高原の上のピクニック
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:カリフォルニア州、ハリウッドヒルズ。とある映画プロデューサーの豪邸
その邸宅は、まるでおとぎ話に出てくる城のようだった。青々とした芝生の庭には孔雀が歩き、大理石のプールにはターコイズブルーの水がきらめいている。眼下には陽炎の中に沈むロサンゼルスの街並みが、ミニチュアのように広がっていた。
「ワオ! ビューティフル!」
パーティの主役である映画プロデューサー、ハワード・マクニールは、プールサイドに並んだ三人の日本の少女たちを見て、芝居がかった歓声を上げた。
東郷幸、会田まさ江、そして二人に付き添う橘小百合。彼女たちは日米友好の象徴として、このハリウッドの名士たちが集うパーティに修学旅行生ごと招待されたのだった。
「特に、君!」マクニールは会田まさ江の前にひざまずくと、その手を恭しく取った。
「君の瞳は、ヨセミテの湖よりも深い。君こそ、我が社の次の映画の子役にふさわしい!」
まさ江はそのアメリカ人特有の過剰な賞賛に戸惑い、頬を赤らめて幸の後ろに隠れた。その初々しい仕草が、男たちの心をさらに鷲掴みにする。
幸はその光景を冷静に、そしてどこか冷ややかに観察していた。
この男、ハワード・マクニール。彼はただの映画プロデューサーではない。ウォール街で「日本の預言者」と呼ばれる、最も成功した投機家の一人だった。
彼の「預言」は、実にシンプルだ。
「日本海軍が何かをする、というニュースが流れたらNCPC債を買え。ただ、それだけだ」
そのシンプルな神託に従い、彼はこの数ヶ月で、天文学的な富を築き上げていた。この城のような邸宅も、プールサイドに侍るハリウッド女優たちも、全ては日本の海軍からもたらされた「福音」の賜物だった。
(……この人たちは、知らない)
幸は、シャンパングラスを片手に高笑いする大人たちを見ながら、心の中でつぶやいた。
(自分たちが踊っているダンスパーティーの床が、今まさに足元から崩れ落ちようとしていることを)
彼女の小さな頭脳の中では、二つの全く異なる「数字」が冷たく回転していた。
【日米NCPC債・価格差シミュレーション】
日本市場(原価):
1制度円 = 約1円 ≒ 0.5ドル
(価値の源泉:海軍の「任務コスト」。価値は安定)
アメリカ市場(狂乱価格):
1制度円 = 4ドル
(価値の源泉:「投機的期待」と「非課税プレミアム」。価値は極めて不安定)
価格差、実に8倍。
このパーティにいる誰もが、この「8倍」という魔法の数字に狂っている。
彼らはブローカーから金を借り、4ドルでNCPC債を買う。そしてそのNCPC債を担保に、さらに金を借り、新しい株を買う。
彼らは自分たちが「投資」をしているつもりでいる。
だが幸の目には、その光景は全く別のものに見えていた。
(……これは、投資じゃない。ただの「手数料」だわ)
彼女の脳裏に、日本の商社マンたちの顔が浮かぶ。
彼らは日本で0.5ドルで仕入れたNCPC債を、このアメリカで4ドルで売りさばいている。
その差額、3.5ドル。
そのあまりにも巨大な利益が、どこから来ているのか。
それはこのパーティで高笑いしている、アメリカ人たちの「借金」からだ。
彼らは日本の商社マンに「未来を夢見る権利」の手数料として、3.5ドルを支払っているのだ。自分たちが借りた金で。
「……幸様」
小百合がそっと彼女の隣に来た。その硝子のような瞳が、幸の心を見透かすようにじっと見つめている。
「……あの方々は、まるで子供のようにはしゃいでおられますね。明日、全てを失うかもしれないというのに」
そのあまりにも的確な一言。
幸は、驚いて小百合の顔を見返した。
この人は分かっている。この狂乱の本質を。
「……小百合さん」
幸は声を潜めて言った。
「私、怖いの。この人たちが、いつか気づいてしまったら、って」
「何に、でしょうか」
「このパーティが全部、日本の海軍のお金で開かれているようなものだってことに。……ううん、違う。このパーティの費用を払うために、この人たちが必死で働いて、借金をしているんだってことに」
その時だった。
プールサイドで一人の男がバランスを崩し、派手な水音を立ててプールに落ちた。
酔っ払った銀行家だった。
周囲から、大きな笑い声が上がる。
誰も、助けようとしない。
誰も、その男が溺れているかもしれないなどとは、夢にも思っていない。
なぜならこのパーティでは、誰もが「沈む」はずがないのだから。
幸は、その光景から目を背けた。
胸が、締め付けられるように痛んだ。
これは、父・東郷一成が望んだ世界ではないはずだ。
