第五章 ~『新人と姉』~
柔らかな朝の光が窓から差し込み、琳華はゆっくりと目を覚ます。しばらく天井を見つめる彼女の口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
(天翔様との外出は楽しかったですね……)
心の中で独り言を呟きながら、暖かい余韻に浸る。久しぶりに宝石店を訪問したが、きちんと手入れされており、店の運営も滞りなく進められていた。これなら琳華がいなくても、客足が遠のくことはないだろう。
(映雪様のように私も頑張りましょう)
自分にそう言い聞かせた琳華は、身支度を整えてから部屋を出る。爽やかな風に包まれながら、軽快な足取りで職場へと向かう。
「おはようございます」
挨拶を送ると、翠玲が手を振って出迎えてくれる。就業時間前にも関わらず、彼女は既に仕事を始めていた。
「琳華、おはよう。今日はあなたに紹介したい人がいるの」
翠玲の視線の先、そこには懸命に新人用マニュアルに目を通す春燕の姿があった。彼女も琳華の存在に気づき、立ち上がって頭を下げた。
「本日からお世話になります、春燕です」
「数日前に挨拶頂いて以来ですね」
二人のやり取りを聞いていた翠玲は、身を乗り出して興味を示す。
「琳華は春燕と知り合いだったの?」
「皇后様の遣いとして、一度お話ししたんです」
「なら紹介は不要ね。うちの課の期待の新人、春燕よ。配属が少し特殊な形だから、期間限定になるけど、仲良くしてあげてね」
「もちろんです」
歓迎を伝えるために微笑む琳華。その表情には僅かな疑問が浮かんでおり、それを察した春燕が補足する。
「本籍は皇后様の侍女のままなんです。琳華さんや翠玲さんから学んで成長して戻ってきなさいと。期限付きの配属になったんです」
人材育成の一環だと知り、特殊な配属の意味を理解する。それと同時に皇后にとって、春燕は育てるほどに価値のある侍女なのだと知る。
「春燕様は大切にされているのですね」
「皇后様は優しいですから。今までもたくさん助けていただきました……だから立派になって、ご恩を返すのが私の夢なんです」
「その想いがあれば、きっと成長できますよ」
励ましを受けた春燕は、曖昧な笑みを浮かべる。そこには僅かに悲しみが含まれていた。
「本来、私の実力では皇后様の侍女は務まりません。ですがあの方は、周囲の反対を押し切ってまで私を採用してくれたんです」
「どうして皇后様はそこまでして……」
「実は私、心臓病を患っていまして……いつ倒れるか分からない状態なんです。そんな私が後宮に居続けられるようにと、役目を与えてくれたんです」
春燕は声を少し震わせながら感謝を口にする。そこから溢れる一途な感情は、自己紹介を終えた後の業務への取り組み方からも伺える。
真剣な面持ちで仕事に打ち込んでいく春燕は、少しでも早く成長しようと、マニュアルに目を通しながら、重要なポイントを丁寧にまとめていく。必要な情報を見逃さずにピックアップしていく動作は、新人とは思えないほどに洗練されていた。
(皇后様が目をかけるだけはありますね)
春燕の仕事に打ち込む様子を微笑ましく感じながら、琳華も自分の業務を進めていく。二人は集中力を切らさず、周囲の音を遮断するかのように、仕事に没頭していた。
切りの良いところまで進んだ頃、春燕は一息つく。琳華もタイミングを見計らい、手を止めて伸びをすると、その様子を見ていた彼女がにこやかに立ち上がる。
「琳華さん、少し休憩しませんか?」
「そうしましょうか」
琳華が提案に同意すると、春燕は木箱を取り出す。そこには鮮やかな月餅が並んでおり、金色に焼き上げられた表面には、美しい菊が刻まれていた。
「実はこれからお世話になる二人に菓子を用意していたんです」
春燕はお菓子を丁寧に皿に並べて配り始める。
「どうぞ、お疲れ様です」
春燕は業務に集中する翠玲の傍に月餅を置くと、続けて琳華の前にも一つ用意する。甘い香りに食欲をそそられながら、琳華は春燕の心遣いに感謝する。
「私のためにありがとうございます」
「琳華さんからも菓子を頂きましたから。私の手作りなので美味しさは保証できませんが、どうぞ召し上がってください」
「ではいただきますね」
口の中にいれると、外側の皮はサクサクとしていながら、甘くて滑らかな餡が舌の上でとろけていく。
「とても上品な味ですね」
手作りとは思えないほどに洗練された味だった。春燕は称賛を受け入れながら、月餅を楽しんで穏やかな時間を過ごしていく。
「琳華さんは男性にモテますよね」
春燕から飛び出た突然の評価に琳華は驚く。
「以前は婚約者がいましたが、今は恋人さえいませんよ」
