第六章 ~『広まった噂』~
貴妃との面談から数日が経過した。文書管理課で黙々と働く琳華の前には書類の山が積まれ、窓から差し込む柔らかな陽光に照らされていた。
仕事そのものはいつもと変わらない。だが職場の空気には異変が起きていた。
隣で働く春燕が元気を失っていたのだ。普段は明るくて活発な彼女が、今日は何度もため息を吐いていた。肩は少し落ち、目元には疲れがにじんでいる。書類を整理する手つきも、どこか力が抜けているように見えた。
心配になった琳華は、仕事の手を止めて春燕に声をかける。
「春燕様、悩み事でもあるのですか?」
春燕は一瞬驚いたように顔を上げる。その瞳には不安と疲れが浮かんでいたが、すぐに口角を上げて、引き攣った笑顔へと変える。
「もしかして心配させてしまいましたか?」
「同じ職場の同僚ですからね。私で良ければ、いつでも相談に乗りますよ」
「でも、琳華さんの迷惑になるんじゃ……」
「私はお節介ですから。人の役に立てることが嬉しいんです。だから遠慮せずに話してください」
春燕は少し迷う様子を見せたが、琳華の優しい眼差しに促されて口を開く。
「実は……私の心臓病が感染すると嘘の情報が流されていまして……そのせいで仲の良かった人たちから距離を置かれるようになってしまったんです……」
「誰がそんな嘘を?」
「確証はありませんが、見当はつきます。おそらく姉さんでしょうね。私を後宮から追い出すために仕組んだのだと思います」
その言葉は確信に満ちていた。だが琳華はゆっくりと首を横に振る。
「春燕様が原因ではありませんよ。玉蓮様の狙いは私ですから」
「琳華さんがですか?」
「先日、玉蓮様から脅されまして。私が出世競争から降りなければ、周囲の者に危害を加えると……」
「姉さんがそんなことを……」
「そして困ったことに、貴妃様からの側近の話は断ったのですが、玉蓮様は信じてくれないようでして……」
「あの人は疑り深いですからね」
「貴妃様から伝えて頂ければ信じてくれるのでしょうが、さすがに皇族にお願いはできませんからね……他の方法で、どうにか玉蓮様に信じてもらえればよいのですが……」
「難しいでしょうね……姉さんが信じるのは、お金と権力だけですから」
「春燕様と双子の姉妹とは思えませんね……」
「昔は性格も瓜二つでしたよ。ただ私のせいで、あの人は変わってしまったんです……」
春燕の目が何かを追い求めるように揺れると、過去に思いを馳せながら話を続ける。
「私たちは裕福な薬師の家の生まれでした。子供の頃からお金に困ることのない不自由のない生活を送ってきました。ただ、私の心臓病が発覚してからは、高額の治療費でそうはいかなくなりました。姉さんはどんどんとお金に固執するようになったんです」
その言葉には過去の苦しい日々が蘇るかのような痛みが含まれていた。苦痛に耐えるように表情を歪ませながらも、春燕は話を続ける。
「両親が流行り病で倒れてから、姉さんの変化は特に顕著になりました。両親が残してくれたのは、薬の知識とダイヤモンドの双晶、そして借金だけ。たいした遺産もありませんでしたから……」
貧困が玉蓮を欲深き人間へと変えた。その言葉に琳華は疑問を抱く。
「双晶は売らなかったのですね」
「姉も人間ですから。どれほど生活が苦しくても両親の唯一の形見だけは手放せなかったようです」
ダイヤモンドの双晶は、琳華でさえ見たことがないほどの貴重品だ。一度でも手放せば買い戻しは困難になる。だからこそ所有し続けることを選択したのだという。
「生活に苦しくなった私たちは、後宮でお世話になりました。そこから姉さんと私は別の道を進み、今に至るというわけです」
「大変な人生でしたね……」
「私はまだ幸せです。優しい人たちに恵まれましたし、自分の病気が招いたことですから。ただ姉さんには申し訳ないことをしました……」
罪悪感を含んだ言葉に対し、琳華は春燕の手を優しく握りしめる。
「春燕様は悪くありません。病気は仕方がないことですから」
「ですが……」
「それに過去にどのような背景があったとしても、嘘を流していい理由にはなりません。私に策がありますから。どうか任せておいてください」
琳華の強い意思が宿った瞳に、春燕は頼りがいを感じながら静かに頷く。
それから琳華は行動を開始した。
噂には噂で対抗とばかりに、玉蓮に関する話を後宮内に広めたのだ。数日もすれば、心臓病が感染するという嘘はピタリと止まり、春燕の顔に笑顔が戻った。
「さすが琳華さんです。こんなに早く、嘘の噂が収まるなんて思いませんでした」
職場の暗い空気は消え、春燕はいつものように明るい態度で仕事に励んでいる。その瞳は琳華への尊敬でキラキラと輝いていた。
「玉蓮様が嘘を流すのを止めたからでしょうね」
「でもどうやって姉さんに止めさせたんですか?」
「玉蓮様と春燕様が過去に一緒に暮らしていたと広めただけです。もし病が伝染するのなら、玉蓮様にも感染しているはずですから。嘘の風聞を流せば流すほど、玉蓮様の評価の低下を招くことになります」
「なるほど、だから姉さんは風聞を流すことを止めたのですね!」
まるで魔法のようだと春燕が驚いていると、文書管理課の扉が開く。訪問してきたのは、苦々しい表情を浮かべた玉蓮だった。
「やってくれたわね。まさか双子の姉妹であることを逆手に取られると思っていなかったわ」
「これに懲りたら、嫌がらせを止めることですね」
琳華の忠告に、玉蓮は鋭い眼差しを向けるも、すぐに余裕を取り戻す。
「今回は私の負けを認めるわ。でもね、次は勝つから」
玉蓮は敵意を含んだ視線で琳華を睨みつける。簡単には諦めてくれそうにないと感じながらも、琳華はその視線を真っ向から受け止めるのだった。




