第一章 ~『宴への参加』~
宮女に案内された琳華は、宴の会場である大広間を訪れる。天井から吊り下げられた提灯が優美な光を放ち、木彫りで飾られた柱や並べられたテーブルを照らしている。
大窓から望む庭園では、夜風で樹木が揺れている。見る者を飽きさせない景色からは、後宮の細部まで拘った美意識が感じ取れた。
(完全に場違いですね……)
先客たちはテーブルを囲むように腰掛け、周囲の者たちと会話の華を咲かせている。琳華は目立たないように端に座り、眼前に広がるご馳走に固唾を呑んだ。
前菜としての蒸し鶏の冷菜に、彩り豊かなサラダが並び、メインディッシュとして清蒸魚や北京ダックが振る舞われている。デザートには杏仁豆腐や繊細な糖菓子まで提供され、豊かな香りが空間を満たしていた。
食堂で桃饅頭を食べたばかりの琳華は空腹とは言い難いが、それでも思わず手が伸びそうになるほど魅力的な料理の数々だった。
(私も正式に招待されたのですから、食べても良いのですよね?)
本来なら慶命から許可を取りたいところだが、彼の姿は見当たらない。ただ視線を巡らせると、箸を付ける者がちらほらと目に入る。
(駄目なら後で謝りましょう)
そう決めて料理に手を伸ばすと、一人の女官が近づいてきた。
「新人がどうしてこの場にいるのよ?」
「あなたは?」
「私は麗珠。上級女官よ」
麗珠は上官であることを誇示するように胸を張る。鋭い目と筋の通った鼻からは気の強そうな美人という印象を受ける。朱色の宝石が埋め込まれた飾りで髪をまとめており、優雅な雰囲気を演出していた。
「その髪飾りの宝石、とても綺麗な赤ですね……」
思わず感想を口にしてしまう。鑑定士として多くの宝石を見てきた琳華でさえも息を呑むほどの美しさだった。
「物の価値は分かるようね。これは、皇后様からいただいた特別な髪飾りなのよ」
毒気を抜かれたように麗珠は髪飾りを自慢する。上級女官には皇族付きの者も多い。皇后とは親密な関係なのだろうと推察できた。
「私は琳華です。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく……って、誤魔化されないわよ」
「駄目でしたか」
「残念ね。私にそんな子供騙しは通用しないんだから」
場の空気に流されてくれないらしく、麗珠はビシッと琳華を指差す。
「改めて伝えるわね。ここは新人が来ていい場所ではないの。即刻立ち去りなさい」
「それはできません。私は慶命様に誘われて参加していますから」
権力に対抗するには、それを上回る権力をぶつけるしかない。琳華は静かに反論を開始する。
「誘われた以上、断っては慶命様に対する不義理となります。麗珠様は私にそのような真似をしろと?」
「それは……でも……」
「聡明な麗珠様なら、私が宴に参加することの正当性を理解できるはずです。もしこの話を聞いた上で不満があるなら、直接、慶命様に仰ってください」
思わぬ返答に麗珠は困り顔を浮かべる。総監である慶命は彼女よりも立場が上だ。その上役に理由もなく琳華を出席させないで欲しいと伝えられるはずがなかった。
「……っ……あなたの好きにしなさい!」
負け惜しみの言葉を残して、麗珠は去っていく。向かった先は、取り巻きの女官たちが集まるテーブルだ。
(あの中の誰かが焚き付けたのでしょうね)
上級女官の立場にある麗珠からすれば、琳華は数いる中級女官の一人でしかない。
ただ麗珠の取り巻きの女官たちからすれば、琳華はいきなり中級女官に抜擢された嫉妬の対象である。だからこそ麗珠を唆して、けしかけたのだ。
(騙されやすそうな人でしたし、心配になりますね)
様子を窺っていると、琳華とのやり取りを忘れたかのように、取り巻きの女官たちや傍にいる宦官たちとの談笑を楽しみ始める。
琳華もせっかくなら料理を楽しもうと決めて、箸を伸ばす。蒸し鶏は口の中で蕩けるほどに柔らかく、杏仁豆腐の甘さは舌を優しく包みこんでくれる。
ご馳走は時計の針を進めてくれる。宴は急速な盛り上がりを見せ、酒で顔を赤くした宦官が騒ぎ、女官たちは舞や演奏を披露していた。
(私もお酒が飲めれば、盛り上がれたのでしょうね)
酒の味は嫌いではない。ただすぐに酔ってしまう体質のため自重していた。冷えた体を温めるために部屋の隅に設置された火鉢の傍に移動すると、先客の男がいた。