「でも琳華さんが綺麗な男性と一緒にいるところを見かけましたよ」
誰のことかは聞かなくても分かる。間違いなく天翔のことだろう。
「天翔様とは恋人ではありません。友人……いえ、親友ですね」
「それは失礼しました。てっきり恋人とばかり……」
「頻繁に一緒にいますからね。天翔様のことが気になりますか?」
「宮女の間でよく話題に挙がる人でしたから……実は隠れたファンも多いんですよ」
「天翔様は魅力的ですからね。仕方ありません」
「……琳華さんは嫉妬されたりしないのですね」
「会えないと困りますが、友人を束縛するつもりはありませんから」
多くの女性から慕われたとしても、天翔が大切な友人であることに変わりはないし、彼が他の女性を優先して、琳華を蔑ろにするとも思えない。友情に対しての信頼があるからこそ、妬心を抱くこともなかった。
休憩を終え、再び業務に集中する琳華たち。時間が過ぎ去っていく中で空腹を感じ始めてくる。春燕も疲労が表情に浮かんでいた。
「そろそろ昼食を食べに行きましょうか?」
琳華が翠玲と春燕に声をかける。だが翠玲はお腹が空いていないのか、書類から目を離さずに、ヒラヒラと手だけ振る。
「翠玲様、お仕事はほどほどにしてくださいね」
琳華は優しい口調で、けれどもどこか心配そうに声をかける。気遣いを感じ取った翠玲は一瞬顔を上げると、微笑みを返しながらも手を止めない。琳華はそれ以上何も言わず、春燕と共に部屋を後にした。
昼食への期待が琳華たちの足取りを早めていく。長い廊下は陽光に照らされて、床の石板が柔らかく輝いている。
ふと、視線を遠くへ向けると、廊下から見知った顔が現れる。以前、春燕に絡んでいた気の強そうな顔をした宮女――蘭芳だった。だが今回の彼女は、琳華を恐れる様子がなく、むしろ挑戦的な目を向けていた。
「聞いたわよ、春燕。なんでも文書管理課に移動になったらしいじゃない。心臓病で満足に働けないから、皇后様に捨てられたんじゃないの」
悪意を含んだ誹りを受け、春燕は蛇に睨まれた蛙のように俯いてしまう。
(許せませんね……)
琳華は春燕を庇うように一歩前に出る。
「春燕様は大切な後輩です。傷つけるなら私が相手になりますよ」
琳華の声は静かだったが、その中には強い意思が込められていた。張り詰めていく空気の中で、蘭芳は退こうとしなかった。
「私になにかしようものなら、玉蓮さんが黙ってないから」
虎の威を借る狐のように女官の名前を挙げるが、琳華にとっては知らない人物だった。それが伝わったのか、蘭芳は驚愕を浮かべる。
「まさか、玉蓮さんを知らないの?」
「存じ上げませんね」
「次の上級女官の候補にあがるほどの逸材よ! 有名なあの人のことを知らないなんて……」
「興味がありませんから」
出世欲が強ければ、ライバルの情報を収集していたかもしれない。だが琳華にとっては興味のない話だった。
「ならこれは知っているかしら。春燕は玉蓮さんの妹なの。でも二人は似ても似つかない。優秀な姉に対して、足を引っ張る無能な妹。玉蓮さんからも、身内の恥を後宮から追い出して欲しいと頼まれているの」
絡んでくる動機を知るが、それでも琳華の対応は変わらない。一歩も退くつもりはなかった。
「話はわかりました。ですが、姉妹喧嘩だとしても、春燕様が私の後輩であることに変わりません。これ以上、続けるなら私も戦いますし、そうなれば玉蓮様にも迷惑がかかりますよ」
「話を聞いていたの? これは玉蓮さんからの依頼なのよ」
「でも表立って虐めろとは命じられていませんよね?」
「それは……」
「あなたが過ちを犯さないように説明してあげましょう。もし妹を虐めていると悪評が流れれば、玉蓮様にとってはマイナスです。身内を恥だと思う人が、その結果を望むでしょうか?」
琳華の追求に蘭芳は言葉を詰まらせる。動揺を隠しきれずにいた。
「もしあなたが指示を勘違いしていたら、むしろ足を引っ張ることになりますよ。その上で聞きます。続けますか?」
刺すような問いに、とうとう自信を失ったのか、蘭芳は急に黙り込む。そして逃げるように背を向けた。
「お、覚えてなさいよ!」
捨て台詞を残して、蘭芳は逃げ去っていく。その背中が見えなくなってから、琳華は春燕に向き直る。
「撃退、成功ですね」
「琳華さんのおかげです。とても心強かったです」
春燕の感謝を伝える瞳には、小さな涙が浮かんでいた。琳華は肩に手を置くと、優しげな声で伝える。
「心配しなくても、春燕様には私や翠玲様、それに皇后様もついています。一人ではないのだと覚えていてください」
琳華の言葉に春燕は何度も頷く。絆を深めた二人は、その足で食堂へと向かうのだった。




