戦布告だった。
そして彼は、疲労困憊でその場に立ち尽くす小百合に向き直った。その目は、もはや彼女を陸軍のスパイとして見てはいなかった。
「……小百合さん。……よく来てくれた」
その声は、父親のように温かかった。
「君の任務は、今日で終わりだ。……いや、違う。今日から、新しい任務についてもらおう」
「……任務、でありますか」
「ああ」東郷は静かに言った。
「まず君には、私の『護衛』を頼みたい。そして私の娘、幸の『家族』で、あり続けてほしい。……長旅、ご苦労だった。幸からの最高の贈り物を、確かに受け取ったよ。……今夜は、ゆっくりお休みなさい。君の新しい『任務』は、明日からだ」
その言葉に小百合の身体の中で張り詰めていた鋼の線が、ぷつりと切れた。
彼女の膝が、がくりと折れる。
その華奢な、しかし鋼のように強靭な体を、東郷は、倒れる寸前で力強く支えた。
その腕の中で小百合は、尼港以来、初めて声を上げて泣いた。
あまりにも意外な、そしてあまりにも温かい提案。
小百合の凍てついていた心のダムが、音を立てて決壊した。彼女の瞳から尼港以来、一度も流したことのなかった熱い涙が、とめどなく溢れ出した。
彼女はその場に崩れるようにひざまずき、ただ、子供のように泣きじゃくった。
その嗚咽は、一つの魂が古い呪いから解き放たれた、最初の産声であった。
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