第七章 ~『仲良くする努力と毒』~
夕陽の柔らかな光が託児館の広間に差し込み、部屋全体を朱色に染めている。子供たちの笑い声が心地よく響く室内では、蘭芳を疑ったことを詫びるために、仲直りの交流会が開催されようとしていた。
広間の中央に置かれた大きなテーブルは、庶民的ながらも美味しそうな料理で埋め尽くされている。
ジューシーな豚の角煮、色鮮やかな青菜炒め、ふっくらとした春巻き、そして香り高い卵とトマトの炒め物。どの料理も美しく盛り付けられており、一つ一つが温かみのある家庭の味を思わせた。
「わぁー、とても美味しそうですね」
「どの料理も素敵なご馳走ばかりね」
琳華と翠玲も奉仕者の一員として、交流会に招待されていた。料理に瞳を輝かしていると、蘭芳は少し緊張した様子で厨房から現れる。準備で忙しかったにもかかわらず、彼女の顔にはほのかな笑顔が浮かんでいた。
「待たせたわね。腕によりをかけて作った料理をどうか楽しんで」
蘭芳は柔らかな声で伝えると、真っ先に反応したのは春燕だった。
「蘭芳さんは料理が得意だったんですね」
「宮女の給料だと自炊しないと暮らしていけないもの。自然と料理も上手くなるわ」
もっとも人に振る舞ったのは初めてだと苦笑を浮かべる。彼女なりに仲間に溶け込もうと努力している姿は微笑ましかった。
(人は変われるものですね)
春燕との仲も良好だ。いずれは過去の確執も忘れ、親友のような関係性になれる日が来るかもしれない。
そのようなことを考えていると、以前、蘭芳を疑った女官が広間に現れる。彼女の手には、美しく装飾された箱が握られていた。
「蘭芳には本当に申し訳ないことをしたわ。どうか、この贈り物を受け取って頂戴」
「そんなに気を使わなくても……」
「あなたが手料理を振る舞って、仲良くしようと努力しているのよ。先輩の私が歩み寄らないわけにはいかないもの」
差し出された贈り物を蘭芳は素直に受け取る。開封すると、中には青の宝石の指輪が収められていた。上品な輝きを放ち、光を受けてキラキラと輝いている。蘭芳はその指輪を手に取り、しばらく見つめていた。
「本当に貰っていいの?」
「もちろん」
「なら、遠慮なく頂くわね」
蘭芳は右手の中指に嵌める。青の宝石が輝く中、琳華がふと左手の薬指に目を向けると、別の指輪の存在に気づく。
夕陽の光に照らされて、まるで炎のように輝く赤橙色の宝石の指輪に、視線を奪われてしまう。美しさに魅了されていると、蘭芳は隠すように手を引っ込めた。
(ふふ、恋人でもできたのでしょうね)
以前の蘭芳の手には赤橙色の宝石の指輪はなかった。後宮には宦官しかいないが、それでも恋仲になる者はいる。雰囲気が以前よりも柔らかくなったのも、大切な人ができたからだとしたら納得できた。
「私の料理が冷めると勿体ないわ。食事にしましょう」
蘭芳の合図を受け、皆は自発的に料理を取り分けていく。
「どうぞ、お二人も食べてくださいね」
春燕が取り分けた皿を琳華と翠玲に手渡してくれる。彼女の笑顔が広間に一層の明るさを与え、周囲の心を和ませていく。
(この味ならきっと子供たちも喜びますね)
料理に手を付けると、そのどれもが絶品だった。一口一口味わうたびに、幸福な表情が浮かぶ。それは子供たちとて例外ではない。満足そうに頰を崩しながら、料理を堪能し、蘭芳に尊敬の眼差しを向けていた。
交流会での食事は進み、外が薄暗くなっていく。一段落したことを確認した蘭芳はふと思いついたように口を開く。
「人間が満足したなら、次は猫の番ね」
子供と遊んでいた子猫が「にゃー」と鳴く。お腹が空いている証拠だった。
「春燕、一緒に猫用のご飯を作るのを手伝ってくれる?」
「――ッ……もちろん、喜んで!」
春燕は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうに頷く。二人が厨房に向かう背中を微笑ましげに見つめていると、翠玲が反応する。
