第八章 ~『宴席での晴れ舞台』~
ある日の早朝。琳華は冷たい朝の空気を感じながら静かに支度を整えていた。鏡に映る自分をジッと見つめてから、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
宿舎の外に出ると、廊下の前で天翔が待っていた。朝陽によって整った顔立ちが照らされ、優しげな微笑みが浮かんでいる。
「天翔様は早起きですね」
「宴席当日だからね。毒見役の琳華には大変な一日だろうけど、君なら無事にやり遂げられる。応援しているよ」
天翔が早朝に現れたのは、琳華を励ますためだった。それに気付いた彼女の口元には自然と笑みが広がっていく。
「天翔様は本当に優しいですね」
「どうしたんだい、急に」
「ふふ、感謝を伝えたかっただけです」
琳華は照れ笑いを浮かべる。気恥ずかしい雰囲気が流れ、天翔の頬もほんのりと赤くなっていた。
「琳華さえよければ、一緒に見物するのはどうかな?」
「宴席は正午からですし、時間がありますからね。折角なら私たちも楽しみましょう」
役目を果たすだけではつまらないと、天翔の提案に同意した琳華は宴席会場の方へと足を向ける。
賑わいを感じながらゆっくりと歩いていくと、会場に近づくほどに活気が溢れていく。いくつかの屋台が並んでいる一角に差し掛かり、その内の一つに目を向けると、炭火でじっくり焼かれた串焼きから香ばしい匂いが漂っていた。
琳華は思わず、その美味しそうな香りに引き寄せられてしまう。周囲を見渡すと、他の宮女たちも、焼きたての料理を楽しんでいた。
「お嬢ちゃん、折角なら食べていかないかい?」
男性の店主から声がかかる。琳華が「では二つください」と返すと、鳥の串焼きを手渡される。
「天翔様もご相伴ください」
「いいのかい?」
「どうぞ遠慮なさらずに」
天翔が受け取ると、二人の視線が串焼きに向けられる。炭火でカリッと焼かれた皮が美味しそうに輝き、そこから立ち上る匂いが食欲をそそる。
「毒見役の訓練のおかげで嗅覚が鋭敏なので、いつも以上に美味しそうです」
「厳しい訓練だったのかい?」
「さほど苦はありませんでしたよ。色んな刺激臭を嗅いだり、舌の上で渋味や苦味から毒の有無を判別したりと、地味なものばかりでしたから」
琳華は串焼きを口に運ぶと、舌の上で味を確かめてから笑みを零す。
「ちなみにこの串焼きには毒が盛られていませんから。ご安心ください」
琳華が冗談を口にすると、天翔はそれに応じるように優しい笑みを返す。二人は串焼きを手にして、その香ばしい風味を楽しみながら、軽やかな会話を交わしていく。
串焼きの香りと炭火で焼かれた肉の旨味が口いっぱいに広がり、朝の活気ある屋台の風景とともに、平和な時間が流れていった。
串焼きを食べ終えた後、二人は屋台の賑わいの中を進んでいく。すると、前方によく知る人物の影があった。
(あれは玉蓮様でしょうか……)
春燕と瓜二つだが、胸元のダイヤモンドの双晶は見間違えるはずもない。朝日が反射し、眩しい光を放っていた。
(さすがの玉蓮様も緊張しているようですね)
どこか険しい表情が浮かんおり、人を遠ざけるような冷ややかなオーラを漂わせている。琳華もそれを察し、あえて声をかけることを避けた。
そんなとき、突然、静寂を破るように鐘の音が鳴り響いた。深く響くその音は、後宮全体に広がり、正午の十分前を告げる。その音に反応したように、玉蓮は静かにその場から姿を消していた。
(宴席会場へ向かったのでしょうね)
琳華はそう納得すると、天翔にもその旨を伝える。宴席会場までの距離は、三分ほどで遅刻の心配はない。
「琳華の勇姿を陰ながら応援しているよ」
エールを受け取った琳華は、天翔と別れ、気持ちを整えながら宴席会場へと足を運ぶ。
広々とした庭園に設けられた会場は、自然の中に溶け込んでおり、天蓋の下には美しく装飾された座席が整然と並んでいる。まるで絵巻物の中に迷い込んだかのような美しさが演出されていた。
中央座席には、既に侍宴役の玉蓮が座っている。背筋を伸ばし、堂々とした姿勢で腰掛ける彼女の胸元には、双晶のダイヤモンドが輝いていた。
琳華は深呼吸してから、ゆっくりと座席に向かう。緊張感が少しずつ体に広がっていくのを感じながら歩みを進めていると、客席の方から温かい声がかかる。
「琳華さん、頑張ってください!」
反応して振り返ると、春燕が声を張り上げていた。彼女の隣には、翠玲の姿もあり、その優しい瞳は琳華に対する信頼と応援が示されていた。
声援を受け取った琳華の胸の中に温かさが広がり、背中を押されるような感覚が沸き起こっていく。
(頑張らないとですね)
中央座席に辿り着いた琳華は、控えるように目立たない位置に腰掛ける。あくまで主役は貴妃であり、その存在感の妨げにならないための配慮だった。
(もうそろそろのはずですね)
琳華の考えを読み取ったかのように、正午を知らせる鐘が鳴る。重低音が響き渡り、宴席会場が期待感に溢れていく。
次第に静けさを破るように盛大な拍手が鳴り響くと、朱色の帳の奥から貴妃が優雅に姿を現す。
絹の衣が光を受けて輝き、金糸の刺繍が美しく映えている。堂々とした足取りでゆっくりと歩みを進め、中央に設けられた座席の前まで移動する。拍手の音がますます大きくなり、席に腰を下ろすと、その場の空気が一層緊張感を増した。
観客の視線が貴妃に集まる中、給仕係の宮女が琳華の前に二人分の食事を運んでくる。最初の料理は、鮑の煮込みだった。美しく盛り付けられた鮑は、特製の出汁でじっくりと煮込まれ、湯気が立ち昇っている。
どちらが貴妃のものかは知らされていないが、毒見役としての責務を果たすため、慎重に確認を進めていく。
料理に顔を近づけ、香りを確かめてみる。鮑から漂う香ばしい出汁と、ほのかな海の香りが鼻腔をくすぐる。
次に琳華は、一口サイズに切り分けた鮑を口に運ぶ。心地よい弾力と、特製の濃厚なソースが絶妙に絡み合い、舌の上でじんわりと旨味が広がっていった。
味と匂いをじっくりと確かめた上で、琳華は結論を下す。
「この鮑に毒は含まれていません」
ほっと胸をなで下ろしながら、落ち着いた声で安全であると伝える。それを聞いた玉蓮が琳華の元から二人分の食事を持ち上げると、一つを貴妃の席へ、もう一つを自席へと運んでいく。
その光景をぼんやりと眺めながら、毒の症状がないことに緊張を解す。
だが次の瞬間、宴席会場に鋭い悲鳴が響いた。琳華の心臓が跳ね上がり、貴妃たちに視線を向けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
玉蓮が崩れるように倒れ、地面に体を投げ出していたのだ。口からは泡を吹き出し、体が痙攣している。表情は苦痛で歪み、目は半ば閉じたままだ。
「毒だ……毒が盛られたぞ!」
観客の叫ぶ声が響き渡り、瞬く間に宴席会場は騒然となった。誰もが事態を把握できないまま、混乱の渦に飲み込まれていくのだった。




