東郷とルーズベルト
冬のワシントンは、石畳の上で音を硬く返す街だった。ポトマックから吹き上がる冷気は、建物の角で渦を巻き、灯火を鈍く震わせる。ウィルソン政権の威信を映す大理石の柱の下、海軍軍縮会議のレセプション会場は、外気とは別の熱で満ちていた。弦楽四重奏の控えめな旋律、氷の触れ合う薄いグラスの音、そしてそれらを押し流すように重層する各国語のざわめき。第一次大戦の余韻はまだ廊下の隅々に煤のように残り、しかし帝都から遠く来た男たちは、敗北と勝利、正義と利害の語彙を新しく並び替えようとしていた。
喧騒の縁で、二人の男が立ち止まる。
一人はフランクリン・デラノ・ルーズベルト。三十九歳。頬の紅潮は酒精のためだけではない。海軍次官補としての経験は肩に目に見えぬ金線を縫い取り、弁護士の現在は彼の語彙に光沢を与えていた。笑みは人を選ばず、握手は温かい。だがその掌の奥では、頭脳が絶えず計算を続けている。
もう一人は東郷一成。海軍中佐。艦橋の風と士官学校の階段の臭いを、まだ体のどこかに宿している男。英雄の子という影は背後に長いが、その歩きぶりは軽く、視線はむしろ影を跨いで先を見ている。今回の役目は、壇上よりも床の敷物に近い。表の拍手ではなく、裏のうなずきを集める方である。
ルーズベルトがグラスを少し掲げる。
「東郷中佐、日本海軍軍人ながらアナポリスのご出身とか。セオドアも海軍を誇りにしておりました。あなた方のような士官こそ、太平洋の平和を支える礎でしょうな」
東郷は一礼した。礼の角度は深すぎず、しかし軽くもない。
「過分なお言葉、恐縮です。……ただ、私が学んだのは一つだけ。平和は“力の均衡”という不安定な構造物の上にしか成り立たない、ということです」
「構造物」
ルーズベルトは語の響きを面白がるように眉を上げた。
「では中佐、この会議で積み上げている主力艦の比率という“レンガ”は、安定を築けると思われますか?」
東郷は答えず、視線だけを会場に投げた。
真鍮の燭台の下、各国代表の声は時折、議場での調子を忘れられずに荒くなる。
戦艦の数、砲の口径、装甲の厚さ。数字は舞踏会のドレスのように着替えさせられ、誘惑の言葉と共に示される。だが東郷はその数列の背後に、別の数列が薄く浮かぶのを見ていた。鉄の供給曲線、石油の輸送路、港湾の荷役能力、徴発に耐えうる家計の弾力性――見えないところで数字は太りも痩せもする。
「アナポリスの経済史で、教授が言いました」
東郷はようやく口を開く。
「戦艦は鋼鉄で造るのではなく、国庫で造るのだ、と。資金が流れ、燃料が集まり、兵士が家族ごと暮らせる――その“水脈”が通っていなければ、どれほど立派な艦も砂上の楼閣です」
ルーズベルトは一度だけグラスを傾けた。
胸のどこかで、海軍次官補だった頃の議会予算委員会の光景が蘇る。造艦計画の数字は踊るのに、糧秣と兵舎と遺族年金の行はいつも紙端に追いやられていた。自分もまた、数字の衣装を着せ替える側にいたことがある。東郷の言葉は、そのときに喉奥で引っかかった違和感を、表に引きずり出す。
「国家を会社のように経営する――危ういが、現実的な見方だ」
彼は軽い調子を保ったまま、言葉の芯だけを固くする。
「ただ、人間は数字で動くわけではない。利権と感情は、帳簿の欄外で太る」
「承知しております」東郷は頷いた。
「ですから私は、数字の“裏打ち”として、日常に効く回路を見ていたい。例えば、地中海で駆逐艦長をしていた折、石炭の入港スケジュールが一度崩れると、士官の機嫌より先に下士官のコンディションが崩れました。統計の外に、艦の行き先を決めるものがある」
ルーズベルトは口元で笑いながら、視線だけを遠くに走らせる。会場の中央では、英米や日本の海軍士官が大砲の口径について笑い混じりにやり合っている。笑いは表向きだ。内側では、鉄鋼業界、造船所、港湾、貨物船主、労働組合――彼が知っている名簿が、ゆっくりと紙の上で整列する。
「中佐」彼は話題の角度を半歩だけ変えた。
「あなたは落ち着いている。比率の一割に熱を上げているのは、私を含めて、他の連中ばかりだ。……聞けば、“グレート・ホワイト・フリート”に同乗したとか? あれが、今の視点をつくったのですか」
「はい」即答の背後に、海風の温度が一瞬よぎった。
「白い艦列が世界を巡るのを、若き士官として同乗いたしました。あれは単に砲を誇示する行進ではなく、国家そのものを運ぶ祝祭でした。人々は旗を振り、安心を得た。……海軍の力は砲火だけでなく、“信用と親愛”を移植する力でもあると、ね」
ルーズベルトは思わず言葉を失い、視線がわずかに泳いだ。祝祭という語は、政治家にとって魅力的であり、また警戒すべき響きを持つ。祝祭は数字を越え、法を越え、投票所の外で支持をつくる。その力を利用する術を彼は知っているつもりだった。だが、軍艦がそれを運ぶという発想は、彼の枠組みをひとつ横へずらすものだった。
東郷は軽く一礼し、空いた隙間へするりと消えた。制服の群れ、燕尾服の群れ、香水と煙草とワックスの混じった匂いの層の向こうへ。残されたルーズベルトは、自身のグラスの中でわずかに揺れる泡を見た。それは天井の灯を小さく砕いて、すぐに消えた。
夜、ルーズベルトは机に向かう癖を持っていた。公邸に戻り、執務机の引き出しから革表紙の手帳を取り出す。万年筆のペン先を軽く紙に当てると、昼の会話は思ったよりも鮮明に戻ってきた。
――今日、日本代表団に東郷という士官がいた。英雄の子という触れ込みだが、語る内容は軍事よりも金融に近い。彼は歯車ではなく、国家の設計図を描き換えようとしているかのような目をしていた。
書いたあと、しばらく手帳を閉じずにいた。紙面のインクが乾くまでの短い時間、彼は自分の中のいくつかの図面を裏返しに置き直す。会議が積み上げる「比率」は、確かにレンガである。だが、レンガを積む職人がどこから来て、どんな賃金で、どんな糧で暮らしているのか――その勘定が外れていれば、壁はやがて雨で崩れる。あの男はそこまで言いたかったのだ、と。
外はまだ冷える。カーテンの隙間から覗く街路灯の輪郭が、わずかに震えていた。ルーズベルトはペン先を拭い、手帳を閉じる。音は小さく、しかし確かだった。
宴のざわめきは消え、夜は、思考のために皆に公平な沈黙を提供する。彼は椅子の背に体を預け、しばらく灯火のゆらぎを見ていた。
ゆらぎは灯の不完全さではなく、燃えつづけるための姿だ――
そんな比喩が、彼の口元に時ならぬ笑みを浮かべさせた。
翌日、会議はまた数字を唱えだす。だが彼の耳には、別の数の流れが、かすかに聞こえ始めている。