金融タコ
それは、高橋是清との会談から数日後のことだった。
霞が関、海軍省の一室。
厚いカーテンに遮られた窓から、午後の光が細く射し込んでいた。机上には一枚の紙片
――「制度債」の見本券――
が置かれている。
それを囲んだ将校たちは、沈黙の中で互いの表情をうかがっていた。
誰もが、目の前の仕組みが単なる資金調達の道具ではなく、もっと大きな“化け物”であることを悟っていたからだ。
「通常、軍隊は一枚岩のヒエラルキーを持つ。だが我々、日本帝国海軍は違う」
東郷はゆっくりと語り出した。
海軍省、軍令部、連合艦隊、鎮守府、工廠、学校、元帥府――それぞれが天皇に直結する独立のピラミッド。
そこに「軍功=与信」というルールを持ち込めば、すべてが独自に制度債を発行できる。
「艦隊は艦隊債を、工廠は工廠債を、航空隊は航空債を、学校は教育債を……」
沢本が呟くように言葉を継ぐと、室内には不気味な静寂が落ちた。
それはまるで、無数の心臓が一斉に脈打ち始めるかのようだった。
一つの海軍が、幾つもの金融発行主体へと変貌してゆくのである。
南雲が腕を組み、低く唸った。
「しかも人事と作戦が横断してる……縦の隷属だけじゃない。制度債も、横に横に流れ出す」
呉で発行された工廠債が、横須賀の潜水艦建造に充てられる。
連合艦隊の艦隊債が、軍令部の命令ひとつで南洋の飛行場に吸い込まれる。
鎮守府で発行された小さな債が、数カ月後には研究所の実験装置に姿を変えている。
「これでは、大蔵省や他国が追跡しても……資金の流れは瞬時に横滑りする。捕まえようがない」
沢本は冷ややかに結論づけた。
まるで迷宮のように流動する信用回路。
外部から見れば、もはや混沌そのものだった。
東郷は紙片を指先で弾き、わずかに笑った。
「国家予算の外に、もう一つの財布を持つ。それが海軍の答えです」
表向きは条約を遵守し、正規空母の建造は制限される。
だが裏では――高速タービンの貨客船を制度債で建造し、戦時改装を前提に民間にリースし、運航させる。そして高速タービンの生産ラインも確保する。
上海の街角では、陸戦隊が「陸戦隊債」を発行して道路や倉庫を整え始める。同時に中国にも制度債が広がり始める。
それはもはや一軍の行動ではなく、独自の財政を持つ“自治政府”の動きに近かった。
「……タコだな」
南雲がぼそりと呟く。
「まるでタコじゃねえか。本土に頭を置きながら、手足は勝手に大陸や南洋で獲物を漁ってくる」
やがて沈黙の中で、山本英輔がゆっくりと口を開いた。
「……つまり我々は、もう一つの帝国を手にしたわけだ」
複数の独立した金融発行主体。
縦横に資金を流すネットワーク。
国家予算に依存せず、自己増殖する仕組み。
「表では模範的な条約遵守の海軍、裏では制度債という影の財政を操る金融生命体……」
沢本が眼鏡を外し、静かに言った。
沢本の言葉が落ちた瞬間、三人の視線が交錯した。
皆、同じ思いに行き当たっていた。
――制度債の正当性を担保するには、最終的に「かしこき方」をその信用保証人とするしかない。
それは、国家そのもののあり方を変えてしまう危険な選択でもあった。
窓の外には、まだ窓の外で、復興工事の槌音が一際高く響いていた。その外にはさらに震災の瓦礫が残る帝都の街並みが広がっていた。
だが、その瓦礫の下で既に芽吹き始めていたのは――国家を超えて蠢く「見えざる帝国」だった。
⸻
1923年、震災から数か月。
木造の大広間に、焦げ跡の匂いをまだ漂わせる東京の瓦礫を背に、人々は国本社の一室に集まっていた。
東郷一成は、机の上に一枚の見本券を置いた。
「制度債であります」
父、平八郎は静かに発行されたばかりの紙片を見下ろした。隣に座るのは、大審院長の平沼騏一郎。国本社の副会長として、彼は法の側から新制度の是非を見極めようとしていた。
「ふむ。これが君が前に話していた“通貨まがい”か」
