第七章 ~『逃走する子猫』~
ある日の夜、琳華は託児館へ向かっていた。月明かりに照らされた廊下を進み、一角にポツリと建てられた建物へと辿り着く。扉を開けると、温かい木の香りと共に賑やかな声が届いた。
「お姉ちゃんだ!」
廊下の先にいた子供が叫ぶと、小さな足音が一斉に駆け寄ってくる。子供たちは琳華の訪問を心待ちにしていたようで、その姿を見つけると、嬉しそうに笑顔で出迎えてくれた。
「琳華お姉ちゃん、こんばんは!」
一人の少年が元気よく挨拶する。琳華は優しく微笑み返し、彼の頭を軽く撫でた。
「今日の奉仕者は私だけですか?」
「梅香お姉ちゃんもいるよ」
「それは心強いですね」
梅香は子猫を黙って飼い、幽霊騒動を起こした宮女である。託児館で猫を預かるようになってからは、積極的に奉仕者に参加していたため、新人でありながらも料理や子どもの世話に関して、ベテラン顔負けの経験者へと成長していた。
(まずは梅香様に挨拶しましょうか)
広間へ向かうと、一人で椅子に腰掛けている梅香を見つける。普段の明るさは影を潜め、肩を落として深くため息をついていた。
「どうかしたのですか?」
琳華が優しく声をかけると、梅香は一瞬驚いたように顔を上げる。
「琳華さん、丁度良いところに来てくれました!」
瞳を輝かせる梅香の反応から自分に何を期待されているのか察する。
「もしかして謎解きですか?」
「さすが琳華さんは察しが良いですね。実は夜の内に子猫がどこかへ消えちゃて……どうやって寝室から抜け出したのか真相を解き明かして欲しいのです」
梅香の口ぶりから判断するに、寝室の出入り口は閉ざされていたのだろう。さらに詳しく聞くために事情を深堀りしていく。
「子猫は帰って来たのですか?」
「いつも朝には戻ってくるんです。ただ目を覚ました時に消えていると、子供たちが寂しがってしまって……」
梅香としても猫の行方が心配なのか、瞳に不安を宿している。そんな彼女を安心させるために、琳華は優しく微笑んだ。
「その謎、私が解いてみせます」
「琳華さんならそう言ってくれると信じてました!」
「では謎を解くヒントがあるかもしれないですし、猫の消えた寝室へ案内してくれますか?」
「もちろんです」
廊下を進む梅香に先導されて、琳華は木製の扉の前まで移動する。その先には複数の子供用ベッドが並んでおり、薄手の布団と枕が置かれていた。
「琳華さんが寝室を訪れるのは初めてですよね?」
「子供を寝かせるときは広間のベッドを使っていましたから」
「あれは仮眠用です。夜に眠るときは、みんな、寝室のベッドを使っているんです」
琳華は寝室を見渡すが窓はない。ただ部屋の奥に扉があることに気づく。
「あの奥はなんですか?」
「トイレです」
「なるほど、話が見えてきました」
出入り口は廊下に繋がる扉だけ。木製の頑丈な扉は猫には開けられず、子供たちがトイレで寝室の外に出ることもない。
「密室から猫が消えたというわけですか……」
「秘密の抜け穴があるわけでもないですし、困り果ててしまって……」
人間しか開けられない出入り口。そこを閉められた状態で猫がどうやって逃げ出すのか。その疑問の答えは一つしかなかった。
「考えられるのは唯一つ。誰かが扉を開けたのでしょうね」
「ですが、何のために……」
理由もなく寝室の扉を開けて、子猫を外に逃がすはずがない。行為の動機が分からないからこそ、謎は難解になっていた。
(もう少し手掛かりがあれば……)
謎を解くためのヒントを探ろうと感覚を研ぎ澄ませていると、子供たちの声が騒がしくなっているのに気づく。
「誰か来たのでしょうか?」
「きっと翠玲さんですね。頻繁に手伝いに来てくれるんですよ」
琳華たちは出迎えるために広間に戻ると、その存在に気付いた翠玲は、子供たちに囲まれながら愛想良く手を振る。
「晩御飯の調理を手伝いに来たわよ。琳華も同じよね?」
「私もそのつもりでした。ただ今は別の問題に直面中で……」
「なにかトラブルでも起きたの?」
「実は……」
子猫が夜になると消える謎を伝えると、心当たりがあったのか、翠玲の眉が上がる。
「私も夜に手伝いに来ていた時に廊下で見かけたわよ。しかも三度も」
「猫はどこに?」
「外に向かって走っていったわ。翌朝には戻って来るからあまり気にしていなかったけど、子供たちが寂しがっていたのね……」
その場で捕まえればよかったと悔しそうな顔をする翠玲に対し、琳華は何かに気付いたのか顎に手を当てる。
「梅香様、猫が消えたのはいつですか?」
「昨日と、四日前と、五日前です」
「翠玲様が来たのは?」
「偶然にも同じ日ね」
「なるほど。そういうことですか……」
琳華の頭の中に仮説が生まれる。料理が得意な翠玲がやりそうなことを考えれば、自ずと答えは導かれた。
「翠玲様、子供たちに夜食を作ってあげていますね?」
「あ!」
図星を突かれたという表情から推理が的中したのだと悟る。
「寝室の扉は夜食を食べるために子供たちが開けたのですね。その隙に子猫は外へと逃げ出した。周囲は暗いですから。子供たちも子猫が抜け出したことに気づかなかったのでしょうね」
「さすが琳華。見事な推理ね……あと、上司のミスの尻拭いも助かったわ」
申し訳なさそうに翠玲は手を合わせる。素直に謝罪できるところは彼女の美徳だった。
「でも琳華さん、子猫はどこに消えたんでしょうか?」
「翌朝、帰ってきた後にご飯を食べていますか?」
「あ、食べなかったかも」
「なら誰かが餌をあげているのでしょうね。それ目当てに出かけているんです」
その餌付けしている誰かは、託児館の外の人間だろう。その人物に心当たりがあるのか、翠玲が反応を示す。
「そういえば春燕が猫に餌をあげていると話していたわね。ここで飼っている子猫のことだったのかも」
「すべて繋がりましたね」
猫が消える謎は解け、一件落着だと安堵する。ただこの時の琳華は知らなかった。この謎が引き金となり、さらなる大事件を引き起こすことを。




