第六章 ~『貴妃と洞察』~
翌日、身支度を整えた琳華は文書管理課へと向かう。早朝の冷たい空気が肌に心地よく、一日の始まりを清々しく感じさせた。
「おはようございます」
職場に顔を出すと、春燕の姿が見当たらないことに気づく。いつもなら机の上に並べられているはずの仕事道具も仕舞われたままだった。
「おはよう、琳華」
「春燕様はお休みですか?」
「心臓病の薬を貰いに薬房へ行ったわ。だから今日は変則勤務よ」
不在の理由に納得した琳華は椅子に腰掛ける。その時、ちらっと翠玲の机の上を一瞥し、積まれた書類の山に気づく。
業務が効率化され、新人も加入したため、仕事は落ち着いているはずだった。だが翠玲の様子は違う。額に汗を浮かべながら、書類とにらめっこしていた。
「なにか起きたのですか?」
「さすが琳華、やっぱり気づくわね。実は皇帝陛下が新しい妃を迎え入れたのよ」
「それは大事件ですね……新しいお妃様はどのような人なのですか?」
「残念だけど、情報はまだこちらまで降りてきてないわ。でも皇后様一筋だった皇帝陛下の心を射止めたのだから。絶世の美女なのでしょうね」
皇帝は側室を迎えたことがない。その彼を魅了し、皇后に次ぐ貴妃の立場を手に入れたのだ。只者ではないだろう。だが琳華は翠玲の予想に首を傾げる。
「きっと皇帝陛下は容姿で選んだわけではないと思いますよ」
「貴妃様がどんな人か分かるの?」
「少なくとも、あの美しい皇后様がいながら迎え入れたのですから。容姿以外の部分が評価されたと考えます」
「なるほど。一理あるわね」
琳華の推理には説得力があった。翠玲は頷きながら他の可能性を模索する。
「容姿でないなら家柄かしら?」
「有力者との繋がりを強めることが目的なら、過去にも側室を迎え入れていたはずです……おそらくですが、貴妃様個人に惹かれたのだと思います」
美貌でも、家柄でもないなら、残るは貴妃本人の魅力が秀でている場合だ。聡明さや、人柄、能力など、皇帝が妃として選ぶだけの理由があるのだろう。
「真実は皇帝陛下に聞かなければ分からないわね……でも、そんなことできるはずもないし、下っ端の私たちは大人しく仕事に打ち込むとしましょうか」
「賛成です。お仕事、私の方でも引き取りますよ」
「正直、助かるわ。お願いするわね」
琳華は書類の山を引き継ぐと、一枚一枚を手にとって確認していく。宮廷儀礼の行事表や、予算、安全管理の書類など、貴妃という存在が後宮に招かれたことで、更新すべき情報は盛りだくさんだった。
(この書類……)
琳華は人事に関する書類に目を留める。そこには貴妃の部下として配属される女官の名前がすべて埋まっておらず、特に重要な役職での空白が目立っていた。間違いかもと思ったが、琳華は貴妃の考えを読み取る。
(なるほど、そういう意図ですか……)
納得した琳華は次の住居管理の書類に目を通す。後宮内には先代の皇帝が残した四つの貴妃宮が点在しているが、彼女はその内の最も宮殿から遠い第四貴妃宮が割り当てられていた。
「貴妃様は宮殿には住まないのですね」
「皇后様が住んでいるもの。それに引きこもりの皇子もね」
翠玲の言葉には僅かな不安が混じっていた。その真意を琳華は見抜く。
「心配事があるのですか?」
「心配と呼べるほどのものではないわ」
「不安があるなら、吐き出せば楽になることもありますよ」
促すような琳華の言葉に、翠玲の表情が柔らかくなる。意を決した彼女は、心中を吐露していく。
「皇帝陛下が貴妃様に寵愛を向けると、世継ぎが生まれるかもしれないわ。引きこもりの皇子ではなく、そちらを次代の皇帝にという話になれば、後宮のトップも皇后様から貴妃様に入れ替わる可能性があるの」
「翠玲様は皇后様の下で働きたいのですね」
「どうせ働くなら、優秀な人の下がいいもの」
上層部によって、組織での働きやすさは大きく異なる。貴妃が無能ならその皺寄せを翠玲が被ることも十分にありえた。
「翠玲様の不安はよく分かります。ですが、貴妃様は自分の能力に自信がある程度には優秀な方だと思いますよ」
「何か根拠があるの?」
「一つは、選ばれた貴妃宮です。最も豪華で宮殿のすぐ傍にある第一貴妃宮ではなく、宮殿から距離のある第四貴妃宮を選ばれています。これは皇帝を皇后の住む宮殿に帰さないという自信の現れです」
自分の魅力で虜にできる確信があるからこその選択だ。これだけでも貴妃の人柄を推し量ることができる。
「そしてもう一つは人事です。貴妃様は重要なポストを空白のままにしています。おそらく、自分の目で見て、側近を決めるつもりなのでしょう」
蝶よ花よと育てられただけの女性ではない。自らの判断に絶対の自信を持つ女傑。それが得られた情報から受ける貴妃への印象だった。
「やっぱり琳華は凄いわね。たったこれだけの情報から貴妃様の性格を読み解くなんて……おかげで将来の不安が吹き飛んだわ」
「翠玲様のお役に立てたなら良かったです」
二人は微笑みながら仕事を続ける。後宮に嵐が吹き荒れるのを予感しながらも、眼の前のことに集中するのだった。




