第六章 ~『麗珠と皇后の推薦』~
玉蓮を撃退してから数日が過ぎた。琳華は麗珠に誘われて、庭園の一角にある亭子を訪れていた。
庭園には牡丹の大輪が華やかに咲き乱れ、藤の花房が垂れ幕を作り上げている。八角形の屋根を持つ亭子が存在感を放ち、その中の長椅子に麗珠が腰掛けていた。
「よく来てくれたわね、琳華」
「麗珠様のお誘いですから」
歓待の笑みを受け、琳華も微笑む。
「ここに来るのは初めてかしら?」
「はい。こんな素敵な場所があったのですね」
「知らないのも無理ないわ。ここは予約制だもの。だから人もいないでしょ」
麗珠の言う通り、庭園に人影はない。時折、遠くから話し声が聞こえるだけで、まるで世界から隔絶されているかのようだった。
「予約は誰でも取れるのですか?」
「空いていればね。でも上級女官が優先されるし、金額も高いの。一日借りるだけでで、宮女の月俸を超えるのよ」
「それは気軽に借りられませんね」
「でも大事な話をする時に便利なの。外だからリラックスもできるしね」
ただの雑談のために呼ばれたわけではない。そう理解した琳華は、長椅子に腰掛けると、麗珠を見据える。
「それで私に話とは?」
「貴妃様の件よ。側近にならないかと誘われたそうね」
「断りましたけどね」
「でも受け入れられなかったでしょ?」
「よく分かりましたね」
「皇后様のライバルになる人だもの。その性格についても把握しているわ」
麗珠は皇后の側近であり、総尚宮の地位にある人物だ。入ってくる情報量も多く、貴妃について詳しいのも当然だった。
「ここからが本題よ。琳華、あなたさえよければ、皇后様の側近にならない?」
「私がですか?」
「実はね、皇后様の四尚宮の一人が定年で退職するの。その空席となったポストをあなたのために用意しても良いと皇后様は約束してくれたわ。この話を受けてくれれば、貴妃様も無理に琳華を自分の部下へ招くことができなくなるし、悪い話ではないはずよ」
「とても光栄な話だと思います」
「なら……」
「ですが、丁重にお断りします」
琳華の声は穏やかでありながらも、確固たる決意が感じられた。庭園の静寂が二人の間に広がっていく。
「理由を聞いてもいいかしら」
「私は貴妃様が嫌いなわけでも、皇后様に仕えるのが嫌なわけでもありません。後宮にいる間は、翠玲様の下で働き続けたいだけなのです」
琳華の思いを受けた麗珠は穏やかな表情を維持する。ただ瞳には一抹の悲しみが宿っていた。
「残念だけど、仕方ないわね……でもこれだけは言わせてほしいの。皇后様は琳華を気にかけてくれているわ。上級女官の推薦に動いてくれているほどにね」
「皇后様がそのようなことを……」
「ただ桂華の反対も強くてね。無条件には厳しいの。だからあと一つ、理由や成果があれば、あなたを上級女官に昇進させられるそうなの」
「そのための四尚宮の地位ですね」
「そういうことよ」
皇后の側近となれば、今まで数多くの貢献を果たしてきた琳華なら、昇格させるだけの十分な理由付けができる。
だが麗珠の厚意とは裏腹に、琳華の口元には苦笑が浮かぶ。
(私は中級女官のままで満足なのですが……)
昇進すれば面倒事も増える。それに一年で宝石鑑定師として復職する立場としては身軽でいたかった。
「今日は話せてよかったわ。困ったら、いつでも声をかけてね。私は琳華の味方だから」
「その際は頼りにさせていただきます」
麗珠はゆっくり立ち上がると、庭園を去っていく。その背中を見送ると、入れ替わるように人影が近づいてきた。その美しい相貌は見間違えるはずもない、琳華の親友である天翔だった。
「どうして天翔様がここに?」
「麗珠がここの庭園を予約しているのを知ってね。話が終わった後に、僕に貸してもらえるように約束していたんだ」
天翔も琳華に用事があったようで、隣に静かに腰を下ろす。視線を重ねた彼は柔和な笑みを浮かべると、ゆっくりと口を開く。
「君のお陰で悩みが解決したよ、ありがとう」
晴れ晴れとした笑みが浮かべた天翔に、琳華は謙遜で目を伏せる。
「私は何もしていませんよ」
「君の助言が背中を押してくれたんだ。おかげで皇帝と話ができたよ」
「皇帝陛下とですか!」
殿上人である皇帝は、平民では一目見ることさえ困難だ。琳華が驚くのも自然な反応だった。
「たまたま謁見する機会があったからね」
「皇帝とはどんな話を?」
「後継者に不安があるから貴妃を招いたのかと率直に疑問をぶつけたよ。でも答えは違った。貴妃を身内に取り込むことそのものが目的だそうだ。君の推理は的中していたんだよ」
「なるほど……やはりそうでしたか……」
琳華はしばし黙り込んだ。記憶の中にある貴妃の人物像を思い起こし、ゆっくりと口を開く。
「私も貴妃様とお会いして、優秀だという印象を受けました。ただ……皇后様とは違うタイプですね。例えるなら、そう、冷徹でありながらも、遊び心のある経営者といった印象でした」
「それはきっと正しいよ。僕なりに調べてみたところ、貴妃は商人の生まれでね。隣国で最も大きい商会を束ねていたそうだ。財界の女王という異名まであるほどに、卓越した経営手腕の持ち主だそうだよ」
「その資金力に皇帝陛下は目を付けたのでしょうか?」
「それもあるだろうけど、最大の狙いは人脈だろうね。貴妃は世界中の国家元首や重鎮たちと繋がりを得ている。安定的な国家運営のために、彼女の力を欲したんだ」
友好関係を結ぶことで平和な世を築く。皇帝の語る千年先の繁栄の形がぼんやりと見えた気がすると、天翔は誇らしげに語る。
「貴妃も皇帝もどちらも傑物だ。僕も負けてはいられないね」
「天翔様も十分にご立派ですよ。少なくとも、あなたには誰にも負けない長所がありますから」
琳華の瞳が天翔を真っ直ぐに捉える。その視線には強い尊敬が込められていた。
「打算ばかりの後宮内において、天翔様のように心から他人に親切にできる方は貴重です。優しさ。それこそが、天翔様の最大の長所ですよ」
カリスマを生み出す源は、天翔の心根だ。それは最大の美徳だと称賛を送ると、彼は気恥ずかしそうに頬を掻く。
「お世辞だとしても、琳華に褒められると悪い気はしないね」
「本心ですよ。事実、天翔様が会いに来てくれたのも私を心配してですよね?」
「君に隠し事はできないね……もし麗珠に無理矢理に誘われたなら、庇ってあげたくてね。念の為、近くで待機していたのさ」
「やはりそうでしたか……」
麗珠なら琳華の意思を無視するような真似はしないだろうが物事に絶対はない。皇后のためなら無理強いする可能性を捨てきれず、彼女を守るために天翔は見守っていたのだ。
「でもよく僕の意図が分かったね」
「ここの庭園は予約制です。話をするだけなら、麗珠様と交渉までして足を運ぶ理由もありませんから」
それこそ宿舎前で待っていれば、琳華と会うのは簡単だ。だが彼はそうしなかった。そこに意味があると推理したのだ。
「君は何でもお見通しだな」
「だから天翔様が凄い人だということも見抜いてしまうんです」
冗談交じりの琳華の称賛を、天翔ははにかみながら受け入れる。穏やかな空気が二人の間に流れ、信頼を深め合っていくのだった。




