第七章 ~『子猫と蘭芳』~
謎解きを終えてから数分後、広間の扉が静かに開かれ、翠玲に連れられた春燕が姿を現す。
「やっぱり琳華の推理は正しかったわ」
「では春燕様が子猫のお世話を?」
「していたそうよ」
名前が挙がったことで、春燕はビクッと肩を震わせる。目が大きく見開かれ、驚きと緊張に包まれていくが、琳華の安心させるような微笑みのおかげで、すぐに平静を取り戻した。
「春燕様を責めるつもりはありませんよ。ただ事実を知りたかっただけですから」
「てっきり叱られるのかと思っちゃいました」
「子猫のお世話をしただけで怒ったりしませんよ」
安心したのか春燕の口元に笑みが宿る。そして何かを思い出したように懐から巾着を取り出す。
「あの子は私に凄く懐いてくれて……この玩具で遊んであげると、愛らしく鳴いてくれるんです」
巾着の中に入っていたのは、鳥の羽を束ねた猫用の玩具だった。白い羽がヒラヒラと揺れる姿が猫の狩猟本能を刺激するのだろう。子猫が戯れる様子が絵に浮かぶようだった。
「毛並みが良かったので世話をされているとは思っていましたが、託児館で飼っていたんですね」
「奉仕者の人たちで、持ち回りで世話をしているんです」
「あの、それなら私にも手伝わせてくれませんか?」
春燕は少し緊張した様子で訊ねる。琳華は一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐに温かい笑みを返す。
「奉仕者はいつでも誰でも募集中ですから。春燕様さえよければ喜んで」
琳華の答えに春燕の口元に満面の笑みが浮かぶ。
「私、猫も子供も好きですし、それに何より、業務外でも琳華さんや翠玲さんと一緒に過ごせるなんて夢のようです」
春燕は喜びで瞳を輝かせる。慕ってくれる後輩に感謝していると、子供たちが縋るような目を向けていることに気づく。
「お姉ちゃん、夕飯ってまだなの?」
「そういえば、まだでしたね」
問われたことで琳華も自分の空腹に気づく。翠玲や春燕と目を見合わせると、夕飯作りのために厨房へと移動する。
広々とした厨房には、大きな鍋が整然と並んでいる。調理台には新鮮な野菜や豆類が用意されており、それを見渡した琳華が唸り声をあげる。
「何を作るのか悩ましいですね……」
「琳華さんと翠玲さんさえ良ければ、薬膳料理の八宝粥なんかはどうでしょう。きっと子供も気に入る味だと思いますよ」
「食べたことのない料理ですね。春燕様の得意料理なのですか?」
「はい。といっても、レシピは姉さんから教わったものですが……」
「玉蓮様も料理が得意なのですね」
「あの人はどんな些細なことでも完璧にこなす人ですから」
春燕の口調はどこか誇らしげだった。今でこそ対立している二人だが、かつては仲の良い姉妹だったことが伺えた。
(いつか和解できるとよいですね)
玉蓮が春燕を後宮から追い出そうとするのを止める未来を想像しながら、琳華は調理に取り掛かる。
春燕にレシピを教わりながら、その手順に従っていく。白米ともち米を大きな陶器に入れ、水が透明になるまで何度もすすぐと、鉄鍋の中に小豆や栗と一緒に投入していく。
「八宝粥はじっくりと煮込むのが大切なんです」
竈に薪をくべて火の準備を進めていた春燕が、大量の水を鍋に加えて煮込んでいく。粥が煮立ってくると、米がふっくらと膨らみ、豆も柔らかくなっていく。
「琳華さん、翠玲さん、これで完成です」
「美味しそうですね」
「子供たちもきっと喜ぶわね」
食欲を唆る香りが厨房全体に広がっていく中、陶器に粥を丁寧に盛り付けていく。
琳華たちが八宝粥を厨房から広間へ運ぶと、既に子供たちはテーブルに腰掛けており、小さな器を眼の前に並べていた。