(お父様……。あなたはこの光景を見て、どう思われるのですか)
パーティの喧騒をよそに小百合は、幸の小さな手が、冷たく震えているのに気づいていた。
彼女は何も言わず、そっとその手を握りしめた。
その温もりに、幸はこらえていた涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。
陸軍の間諜として、この少女を監視するために来たはずの小百合。
しかし今、彼女はこのあまりにも聡明で、あまりにも繊細な少女を、心の底から「守りたい」と思っていた。
この狂った世界の、醜い真実から。
「……幸様」
小百合は静かに言った。
「参りましょう。そろそろ、お帰りの時間です」
「……ええ」
二人の少女は、まだ狂乱のダンスが続くパーティ会場を、静かに後にすることにした。
会田まさ江は、マクニールから差し出された、分厚い映画の契約書に、困ったように微笑み返している。
彼女たちの背後で、ジャズの陽気な音楽と人々の高笑いが、まるで別の世界の出来事のように、遠ざかっていく。
帰り道の車の中で、幸は窓の外に広がるロサンゼルスの夜景を見つめていた。
無数の光の洪水。
その一つ一つが、誰かの「借金」で灯されている。
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:ワシントンD.C. 日本大使館・武官室
その日のワシントンの空気は、嵐の前の静けさを通り越し、もはや熱病のそれだった。
東郷一成の執務室は、まるで大学の研究室のようだった。彼はロンドンから届いたばかりの電文を、静かに読み返していた。
『……英国企業再編者クラレンスハットリー、不正融資発覚。不正融資ニ絡ミ、ロンドン金融市場混乱。ポンド急落、金ノ流出加速中。欧州投資家、安全資産トシテNCPC債ヘノ投資ヲ拡大…』
「……来たか」
東郷は静かにつぶやいた。傍らで、副官の伊藤整一が固唾を呑んでその横顔を見守っている。
東郷は壁に貼られた巨大な株価チャートの前に立つと、チョークで一本の線を書き加えた。それはすでに天を衝くほどの勢いであったダウ平均株価の曲線を、さらに急角度で上書きするものだった。
「伊藤君」東郷はペンを置くと、静かに問いかけた。
「君は、このチャートが何を意味するか分かるかね?」
「はっ。……市場が、いよいよ最終的な狂乱状態に突入した、ということかと……」
「半分正解だ」東郷は静かに首を横に振った。
「だが半分は違う。これはアメリカが自らの手で、自らが信奉する経済システムの『安全装置』を一つ残らず破壊してしまった、という記録だよ」
彼はまるで大学の講義をするように、指を折りながら語り始めた。
「第一に、彼らは『リスク』を消去した。最高裁がNCPC債にお墨付きを与えたことで、市場は『この賭けは絶対に負けない』という神託を得た。未来への期待は、狂信へと変わった」
「第二に、彼らは『コスト』をゼロにした。非課税という特権は利益追求への最後の歯止めを外し、欲望を無限に加速させた」
「そして第三に、彼らは『無限の利益』を見出した。日米間の価値定義の断絶が生み出したアービトラージは、どんな愚かな投資家ですら利益を上げられる、禁断の裏技だ。もはや誰も、企業価値などという現実を見る必要がなくなった」
東郷は、伊藤の目をまっすぐに見据えた。
「伊藤君、分かるかね? アメリカは自らの司法、立法、行政の失敗によって、“ハイプ・ドリブン経済(期待駆動型経済)”が本来持つべき、創造的破壊や健全な新陳代謝といったダイナミズムを、完全に失わせてしまったのだ。もはやそこにあるのは、システムの瑕疵を利用して無限に自己増殖する、中身のない記号(株価)のダンスだけだ」
「……大佐」伊藤は、絞り出すように言った。「……では、我々が今なすべきことは…」
東郷は、ワシントンの空を見つめた。
「FRBは、ロンドンを救うために金利を引き上げるだろう。しかしそれすらもはや無意味だ。いや、むしろ逆効果ですらある」
「逆効果、でありますか?」
「ああ。FRBがブレーキを踏めば踏むほど、ウォール街は『ドルは危険だ、NCPC債へ逃げろ』というパニックを起こす。そしてそのNCPC債を担保に、さらに市場に資金が流れ込む。市場の資金供給源はもはやFRBではない。この私だ。……伊藤君、ダウ平均は600ドルを超えるかもしれん」
その天文学的な数字に、伊藤は絶句した。
その時だった。執務室の扉がノックされ、書記官が息を切らして駆け込んできた。
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