第七章 ~『鶏冠石と謎解き』~
薬房から託児館へ帰ってきた琳華たちは玄関をくぐる。事件の緊張が残っているのか、子供たちの笑い声は届かない。
廊下を進み、広間に顔を出すと、急ぎ足で駆け寄ってくる春燕の姿が目に入る。彼女はやや乱れた息を整えながら、翠玲の胸元に視線を向ける。
「子猫は大丈夫でしたか?」
春燕の切実な声には不安が滲んでいた。そんな彼女の心配を解消するために、琳華は優しげに答える。
「医官は職務外だからと、診てくれませんでした。ただ玉蓮様が治療を引き受けてくれましたから。きっと今頃は治療が終わっているはずです」
「姉さんが……」
春燕の顔には驚愕と安堵が入り混じっていた。玉蓮が治療してくれたことが、彼女にとっては意外だったのだろう。しかし、安心の方が気持ちとして強かったのか、すぐに深く息を吐き出した。
「子猫が助かってよかったです……これも琳華さんと翠玲さんのおかげですね」
「私は交渉しただけですから。本当の功労者は翠玲様です。断られながらも診療してもらうためにあちこちの医官を駆け回ってくれたのですよ」
翠玲の努力は結果に繋がらなかった。だが琳華に頑張りを認められたことが嬉しくて、目尻を熱くする。
「謙遜しているけれど、私だけでは玉蓮とどう交渉すればいいかも分からなかったわ。琳華がいてくれたからこそ、子猫は救われたのよ」
翠玲はありのままの感謝を返す。春燕はやりとりをじっと見つめながら、二人の深い絆を感じ取る。
「お二人とも、本当にありがとうございました。これからも頼りにさせていただきますね」
春燕の声は心からの謝意が込められていた。部屋に感謝の余韻が広がっていく。
だが、その穏やかな空気は近づいてくる足音により一変する。音のする方に顔を向けると、そこには蘭芳の姿があった。
「子猫が助かったのね……」
蘭芳は安堵の息を零すが、すぐに冷徹さを帯びた表情へと変わる。その細かい変化を琳華は見逃さなかった。
「蘭芳様も子猫が無事で安心しましたか?」
「もちろんよ、私も可愛がっていたもの」
心からの本音のように感じられる声音だった。ただ蘭芳の表情からは温かさを感じなかった。
「子猫を大切にしていたからこそ、春燕に言っておきたいことがあるの。もし猫が命を取り留めたとしても、春燕が毒を飲ませた事実は変わらない。この事件の罪はきっちり償ってもらうから」
鋭い刃を差し込むかのような脅しに春燕の表情が曇る。猫を救えた安堵を吹き飛ばすほどの不安が浮かび上がっていた。
そんな彼女の姿を前にして、琳華は胸の奥から闘志を沸き立たせる。ここで沈黙を貫くわけにはいかないと、春燕を救うために一歩前に出た。
「蘭芳様、あなたは間違っています」
凛とした声が広間に響く。緊張に包まれていく中、蘭芳は動じていなかった。
「私は正論を述べただけよ。それとも、犯した罪を償わなくても良いと?」
「いえ、償うべきです」
「なら――」
「ただし、春燕様ではなく、真犯人こそが償うべきです」
その瞬間、全員の視線が琳華に注がれる。春燕は息を呑み、翠玲は期待と信頼を瞳に浮かべていた。
「この事件の謎は解けました。真犯人が誰かも分かっています」
「だ、誰なのよ!」
「あなたですよ。蘭芳様」
琳華がビシッと指差すと、蘭芳の表情が硬直する。
「わ、私が犯人?」
「ええ、そうです。蘭芳様が犯人で間違いありません」
「馬鹿を言わないで。忘れたの? 私の無実は手荷物検査で証明されているのよ!」
必死に自らの潔白を主張しながら、矛先を変えるために春燕に非難の目を向ける。
「それに春燕は巾着の中に毒を隠し持っていたわ。ここまでの証拠が揃っていながら、春燕が無実だとでもいうの!」
蘭芳の言葉には自信が込められていた。春燕が毒を持っていた事実が、彼女にとって最大の切り札だったからだ。
