第八章 ~『与えられた役目』~
琳華は普段の穏やかな空気とは一変した後宮の廊下を歩いていた。朝の空気はまだ澄んでいるが、どこか張り詰めたような緊張感が漂っている。
壁際を急ぎ足で歩く宮女たちの足音はいつもより大きく感じられる。彼女たちは一様に忙しそうな表情を浮かべ、口々に何かをささやき合っている。
(どうかしたのでしょうか?)
疑問に感じた琳華は足を止めて、宮女たちの様子を伺う。何やら準備に追われているようで、額に汗を浮かべながら華やかな布地や飾り物を運んでいた。
(お祭りでもあるのでしょうか?)
頭の片隅に疑問を追いやってから職場へ向かう。扉を開くと、翠玲が慌ただしく歩き回っていた。
「翠玲様、おはようございます」
琳華が声をかけると、翠玲が挨拶を返す。その顔には疲れが見えるが、どこか浮き立つような様子もあった。
「本日は皆さん、お忙しそうですね」
「貴妃様を歓迎する宴席があるの。宮廷楽団の演奏が披露されたり、豪華な食事が振る舞われたりと盛大にやるそうよ。だからそのための準備に追われているの」
翠玲はそう言いながらも、口元に僅かな笑みを浮かべている。苦労を感じながらも、心の奥底では楽しみにしているのだと伝わってくる。
「宴席では側近候補に役目が与えられるそうよ。きっと琳華も大役を任されるはずね」
「実は心当たりがあります……」
「役目を既にお願いされているの?」
「まだなにも……ただ桂華様から本日の正午に来るようにと呼び出しを受けているのです」
その理由は特に説明されなかったが、桂華が世間話のために琳華との時間を作るとは思えなかった。
「宴席での役目は基本的に未公表だけど、一人だけは決定しているの。そして、その一人が――」
「桂華様ですね」
「宴席を取り仕切る立場を与えられているから、側近候補に役目を割り振るのも仕事の一環なのでしょうね」
桂華の呼び出しの意図が判明したことで、琳華はある人物のことを思い出す。
(きっと玉蓮様も招待されているでしょうね)
薬師として猫を救い、冤罪を晴らす手助けをした。その功績のおかげで玉蓮の評判は大いに高まっている。候補者の一人でもあるため、彼女には大役が与えられるだろう。
「琳華は希望する役目があるの?」
「宝石に関わる仕事であれば、望むところなのですが……」
「ふふ、そうなるといいわね」
正午まではまだまだ時間がある。琳華は椅子に腰掛けると、仕事に取り組み始める。
だが業務を処理しながらも、頭の片隅では、桂華との会合が気になっていた。やがて、正午が近づき、片付けを終えると、心を静めて立ち上がる。
「では桂華様のところに行ってきますね」
「頑張ってきてね」
翠玲のエールを受けながら、桂華の元へと向かう。その足取りは軽やかでありながら、どこか緊張感を含んでいた。
壮麗な宿舎の前まで辿り着くと、重厚な扉を見上げる。施された細かな彫刻に目を引かれながら、扉を軽く叩くと、以前、案内してくれた宮女が姿を現す。
「琳華様、お久しぶりです。どうぞこちらへ」
宮女は丁寧に頭を下げると、琳華を室内に案内する。玄関を超えた先の廊下は柔らかな灯りで照らされ、香炉から漂う匂いに包まれていく。
「琳華様をお連れしました」
扉を開けると、精緻な家具が並び、部屋全体が贅に満ちている空間が待っていた。中央にある立派な座椅子には桂華が腰掛けており、蛇のように鋭い視線を琳華に向けている。
「久しぶりね。友好を深めるのも良いけれど、お互いに忙しい身。世間話はいらないわね」
「さっそく本題をお願いします」
「話が早くて助かるわ。私は貴妃様の側近候補たちに宴席での役目を与えているの。琳華にも相応しい仕事を用意したわ」
桂華は反応を探るように間を取る。どのような役目なのかと息を呑みながら待つと、次に出た言葉は琳華の予想を超えるものだった。
「あなたには、毒見役を任せたいの」
桂華は淡々と役目を伝える。
琳華は動揺しないように努めながら、静かだが決して退くことのない強い意思を宿した瞳でジッと見据える。
「なぜ私が毒見役なのかを伺っても?」
「適任だからよ。あなたの観察力は群を抜いているわ。きっと琳華なら小さな異変にも敏感に気づけるはずよ」
詭弁だと、一蹴することはできない。正式な依頼であり、後宮という厳格な秩序の中では一介の女官に拒否権などないからだ。
だがそれでもやられっぱなしではいられない。琳華は冷静さを保ちながらも、怒りを滲ませた瞳でジッと見据える。
「桂華様、あなたは嘘を吐かれていますよね?」
「適任だと思ったのは本当よ……」
「ですが、毒見役ならもっと相応しい人がいます。例えば玉蓮様なら薬にも詳しいですし、毒を見抜く可能性も高いはずですよ」
宝石鑑定を得意とする琳華をわざわざ毒見役に据えなくとも、他に適任はいくらでもいる。仮に玉蓮でなくとも、舌が鋭敏な者、過去に毒見役を経験してきた者を選出することもできたはずだ。
琳華の言葉に、桂華は一瞬考え込むように目を細めると、喉を鳴らして笑う。冷ややかで、何かを見透かしたような響きの笑い声が反響していく。
「さすがね、琳華。少しでも隙を見せると、すぐに真実へと辿り着く。恐ろしいほどの才覚だわ……でもね、私の目的までは分からないでしょう?」
桂華は椅子に優雅に腰掛けたまま、指先を交差させる。その仕草には、琳華を試すような冷徹な自信が感じられた。
「情報が足りませんから」
「ふふ、でしょうね。どれほどの名探偵でも手掛かりなしに真相には辿り着けない。だから、あなたが私の狙いを看破することもできないわ。それにね、納得できない怪しい話だとしても、琳華に拒否権はないわ。受け入れるしかないの」
桂華が策謀を秘めていることは間違いない。その狙いを頭の中で読み解こうとして、ある一つの疑念が脳裏をかすめる。
(私の食事に毒を混ぜるつもりでしょうか……いえ、ありえませんね。私を始末するだけなら、そのような回りくどい手は必要ありませんから……)
桂華の下には、手足のように動かせる部下が何人もいる。わざわざ琳華に毒見を任せなくとも、寝込みを襲わせる方が話は早いからだ。
「改めて聞くわ。琳華、私の配下にならない?」
その声には、ほんのわずかな期待が込められていた。だが琳華は迷うことなく、首を横に振る。
「お断りします」
「そう、優秀なのにその才能が潰れてしまうなんて、実に惜しいわね」
桂華は溜息を零し、静かに呟く。その言葉は一見穏やかだが、裏には冷たく鋭い感情が潜んでいた。
「これで用件は終わりよ。あなたが私の掌の上で踊るのを楽しみにしているわね」
「私はあなたの思うようには動きませんから」
踵を返し、琳華はその場を後にする。彼女の瞳には、信念を守り抜く覚悟の炎が浮かんでいるのだった。