「皆さん、お待たせしました。本日は八宝粥ですよ」
子供たちは期待に満ちた目で鍋を見つめる。琳華は一人一人の器に八宝粥をよそい、丁寧に配っていく。
粥を口に運ぶ子供たちは、笑顔の華を咲かせる。「美味しい!」という歓声が響く中、春燕は周囲を見渡し、何かを探していた。
「|春燕様、どうかされましたか?」
「子猫の姿がなくて……琳華さんは見かけませんでしたか?」
「残念ながら……」
「そうですか……」
会話を聞いていた子供たちも子猫が消えていると気づいたのか、「少し前までここにいたのに」と不安げな表情を浮かべ始める。
「琳華ならどこにいるのか推理できないの?」
翠玲が期待するように問いかけると、琳華は少し考え込み、静かに答えた。
「実は、以前の寝室から子猫が消える事件ですが、小さな疑問が残っていました……それはなぜ宿舎に猫がいたのかです」
「春燕が世話をしていたからでしょ」
「それは順序が逆で、宿舎前で子猫を見つけたからこそ春燕様はお世話をしたんです」
「あ、そうか」
「春燕様が世話をする前から、宿舎には子猫の興味をひく何かがあったはずなんです」
春燕の宿舎は託児館から遠い位置にある。わざわざ子猫がそこまで移動したのには理由があるはずだとの推理に、翠玲は感嘆の声を漏らす。
「さすが琳華ね。僅かな疑問から手掛かりを探るなんて……さっそく宿舎に探しに行ってみましょうか」
翠玲の呼びかけに琳華と春燕は頷く。
子猫を見つけるため、託児館を出発した一行は、月明かりに照らされた静かな廊下を進んでいく。
夜の冷たい風が頬を撫で、足音が響く中、琳華は子猫の行方を探るために周囲を注意深く観察して痕跡を見逃さないようにしていた。
「琳華さん、あそこ!」
宿舎前にある小さな前庭。木々が茂り、草花が美しく咲いている庭の一角で、一人の女性が長い柄の杓子を使って子猫に餌をあげていた。魚の切り身から作られた団子を子猫は嬉しそうに頬張っていた。
「蘭芳さんがどうして子猫の世話を……」
子猫に餌をあげていたのは、春燕を虐めていた宮女の蘭芳だった。声に反応した蘭芳が驚いたように振り向くと、鋭い眼差しを向ける。
「春燕、私に何か用でもあるの?」
「猫を探していたら、ここに辿り着いただけです。それよりも蘭芳さんは猫が苦手ではなかったでしたっけ?」
「嫌いよ。にゃーにゃーと煩いじゃない」
「ならどうして……」
「この子は懐いてくれたからよ。私も人間だもの。好意を向けられれば好きにもなるわ」
蘭芳らしくない言葉だが、だからこそ子猫に対する愛情が感じられた。
「もしかして、この子猫は春燕が飼っていたの?」
「いえ、私というより、託児館の奉仕者が持ち回りで世話をしているんです」
「ふん、奉仕者ね……」
「よければ、蘭芳さんも一緒にやりませんか?」
春燕からの誘いに、蘭芳は目を見開く。虐めてきた相手が手を差し伸べてきたことに驚かされたからだ。
「なにか狙いでもあるの?」
「何もありませんよ。ただ動物が好きな人に悪人はいません。猫を通じてなら、蘭芳さんとも上手くやっていけると思っただけです。翠玲さんと琳華さんも構いませんよね?」
「もちろんよ」
「人手が増えると助かりますから」
歓迎を伝えるように琳華たちは微笑む。本心だと伝わったのか、蘭芳は小さな声で答える。
「……後悔するわよ」
「そうかもしれませんね」
暖簾に腕押しの態度に、蘭芳は小さく溜息を零すと、静かに頷く。
「春燕からの誘いに乗るのは癪だけど、猫のためなら仕方ないわね」
蘭芳は春燕の提案を受け入れる。新たな仲間の加入に、皆は笑みを零すのだった。




