第五章 ~『薬師の脅威』~
琳華と春燕が大食堂に足を運ぶと、人の活気と料理の匂いに包まれる。長いテーブルには大鍋が並んでおり、その中には数種類の粥が入れられていた。
「琳華さん、見てください。今日の昼食は粥ですよ!」
「どれも美味しそうですね」
「私、ここの粥が好きで、特に海鮮粥は絶品なんです!」
琳華は並んだ鍋に視線を巡らせる。鶏肉とキノコの粥に、ヘルシーな豆腐と青菜の粥、そして海老やホタテがたっぷりと入った海鮮粥まで用意されている。
二人は選んだ粥を少しずつお皿に取り分け、窓際の席に腰を下ろす。流れる風景を眺めながら、温かな海鮮粥を口に運ぶと、海老のぷりっとした食感と、ホタテの濃厚な味わいが舌の上で広がった。
「春燕様が気に入るのも納得の美味しさですね」
「でしょうとも。なにせ堅物の姉さんでさえ気に入った味ですから」
楽しい食事は自然と会話も弾ませてくれる。話題が姉の玉蓮に移ったのを契機に、琳華は疑問を投げかける。
「玉蓮様はどのような人なのですか?」
「とても優秀ですよ。頼りになる薬師として、上層部からも重宝されているそうですから」
薬師とは薬草の選定や調合を専門とする職種であり、医官や患者に対して薬の使用方法に関する助言を行う。
その能力は文字の読み書き以上に貴重で、後宮内にも数えるほどしかいない。琳華と同じく上級女官候補に選ばれるのも納得だった。
「姉さんは努力家で、毎日欠かさずに勉強していました。その豊富な知識で、多くの病を治療してきた私の憧れの人でした……」
「なのに、どうして不仲なのですか?」
「姉さんにとって私が足手まといだからです。心臓病の妹がいては、出世の邪魔になりますから……」
春燕は少しだけ表情を曇らせるも、静かに言葉を続ける。
「だから私は能力を磨いて、姉さんにとっても自慢の妹になりたいんです。皇后様に御恩を返すのと同じくらい、成し遂げたい私の夢なんです」
その力強い言葉には、春燕の決意が込められていた。
その瞬間、声に引き寄せられるように、背後から微かな足音が迫る。一歩ずつ近づいてくる人影は、やがて琳華たちの隣で立ち止まる。
その静かな気配を無視できないと、琳華が顔を向けると、そこに立っていたのは、初対面にもかかわらず、正体が誰なのかすぐに分かる女性だった。
(この人が玉蓮様ですね……)
まるで鏡に映った春燕を見ているかのような感覚に陥るほど、顔の輪郭、瞳の色、そして纏う衣装まですべてが瓜二つだった。
だが、よく観察すると、確かな違いも存在する。春燕とは異なり、玉蓮の表情には強い自尊心が満ち溢れていたからだ。その瞳は鷹のように鋭く、琳華へと向けられている。
一方、琳華の視線は玉蓮本人ではなく、彼女の胸元で輝く双晶のダイヤモンドに釘付けになっていた。
二つのダイヤモンドが一つの結晶として見事に成長した双晶は、非常に珍しく、食堂を照らす星のように光を放っている。
「私よりダイヤが気になるなんて、噂通り、宝石に目がないようね」
「双晶の宝石は数多くありますが、ダイヤモンドの双晶は私も初めて見るほどに珍しいですから」
双晶は結晶面に沿って、二つの宝石が一体化することで形成される偶然の産物である。水晶などでは比較的によく見られる現象だが、ダイヤモンドに起きるのは珍しく、幻の宝石と呼んでも差し支えないほどの品だった。
「世界に一つしかない私の宝物だもの。当然よ」
玉蓮は誇らしさと愛おしさを含んだ声で呟く。その言葉から滲んだ感情は、琳華に強い反発を抱かせた。
「妹の春燕様も大切にしてあげてはいかがですか?」
「嫌よ。だって無能は嫌いだもの」
玉蓮の返事は冷たく鋭い。まるで氷の刃のような言葉には、春燕への強い拒絶が示されていた。
二人の間に緊迫した空気が漂う。どちらも一歩も引く気配はなく、その場の緊張は一層高まっていった。
「蘭芳から話は聞いたわ。妹を後宮から追い出すのを邪魔したそうね」
「大切な職場の後輩ですから。庇うのは当然です」
「……私を敵に回しても構わないの?」
「理不尽な脅しには屈しない主義ですので」
琳華の返答を受け、玉蓮の唇の端が僅かに釣り上がる。その冷笑はまるで獲物を追い詰めた捕食者のようだが、琳華に動じる様子はない。
「勘違いしないでください。私は平和主義者です。むやみに争うつもりはありません……春燕様への嫌がらせを止めて頂けるなら、玉蓮様とも喜んで握手をしましょう」
「それはできない相談だわ」
「なら私たちは敵対関係となるわけですね」
「脅しが通じない以上、そうなるしかないわね……でも、最後にもう一度だけ聞くわ。本当に私を敵に回してもいいの? 私は薬師。毒を扱えるのよ」
玉蓮の口にした『毒』という言葉が、空気を冷たく凍りつかせる。だが琳華の心は揺るがない。
「説得は無駄なようね」
「私が折れることはありません」
「ならアプローチを変えるわ」
玉蓮は琳華の耳元まで口を近づけると、囁くような声で言葉を続ける。
「先程、私の宝石に夢中になっていたわよね。その隙に私が毒を盛ったとしたらどうかしら?」
「――ッ……なるほど、そういう手できますか……」
「ふふ、これだけで嫌がらせになるでしょう?」
本当に毒が入っているかどうかは関係ない。疑いがあるだけで、粥を食べるのを躊躇ってしまう。嫌がらせとしては十分な効果を発揮していた。
薬師を敵に回すことの恐ろしさを思い知れとでも言わんばかりに、玉蓮は口元をいびつに歪める。
だが琳華は脅迫に屈しなかった。冷静な態度のまま、粥に口をつける。旨味と温かさが口内に広がるのを感じながら、不敵に笑った。
「やはり毒は入っていませんでしたね」
「……あなた、死ぬのが怖くないの?」
「この粥に毒は盛られていないと自信がありましたから」
「……どういうこと?」
「簡単な話です。本当に毒を混入させたのなら、犯人だと名乗り出るような真似をするはずがありません。もし私が本当に毒を飲んでしまえば、あなたは罪に問われるのですから」
そのようなリスクを負うほど玉蓮が馬鹿だとは思えないと、琳華は根拠を伝える。すると玉蓮は、一瞬驚いた表情を見せた後に、すぐに感心したような笑みへと変化させる。
「なるほど。噂通りの傑物ね。私と肩を並べるだけはあるわ」
敵ではあるが認めざるを得ない。琳華に対して、そのような評価を下した玉蓮は踵を返す。
「私を敵に回したことを必ず後悔させるから」
最後に脅迫を残して、ゆっくりとその場を離れていく。彼女の足音が遠ざかっていくのを耳にしながら、琳華は気を取り直して、食事を再開するのだった。