(綺麗な男の人ですね……)
黒髪は光に透けて艶やかにその肩を飾り、瞳は純度の高い黒曜石のように輝いている。
顔立ちは女性と見間違えるほどに繊細で、その完璧な容貌はこの世のものとは思えないほどに美しい。
彼は琳華の存在に気づき、静かに微笑む。その瞬間、時間が止まったと感じられるほどにドキリとさせられた。
「ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「構わない」
「では、失礼しますね」
隣に腰掛け、その横顔を一瞥する。炎の光を浴びて映し出された姿は、まるで御伽噺の登場人物のように幻想的だった。
「僕の顔に何かついているかな?」
「いえ、ただ綺麗な人だなと」
「良く言われる。女性に生まれていれば、国を傾けられたのに残念だよ」
軽口に笑みを零す。接しやすい性格に安心していると、彼もまた琳華に興味を示す。
「君の名前は?」
「私は宝石鑑定士の琳華。訳あって、本日から後宮でお世話になっています」
「見ない顔だと思ったけど納得したよ」
「あなたの名前を聞いても?」
「僕は天翔。どこにでもいる平凡な男さ。もっとも外見だけは誰にも負けない自信があるけどね」
その言葉は大袈裟ではない。彼と比較されれば、天界で暮らす仙郎でさえ裸足で逃げ出すだろう。
「冗談だからね?」
天翔は苦笑を浮かべながら補足する。
「分かってますよ。ただ女官や宮女から慕われることも多いのでは?」
「まぁね。ただ僕は生涯独身を貫く予定だからね。こんな僕が異性から好かれても、あまり意味はないさ」
その言葉で琳華はここが後宮であることを思いだす。皇族を除けば、後宮で暮らすのは去勢された宦官ばかりだ。世帯を持たないのもある意味で当然だ。
「そもそも僕には欲がなくてね。何かが欲しいと心が動いたことがないんだ」
「宝石はどうなのですか?」
「僕の顔より美しい宝石があれば興味を示すかもね」
「ふふ、愉快な人ですね……では食欲はどうですか?」
「味は分かるよ。ただ食事はいつも一人だからね。栄養摂取の作業と変わらない……まぁ、幼少の頃からそうだから慣れたものだけどね……」
「家族とは不仲なのですか?」
「残念ながらな。立場上、純粋な友人もできたことがない。残ったのは口うるさい爺さんたちだけ。そのせいか楽しい食事を体験したことがないんだ」
「なら私がお付き合いしますよ」
琳華の提案に天翔は驚いて目を見開く。
「まさか君から食事に誘われるとは思わなかったよ」
「控えめな性格ですから。普段なら誘ったりしません」
「ならどうして?」
「家族と不仲な状況に親近感が湧いたんです」
妹や母から裏切られ、婚約者からも捨てられた。だからこそ彼の寂しさは痛いほどに理解できた。
「君も苦労したようだね」
「苦労話なら誰にも負けない自信があります」
「その話、僕が聞いても?」
「楽しくはありませんよ」
「構わないさ。君のことをもっと知りたいんだ」
「では……」
琳華は後宮で働くようになった経緯を苦笑しながら語る。真剣な表情で耳を傾けていた天翔の表情は次第に曇っていった。
「最低の婚約者だね……」
「それは否定しません……ただ私に魅力があれば結果は変わっていたでしょうね……」
「僕はそうは思わないよ。今の君も十分に魅力的だからね」
「お世辞として受け取っておきます」
「本音さ。君は地味だけど美人だし、それに何より面白い人だ。後宮はつまらない人間ばかりだからね。君のような人は貴重だよ」
真面目や地味などの評価を受けたことはあっても、愉快な女性だと言われたのは初めての経験だった。
だが悪い気はしない。微笑んで、彼なりの賞賛を受け入れる。その反応が予想外だったのか、天翔は一瞬驚いた後、嬉しそうに口元を綻ばせる。
「君さえよければ、僕と友人にならないかい?」
「私とですか?」
「縁は大切にする主義でね。君との繋がりをなくしたくないんだ。駄目かな?」
探るような目を向ける天翔が愛らしくて、琳華は口元から笑みを零す。
「私で良ければ喜んで」
「本当かい!」
「嘘は吐きませんよ。なにせ初めての友達ですから」
「奇遇だね。僕にとっても君が初めての友人だ」
二人は互いを『友達』と認め合い、共に笑い合う。この縁を繋げただけでも宴に参加した甲斐があったと、誘ってくれた慶命に心のなかで感謝するのだった。