「あの二人、良い友人になるかもね」
「お互いに猫が好きですしね。それに社交的な春燕様と冷静な蘭芳様は、それぞれが自分にないものを持ち合わせていますから。惹かれ合うのでしょうね」
「交流会は大成功に終わりそうね」
琳華もその意見に同意して頷く。周囲から浮いていた蘭芳はもういない。成長した彼女は、春燕のように周囲からの人望を集める存在になるだろう。
それから翠玲と雑談を重ねていると、蘭芳を連れ添って、春燕が厨房から猫用の魚団子を運んでくる。
魚の切り身をすりつぶし、野菜を混ぜ込んで丸めた団子は、蒸し上がりの芳醇な香りを漂わせていた。
「お待たせしました。どうぞ。美味しいご飯ですよ~」
春燕は穏やかな声で団子を差し出すと、子猫は匂いを嗅いで、興味を示す。その後、嬉しそうに魚団子を食べ始めた。猫の顔には満足そうな表情が浮かび、皆の心も温かくなっていく。
「春燕様と蘭芳様の料理の腕が良いからか、嬉しそうに食べていますね」
「喜んでもらえたなら、作った甲斐がありました」
春燕が微笑む。だが次の瞬間、子猫の様子が急変した。突然口から泡を吹き出し、その場に倒れ込んだのだ。
「何が起きたの!」
翠玲が驚きの声をあげる。蘭芳と春燕も驚いて黒猫の元に駆け寄った。苦しそうに体を震わせ、泡を吹き続けている。
「どうしよう、黒猫が……」
女官と子供たちも動揺を隠せずにいた。だが琳華だけは冷静さを保ち、的確な指示を出す。
「まずは応急処置をしましょう。水を飲ませて団子を吐き出させる必要があります」
その言葉に真っ先に反応したのは春燕だ。急いで水を持ってくると、子猫の口元に水を持っていく。
「大丈夫、少しだけ飲んで」
優しく声をかけながら、水を子猫に飲ませる。子猫は少しだけ口に含むと、苦しそうにしながらも喉を鳴らす。そして、数秒後に嘔吐を始めた。
「ひとまず応急的な処置は済みましたね」
安堵の息を零すと、翠玲が子猫を優しく抱きかかえる。
「私が医官の元に連れて行くわ。琳華はなぜこんなことが起きたのか、原因を調べて頂戴」
「任せてください」
「頼りにしているわね」
翠玲は子猫を連れて、広間を後にする。残された者たちは緊張感に包まれながら、琳華に注目を集めた。
「まずは状況を整理しましょう。魚団子にネギのような猫が食べてはいけない食材が含まれていませんか?」
琳華の問いかけに、蘭芳と春燕は首を横に振る。
「猫について詳しいから断言できる。安全な食材しか使ってないわ」
「蘭芳さんと同意見です」
「誤って混入したわけではないということですね……」
それが何を意味するのかは、言葉にしなくても分かる。事故でないなら意図して毒が盛られたということだ。
その犯人として真っ先に疑われる容疑者は二人。蘭芳と春燕である。だが琳華は事件の可能性を何とか否定しようと、思いついた考えを挙げていく。
「厨房に置かれていた食材に毒が仕込まれていた可能性はありませんか?」
「人間用の料理と同じ食材を使ったもの。もし毒が仕込まれていたなら、倒れる人がいるはずだわ。それにどの食材を使うかは、その場で私と春燕が決めたから、事前に毒を盛っておくこともできないわ」
つまり毒は調理中に盛られたのだ。そうなると、犯行が可能な人物も限られる。その疑わしき人物をはっきりと口にしたのは、あろうことか蘭芳だった。
「犯人は私か春燕のどちらかよ」
その一言で広間に緊張感が漂う。堂々とそう宣言する彼女を疑う者はいない。以前、冤罪を着せてしまったことも大きく作用していた。
「そこで私から提案があるの。調理中に毒を盛ったとして、捨てるチャンスはなかったはずよ。きっと凶器となる毒をまだ所持しているに違いないわ。だから私と春燕に対して、持ち物検査をするのはどうかしら」
