第五章 ~『面会と権力』~
夜の帳が下りる頃、後宮が静寂に包まれる中、桂華に招待された琳華は、壮麗な宿舎の前で小さく息を吐く。
(想像以上の権力ですね)
通常の上級女官であれば、フロア全体が自分の部屋となるが、桂華はその規模を遥かに上回っており、宿舎を丸ごと専有していた。
権勢の高さを感じ取りながら、琳華は重厚な扉を見上げる。施された細かな彫刻に目を引かれながら、扉を軽く叩く。静かに音が響くと、すぐに扉が開かれ、中から宮女が現れた。
「琳華様、ようこそいらっしゃいました。こちらへどうぞ」
宮女は丁寧に頭を下げると、琳華を案内する。
玄関を超えた先には美しい廊下が待っており、壁には掛け軸が飾られている。灯籠の柔らかな灯りが優しく照らしながら、香炉から漂う香りが空気に溶け込んでいた。
廊下を進むにつれて、琳華の心臓の鼓動は高まっていく。この先には桂華が待っている。琳華は一歩一歩を踏みしめながら進み、やがて、一際大きな扉の前で立ち止まる。
「こちらで桂華様がお待ちしております。どうぞ、お入りください」
宮女はそれだけ言い残すと、その場を去っていく。
(この中に桂華様が……)
琳華は深呼吸をしてから扉を開けると、部屋から冷たい空気が流れ込んでくる。その室内は廊下よりもさらに豪華で、広々とした室内には精緻な彫刻が施された家具が並び、部屋全体が贅に満ちていた。
部屋の中央には立派な座椅子が置かれており、一人の女性が腰掛けている。
細く整った眉に控えめな紅色で塗られた唇、そして何よりも特徴的なのは、相手の心の奥底までを見透かすかのような冷たい瞳。
一挙一動を逃すまいと、蛇のように鋭い視線を琳華に向ける彼女は、知的さと狡猾さ、両方の印象を兼ね備えていた。
「会えて嬉しいわ、琳華」
「あなたが桂華様ですね?」
「いかにも。私が桂華よ。美人で驚いた?」
「正直、もう少し年齢が上だと思っていましたから」
桂華の外見年齢は二十代後半程度に見える。だが彼女は含みを持たせながら笑う。
「外見と年齢は必ずしも一致しないわ。そして私は自分の情報をペラペラと話すほどお喋りでもないの」
「私も無理に実年齢が聞きたいわけではありませんよ……」
「興味を持たれないのも、それはそれで寂しいわね」
「天邪鬼な人ですね……」
「よく言われるわ。でもね、あなたには特別に礼を尽くすつもり。だからこそ、この対話の場を設けたの」
桂華はそう言うと、重々しく頭を下げる。
「桃梨の罪を暴いてくれたこと、派閥の長として感謝するわ」
まさかお礼を伝えられるとは思っていなかったため、琳華は驚きを隠せずにいた。心に不意を突かれたような感覚が広がっていく。
ただ顔を上げた桂華の唇の端がわずかに引き攣っているのを琳華は見逃さなかった。目の奥には微かな冷たさも垣間見え、感謝に心がこもっていなかった。
(この人は私に頭を下げたという事実が欲しいだけですね……)
評価は小さなエピソードが積み重なって築かれていく。部下の過ちを認め、それを暴いた琳華に感謝したという話を広まれば、桂華の名声はさらに高まるだろう。
「桂華様、私の前で建前はいりませんよ」
「あら、そう? もう少し頭を下げても構わないわよ」
「どうせ桂華様にとって都合の良い噂が流れるのです。無駄な時間を割くのは止めておきましょう」
その発言を受けて、桂華の瞳に僅かな驚きが浮かぶ。
「私の狙いが分かったの?」
「自分の評判を高める噂を流すためですよね。そして今だから分かります。部下でない宮女に伝言を頼んだのも、私を呼び出したという事実を第三者に知らせ、噂の信憑性を高めるためですね?」
「正解。私の見込んだ通り、琳華は優秀ね」
称賛を送る桂華だが、その眼差しは蛇のように冷たいままだ。緊張に包まれる中、彼女は重々しく口を開く。
「実は用件はこれだけではないの。もう一つ、琳華にお願いがあるの」
富や権力には不自由していないはずの桂華の頼みだ。軽い願いではないはずだと気を張り詰めていると、桂華は言葉を続ける。
「願いとは、ある男性についてよ」
「……まさか天翔様ですか?」
琳華と関係の深い男性は限られる。真っ先に浮かんだ人物は彼だった。
「あなたとは友人だそうね」
「大切な親友です」
ありのままを伝えると、桂華は少し目を見開いた後に、口角を僅かに上げる。
「正直に答えてくれるのね」
「秘密にするような話でもありませんから……ですが私は答えたのです。桂華様と天翔様の関係も教えていただけますよね?」
「いまはまだ何もないわ。ただ、いつかは彼を私の所有物にしたいの」
「……天翔様は物ではありませんよ」
強い口調で非難すると、桂華は皮肉げに冷たく笑う。
「綺麗事ね。人は生きている限り、誰かの支配下にあるわ。給金のためにやりたくないことを我慢し、恩義のために信念を捻じ曲げることもある」
その言葉には説得力があった。事実、桂華は桃梨に恩を売り、付け入る形で宝物殿の品を盗み出させていたからだ。琳華は冷静さを保ちながらも、彼女の冷酷な考え方に反発を抱く。
「あなたは最低です」
「自覚しているわ。でもね、止められないの。だって人を思い通りに操るのは楽しいもの」
無邪気な笑みを浮かべながら、桂華はキラキラと瞳を輝かせる。初めて彼女の本性が垣間見えたかのような表情だった。
「私はね、子供の頃、演劇の脚本家になるのが夢だったの」
突然の告白に驚きつつも、琳華は冷静に耳を傾ける。
「でもね、虚構を演じさせるより、現実を生きる人たちに私の脚本通りの生き方をさせる方が楽しいと気付いたの。だから私は富や地位を欲する。だってその方が、より多くの人を私の脚本に巻き込めるでしょ」
他人を支配し、自分の思い通りに動かすことに喜びを見出す。桂華の根底にあるのは強い支配欲だった。
「だから私は天翔様が欲しいの。だって素晴らしい演劇には、優秀な演者が必要でしょ。そのために琳華に協力して欲しいの」
お願いという形だが、命令するような響きが含まれている。琳華は眉を釣り上げて拒絶するが、桂華は構わずに言葉を続ける。
「側近の地位を与えるし、高い給与も約束する。琳華が望むなら私の後継者の地位を約束しても良いわ……後宮という舞台で一緒に面白い脚本を描きましょう。あなたと私なら傑作を生み出せるはずよ」
悪魔に魂を売るかのような提案に、琳華は考えるまでもなく結論を下す。
「断ります。私は大切な友人を地位のために売ったりはしません」
琳華の毅然とした声に、桂華は説得が無駄だと悟ったのか瞳に冷たい光を宿す。
「交渉決裂ね」
桂華が手を鳴らして、合図を送ると、扉がゆっくりと開かれる。扉の外で待機していた宮女が頭を下げる。
「話せて楽しかったわ。またお喋りしましょうね」
「私はもう懲り懲りです……ですが、この時間に意味はありました」
桂華が天翔を狙っていると知れただけでも収穫だ。琳華は宮女に案内されるままに部屋を後にする。その胸の内には、天翔を守るという決意の炎が宿っていたのだった。




