遠くへいってしまった理由
あの日、駅前で声をかけられたときのことを、私は今でも鮮明に覚えている。
あれは、運命みたいに突然だった。
雑踏の中、黒いスーツの男性が私を見つめ、「芸能に興味はありませんか?」と声をかけてきた。
普段なら警戒して無視していたと思う。
でも、その人は名刺を差し出し、私の目をまっすぐ見て言った。
「君は光る。絶対に」
心臓が跳ねた。
そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。
家に帰って、すぐに彼に相談した。
私はきっと笑っていたと思う。
だって、彼の驚く顔が見たかったし、心のどこかで「すごいね」って言ってほしかったから。
でも彼は眉をひそめ、「やめたほうがいい」と言った。
その瞬間、私の中に小さな反発心が芽生えた。
家族は大喜びで、母は「チャンスよ!」と背中を押した。
事務所との契約も、あっという間に進んだ。
最初の一年は、学校と仕事と家を往復する日々。
放課後には彼と駅前で待ち合わせ、くだらないことを話しながら帰った。
彼は「ずっと応援する」と言ってくれた。
その言葉を信じた。信じたかった。
高校1年の冬、私たちは初めてキスをした。
その温かさは、舞台のライトよりもまぶしかった。
この人となら、どんな未来も歩けると思った。
でも、高3になって寮に入ると、会える日が減った。
仕事は楽しかったけど、プレッシャーも大きかった。
「痩せなきゃ」「もっときれいにならなきゃ」
周りの大人は、私を「商品」として見ていた。
その中で、水着撮影の話がきたとき、私は迷った。
でも、撮影現場で褒められると、自分が必要とされている気がして、断れなかった。
彼はそのことに苛立っていた。
会うたびに少しよそよそしくなっていったけれど、私たちの夜はいつも熱かった。
会えない分、彼の腕の中にいる時間が愛おしくて、手放したくなかった。
やがてドラマの出演が決まり、台本にキスシーンがあった。
怖かった。
彼がどう思うかも分かっていた。
でも私は「女優」として求められる役を全うしたかった。
相談したら、「絶対に嫌だ」と言われた。
そのとき、彼は私の夢よりも自分の気持ちを守ったんだと思った。
だから、それ以上は相談しなくなった。
キスシーンを撮ったとき、私はもう割り切っていた。
「これは仕事。感情じゃない」
でも、ベッドシーンの撮影では心が少し揺れた。
あのとき送った「ごめん、断れなかった」というメッセージは、本当は「わかってほしい」という意味だった。
だけど、返事は来なかった。
ヌード写真集の話は、事務所から突然だった。
正直、怖かった。
でも「人気絶頂で出せば話題になる」と言われ、褒められ、期待されるうちに、自分もその気になってしまった。
それが、彼にとってどれほど受け入れがたいことなのか、そのときは想像できなかった。
「応援してくれるよね?」
と笑った私に、彼が困惑していたのは分かっていた。
距離を置きたいと言われたとき、心臓が潰れそうになった。
「応援してくれるって言ったじゃない!」
あれは悲鳴だった。
それからの私は、仕事に逃げた。
過激なシーンも、噂も、全部「女優としての役割」と自分に言い聞かせた。
だけど、世間は残酷で、「枕営業女優」なんて言葉が私の名前と一緒に囁かれた。
それでも、私は止まらなかった。
止まったら、自分の価値が消える気がしたから。
年上のプロデューサーと撮られたあの写真も、私にとっては「仕事の延長」だった。
背徳感なんて、とうの昔に置き去りにしていた。
今になって思う。
私が欲しかったのは、彼の「応援」じゃなくて、彼の「許し」だったのかもしれない。
でも、あの頃の私は、それに気づけなかった。