第六章 ~『側近の募集』~
窓から光が差し込む中、机を前にした琳華は仕事に没頭していた。書類の山に囲まれながら、一つ一つを丁寧に確認していく。必要な箇所に印を付け、集中力を切らさないように筆を持つ手に力を込めていた。
没頭していると時間が過ぎるのも早い。気づくと、正午の十分前を知らせる鐘の音が響き渡る。その音を聞いた琳華は、椅子に深く座り直し、腕と背筋を伸ばして筋肉を緩ませる。
「琳華さん、お昼に行きませんか?」
隣の席に座っていた春燕が立ち上がる。だが琳華は申し訳なさそうに首を横に振った。
「私はもう少し仕事をしてからにしますね。春燕様は先に食べてきてください」
「分かりました。では、お言葉に甘えますね」
春燕は空腹だったのか、軽やかな足取りで職場を後にする。その背中を見送ると、翠玲から声がかかる。
「昼食、食べなくてよかったの?」
「朝食を食べすぎてしまいましたから……翠玲様は行かないのですか?」
「私はピークの時間帯を過ぎてからにするわ」
「正午は混みますからね」
「それと仕事が溜まっているのも理由の一つね」
過労で倒れるほどではないものの、忙しいと言い切れるほどには多忙だった。その原因に琳華は心当たりがあった。
「貴妃様の人材登用が始まったからですね」
人を配置転換すると、文書も更新されて、仕事が増える。仕方ないことだと受け止めているのか、翠玲は曖昧な笑みを浮かべる。
「これからもどんどん忙しくなるわ。琳華にも負担をかけるわね」
「仕事ですから。気にしないでください」
「琳華の優しさにはいつも救われるわね」
「側近の登用は既に始まっているそうですから。終わりも遠くない未来にやってくるはずですよ」
貴妃は側近探しのために、気になった女官を面接している。これは面接する側の彼女にとっても負担になるため、期限は定めるはずだ。
「翠玲様は面接に呼ばれていないのですか?」
「ないない。私は文書管理課で働くからこそ力を発揮できるタイプだもの。むしろ琳華のような万能なタイプにこそ声がかかるはずよ」
「実は……既に頂いています」
「そうなの!」
「本日の午後に面接に来て欲しいとのことでした」
「貴妃様から認められるなんて凄いじゃない! もし採用されたら上級女官の昇格は間違いなしよ!」
直属の側近ともなれば大勢の部下を従えることになる。権限を強化するための昇進は十分にありえる話だった。
「出世にあまり興味がありませんし、貴妃様の側近がどういう仕事かも知りませんから……」
「なら私が説明してあげる」
翠玲は瞳を輝かせて、話を続ける。
「皇帝陛下の妃になられる方は直属の側近を抱えるの。例えば、皇后様なら琳華もよく知る麗珠様が、総尚宮の役職、つまり側近で一番偉い人になるわ。次の役職が四尚宮。この辺りのポストに就いていると、周囲から一目置かれるし、出世も早い。事実、皇后様の四尚宮は、就任時に中級女官だったけれど、いまやもう全員が上級女官よ」
だからこそ貴妃の側近の立場を狙っている女官は多いと翠玲は続けるが、そこで琳華はある疑問を抱く。
「桂華様は皇后様の側近に選ばれなかったのですね」
「皇后様から信用されていないもの。桂華様から申し出たけど、断られたそうよ」
「なら貴妃様の総尚宮の地位を欲しているかもしれませんね……」
「可能性は高いわね。あの人の唯一の弱点が皇室との関係の弱さだもの。皇帝や皇后に意見はできるけれど、仲が良いわけでも信頼されているわけでもない。だからこそ貴妃様に取り入り、権力を盤石にしたいはずよ」
琳華はその言葉に深く頷くと、困ったような顔で翠玲を見据える。
「とても学びになる話でしたが、やはり私は興味を持てませんね。招待された以上、面接には応じますが、きっぱりと断るつもりです」
「私に遠慮しなくていいのよ。効率化や春燕のおかげで忙しいけれど、過労で倒れるほどではないもの。琳華の能力を活かせるなら、貴妃様の下で働いても構わないから」
「翠玲様は優しいですね」
「そりゃ、琳華には助けられてきたもの。恩を返したいと思うわよ」
「では気持ちだけ受け取っておきます。私は翠玲様と一緒に働き続けたいですから」
「琳華……っ……本当に私は部下に恵まれたわね……」
「私も翠玲様が上司でよかったです」
微笑み合う二人の間に穏やかな空気が流れる。
貴妃からの誘いを断る意思を固めた琳華は仕事を再開する。時間の経過とともに窓から差し込む光が少しずつ柔らかくなり、部屋の中に長い影を落としていく。
「そろそろ面接の時間ですので、行ってきますね」
琳華は静かに立ち上がると、翠玲は親指を立てて武運を祈る。
職場を後にして貴妃宮へ向かう。近づくに連れて、周囲の景色が変化していった。
手入れの行き届いた芝生が広がり、澄んだ池の水面には周囲の景色が美しく映し出されている。優雅な形の石橋が架かり、庭園を散策する宮女たちの姿も目に入った。
(四つある貴妃宮の中では最も質素だと聞いていましたが、これでも十分に豪華ですね)
貴妃宮の入口に到着すると、控えめながらも絢爛さを主張する外観に息をのむ。落ち着いた赤で塗られた屋根瓦は太陽の光を受けて輝いており、その入口では優雅な姿勢で侍女が待ち構えていた。
「ようこそいらっしゃいました、琳華様」
淡い色合いの衣を身に纏った侍女が静かに礼をする。一見すると素朴に感じる顔立ちだが、よく見ると気品が溢れており、腰に巻いた鳥の刺繍の帯もセンスを感じさせた。
(さすが貴妃様の侍女ですね)
案内係でさえも、人材には妥協しない。そのようなメッセージが込められているようだった。
「琳華様、こちらへどうぞ」
侍女は琳華を貴妃宮へと案内する。
廊下の床には豪華な絨毯が敷かれ、両側には上質な木材で作られた家具が整然と並べられている。
貴妃宮の奥深くにある部屋の前に通されると、重厚な木製の扉が静かに開かれる。内側からの優雅な香りに出迎えられ、部屋の中へと足を踏み入れた。
廊下以上に絢爛な室内の中央に、妖艶な雰囲気を纏った女性が椅子に腰掛けていた。長い黒髪は艶やかに輝き、顔立ちは繊細でありながらも強い魅力を放っている。
武装した宦官たちを護衛として周囲に侍らせており、琳華の姿を認めると、小さく安堵の息を漏らす。
(なにか違和感が……私が約束通りに来たことに安堵した?)