春燕は少し驚いた表情を見せたが、すぐに頷く。
「構いません。調べてください」
「本当に良いのですね?」
「私に後ろめたいことはありませんから」
悪い予感を覚えながらも持ち物を検査していく。まず琳華が蘭芳のボディチェックを行い、怪しいものがないかを確認する。見落としのないように慎重に調べたが、特に怪しいものは見つからなかった。
次に春燕も調べるが結果は変わらない。お互いに毒を持っていないと判明するが、隠す場所はまだある。
「誰か厨房を探してきてくれませんか?」
琳華の頼みに、奉仕者の宮女として参加していた梅香が頷く。子猫を溺愛していた彼女は犯人を追求するため、瞳に闘志を燃やしながら、廊下に向かう。
だがその背中を蘭芳が呼び止める。
「待って。調べるのは厨房だけでは足りないわ。広間から厨房までの間に物置や寝室があるでしょ。それらの部屋もくまなく調べて頂戴」
梅香は大きく頷くと、広間を後にする。手伝いのために数人の女官も彼女の背中を追いかけていった。
(これは厄介な状況ですね)
主導権を容疑者の一人である蘭芳が握っており、彼女の求めるように事態が進んでいる。もし蘭芳が犯人の場合、行き着く先は春燕の有罪だ。
琳華は最悪の想定が外れることを願うが、梅香が運んできた巾着が、的中してしまったと知らせていた。
「物置でこれが……」
巾着を開けると、中から小さな薬包が出てきた。薬包の中には紫の細かい粉末が入っており、その色は明らかに普通の薬とは異なっていた。
「この薬、心臓病の薬ではないですよね?」
「はい、で、でも、私、こんな薬に見覚えが!」
春燕は否定するものの、蘭芳は喉を鳴らして笑う。
「やっぱり、あなたが犯人だったのね」
「待ってください。私は無実です」
春燕は必死に否定する中、蘭芳は梅香に問うような視線を向ける。
「この薬以外に怪しいものはあった?」
「いえ、なにも……空になった薬包や薬瓶もありませんでした」
「なら凶器はこの薬で決まりね。だとすると、犯人はあなた以外に考えられないわ」
蘭芳は周囲からの注目を集めるために声を張り上げると、その推理に皆が耳を傾けていく。
「厨房では二人で料理をしていたわ。その隙に物置に薬を取り行く暇はない。そうよね?」
「それはそうですね……」
「そして料理が出来た後、あなたは料理を運ぶために先に厨房を出たわ。そして、私は簡単な片付けをしてから、春燕を追いかけて合流した。つまり私に犯行は不可能なの」
「それなら私も……」
「いいえ、あなたには可能よ。先に廊下に出たのだから、寄り道をして、物置で毒を盛れば良い。その後、私と合流すれば、子猫の餌に毒を盛ることは可能なのよ」
鋭い指摘に春燕は顔をこわばらせる。だが彼女には容疑を否認するための武器があった。
「私はやっていません。動機がありませんから!」
春燕が子猫を可愛がっていたのは周知の事実だ。毒を飲ませる理由がない。その問いに蘭芳は口元を歪ませる。
「他の女官たちも世話するようになったから嫉妬したんじゃないの? ほら、演劇でもよくあるでしょ。自分の独占物でなくなるのなら、命を奪おうとする人が。あなたもそうじゃないの?」
「ち、違います! 私はそんなことしません!」
「言い逃れしても無駄よ。巾着に入っていた薬物、犯行の実現性、これだけの証拠が残っているのだから、犯人はあなたで決まりよ」
無実だと、春燕は涙を浮かべながら首を振る。場の空気が彼女を悪だと見做し、視線に怒りが滲み始める。
そんな中、琳華だけは春燕の無実を信じていた。肩に手を置くと、強い決意を込めて宣言する。
「この事件、私に任せてください。春燕様の無実は私が証明してみせますから」
「琳華さん……」
春燕は震える声で応えると、溢れた涙を拭う。深い希望を宿した瞳で見つめる彼女の信頼に応えたいと、琳華は力強く頷くのだった。