「春燕様は無実です。巾着に隠れていた薬も毒ではないと確認済みです」
「その確認が間違っていた可能性はないの?」
「はい。なにせ薬師である玉蓮様のお墨付きですから」
「――――ッ」
その一言に蘭芳の顔が強張る。蘭芳は玉蓮の部下であるため、上司の診断を疑うことは立場を危うくすることに繋がる。苦しげに唇を噛みしめた後、ようやく言葉を発する。
「玉蓮さんが毒でないというなら、そうなのでしょうね……」
蘭芳の声は一見冷静さを保っていたが、その奥には抑えきれない動揺が垣間見えた。ただ心は折れていないのか、不敵な表情のまま琳華を見据える。
「でも春燕の疑いが晴れただけ。私が犯人であるという証拠はどこにもないわ」
蘭芳は琳華の目を真っ直ぐに見据え、揺るぎない自信を装う。だが瞳の奥には緊張が見え隠れしており、額には僅かな汗が浮かんでいた。
「私が犯人だというなら、凶器の毒がどこにあるのか説明してみなさいな。毒を隠したりしていないと、神にだって誓えるから」
「蘭芳様が毒を隠してないことは知っています。なにせ、あなたは堂々と持ち歩いているのですから」
「――――ッ」
核心を突かれた蘭芳は、動揺をとうとう隠せなくなる。そんな彼女を追い込むように、琳華は解き明かした謎を披露していく。
「毒の正体は指輪に嵌められた赤橙色の宝石です。それは鶏冠石と呼ばれ、装飾品としての人気も高いですが、粉末にすると毒になる特性を持っています。厨房には包丁を研ぐための研磨石もありますから。粉末を少し作って、子猫の食事に混ぜたのでしょうね」
子猫の前――女官や子供たちに振る舞われた家庭料理の数々は、蘭芳が一人で作ったものであり、厨房で毒を用意する時間は十分にあった。
犯行の実現性があることは誰の目からも明らかだったが、蘭芳は諦めない。拳を握りしめながら反論する。
「た、ただの妄想だわ……物的証拠がないじゃない!」
「ありますよ」
「え!」
「微かな粉末をすべて取り去ることは困難でしょうから。研磨石の周辺を調べれば、きっと見つかるでしょうね」
「うぐっ……」
「それに指輪を調べれば、削れた跡も残っているはずです。どちらにしても言い逃れはできません」
事実を淡々と積み重ねていくと、蘭芳は無言で立ち尽くす。だが琳華の推理は止まらなかった。
「最初からすべてを説明しましょう。蘭芳様は厨房での調理を任されていましたから。研磨石から毒を生成するのも、春燕様の巾着に怪しげな薬を仕込むのも簡単にできます。その後、春燕様と一緒に猫用の魚団子を作りながら、密かに毒を混入させました。そして事件は起き、春燕様に疑いが向くように仕向けたのです」
すべての真実を解き明かした琳華の言葉は蘭芳に衝撃を与える。目の奥に焦りと怒りが垣間見える中、琳華は罪を認めさせるために再び宣言する。
「もう一度言います。今回の事件の真犯人は、蘭芳様、あなたです」
重々しい空気の中、沈黙が広がっていく。やがて蘭芳は諦めたかのように小さく息を吐いた。
「……認めるしかないようね」
「動機を教えてもらえますか?」
その声は穏やかでありながらも、真実を求める強い意志が込められていた。蘭芳は一瞬目をそらし、唇を噛みしめた後に、ゆっくりと口を開く。
「春燕が邪魔だったのよ……後輩のくせに周囲に溶け込んでいて出世も早い……それが我慢ならなかったから、嫌がらせしてやろうと思ったのよ」
「そのために可愛がっていた子猫を巻き込んだのですか?」
「春燕への嫌悪の方が大きかった……ただ、それだけよ……」
蘭芳の声は次第にかすれ、最後の言葉はほとんど囁くような音量にまで落ちる。虚空をジッと捉える彼女の瞳には、深い悲しみが浮かんでいたのだった。