貴妃だけではない。護衛の宦官たちにも緩みが伺え、疑念は確信へと変わる。
(なるほど、そういうことですか)
真意を読み取った琳華は微笑みを浮かべながら、貴妃の前で堂々と胸を張る。その姿は場を飲み込むほどの存在感があった。
「私は優秀な側近を探しているの。あなたが評判通りの人物であることを期待しているわ」
その声は挑戦的であったが、琳華は怯むことなく、貴妃を正面から見据える。互いの視線が交わる中、琳華から話を切り出す。
「面接官はあなたが?」
「ええ、そうよ。何か不都合でも?」
貴妃の問いに、琳華は一瞬の沈黙を生んでから冷静な言葉を返す。
「あなた、偽物ですよね」
宣告が静寂に響く。驚愕が広がっていく中、琳華は振り返って、案内人の侍女に向き合う。
「あなたが本物の貴妃様ですね」
琳華の問いに、侍女は笑みを崩さない。だが先程までの柔らかい印象は消え、平伏したくなるような威厳を纏い始めた。
「どうして分かったの?」
「あの方に非はありません。完璧な演技でした」
「ならどうして?」
「私がこの部屋を訪れた時、皆さんが安堵されましたから。護衛も付けずに一人でいた貴妃様が無事だと知っての反応だと気づきました」
もし琳華に悪意があれば、危害を加えることもできた。特に護衛を任されている宦官は、もし貴妃が殺されるようなことがあれば責任問題にも発展する。無事を確認して、安堵するのも当然だった。
「素晴らしい洞察力ね。噂通りの傑物だわ」
正体を現した貴妃が盛大な拍手を送る。呼応するように、宦官たちも琳華に称賛を送った。
「でも見破られるとは思わなかったわ。部下の演技指導までするべきだったかしら?」
「いえ、それでも疑ってはいたと思います」
その答えに、貴妃は期待と興味を交えた眼差しを向ける。求められたら応じるしかないと、琳華は話を続ける。
「演技では自然な反応を消すのには限界があります。特に護衛を生業としている皆さんは、無意識の内に貴妃様を守ろうと意識が働きますから」
単なる侍女を守るためだけに神経を尖らせるはずはない。数ある状況証拠から、必ず真実へ辿り着いたとの言葉に、貴妃は笑みを深める。
「いいわね、あなたが欲しくなってきたわ」
貴妃の力強い言葉は、評価の高さの表れでもあった。だが琳華は称賛を受けながらも、冷静に意思を貫きとおす。
「その話ですが、私は側近になるつもりはありません。今の職場で働き続けたいのです」
「あらそうなの。でも残念ね。私は優秀な手足を求めているけれど、手足が望んで働くかどうかは興味ないもの」
貴妃の立場があれば、本人の意志を無視した配置転換もできる。非情さを含んだ言葉を放ちながらも、それとは対照的に口元には柔和な笑みが浮かぶ。
「あなたは少し勿体ないわね」
「どういう意味でしょうか?」
「そのままの意味よ。能力があるのに、出世願望が薄い。琳華がその気になれば、上級女官にだってなれるのに……」
高い報酬、恵まれた待遇、たくさんの部下。能力を十全に発揮できるようになり、そこから遣り甲斐も生まれるだろう。
だが琳華が興味を抱くことはない。無関心なままの彼女を見て、貴妃の口元が苦笑へと変わる。
「あなた、変わり者ね」
「自覚しています」
「ふふ、やっぱり後宮という場所は面白いわね。ここまで愉快な人に二人も出会えるなんて……」
「私以外にも変わり者がいたのですね」
「玉蓮という中級女官よ。彼女もいいわね。あなたに負けないくらい素敵な人よ」
飛び出した宿敵の名前に、琳華は反応を示す。その様子を嬉しそうに眺めながら、貴妃は「面接の結果は追って伝える」とだけ口にする。優雅に微笑む彼女の表情には、琳華に対する期待が込められているのだった。