平沼の声には警戒と好奇心が入り混じっていた。
「いえ」東郷は首を振る。
「通貨ではございません。あくまで海軍の役務、すなわち燃料、輸送、修理、あるいは食糧との交換を保証するものにすぎません」
平八郎は長い沈黙ののち、低く問うた。
「対外的には、何と説明するつもりか」
「欧米には、近代的な実力主義の信用創造と申します」
一成ははっきりと言った。
「任務達成度を数値化し、それを信用の根拠にする。彼らの言語に合わせれば、これは“合理的で近代的なシステム”として理解されましょう」
平沼が頷いた。
「確かに、資本家は“数値”と“成果”に弱い。だが――」
「内側は違うのだろう?」と平八郎が目を細めた。
東郷は静かに息を吸った。
「はい。内部では、年功を基本といたします。長く仕えた者が、確実に報われる。それが将兵の安心につながります。勲功は加点として与え、記録された演習や訓練は補助的に評価される。……つまり“表向き合理、裏向き安心”であります」
平沼は眉を上げた。
「安心、とな?」
「兵はこう申します」一成は淡々と続けた。
「“結局は年功だ。だが、若い者がどれほど働いても艦隊は組織で動く。これでいい”」
さらに別の例を挙げる。
「中堅将校は、“演習記録が信用になるなら、無駄な訓練じゃない。数字で残るのは悪くない”と」
「若い水兵は、“俺らの夜間航海もスコアになるのか。苦労が制度に残るなら、まぁいいか”と笑うのです」
その場の空気が、少し揺れた。
東郷は机に、軍事機密の解除された過去の演習報告書を並べてみせた。
「公開演習における、戦艦の発射弾数と命中率、航海距離と無事故記録、機関の稼働時間と燃費効率、飛行時間と練度評価――。これらはすべて、まとめた形で数値化できる。報告書をそのまま信用台帳に転写するのです。これを海軍の軍法会議で監査し、軍事機密をフィルタリングした後に枢密院と大審院に回します」
「……なるほど」
平沼の声に、わずかな感嘆が混じった。
「年功で安心を与えつつ、記録で合理を示すか。二つを織り交ぜれば、兵は不満を抱かず、外国も納得する」
平八郎は腕を組み、長い間黙っていた。そして低く呟いた。
「兵の汗と弾薬が、そのまま信用になる……。なるほど、一理ある。だが――」
平八郎が口を開いた。
「……わしは思い出したぞ。軍艦の発注は、昔から先払いが慣例だ。造船所に資金を払ってから、艦は数年後にやっと竣工する。それと同じよ」
老元帥は息子を見据えた。
「お前の制度債も、任務の結果を先払いするものだ。軍艦と同じ理屈じゃ。だから兵も商人も納得する。だがな、一成。艦は鉄の塊だ。誰の目にも見える。お前のそれは、まだただの紙切れだ。軍事機密が黒塗りになるだろうことを考えれば尚更だ。同じように信じろと言う方が無理な話ではないか」
平沼はゆるやかに頷き、言葉を継いだ。
「元帥の言う通りだ。問題は信用の『質』にある。東郷君、この制度債が通貨に抗するには、それだけでは足りぬ。通貨は“普遍性”と“記録”を武器にしている。制度債が真に力を持つためには、潰されぬための盾が必要だ」
深い皺を刻んだ口元をわずかに緩める。
「……憲法の下、この国の陸海軍は独立して動かざるを得ぬ。そのアンバランスは、むしろ宿命だ。東郷君。君の制度債は、その歪みに正面から飛び込んだ。だが――それが、かえって日本の長所に化けるかもしれぬ」
東郷は息を呑んだ。司法の頂点に立つ男の眼差しは、制度の危うさをすでに超えて、その奥にある国家の本性を見据えているようだった。
平八郎も同意するように低く唸った。
「いかに軍功を担保としようとも、世に出れば紙切れ扱いされる。兵や町人が安心して受け取るには、もう一段の工夫が要る。武器が欠けとるのだ」
二人の長老の声が重なった瞬間、東郷は背筋を正し、心の奥底に深い火が灯るのを感じた。
自分の制度はまだ未完成――それを突きつけられたのだ。