第四章 ~『褒美と侍女』~
琳華は自室で静かに目を覚ます。薄明かりが窓から差し込み、部屋全体が柔らかな光に包まれている。
ゆっくりと布団から起き上がり、支度を始めていく。鏡の前に立ち、黒く艶やかな髪を丁寧に梳かして、帯を締め直す。彼女の動作に無駄はなく、朝の静けさの中で手際の良さが際立っていた。
身支度が終えたタイミングで、狙ったかのように扉が控えめに叩かれる。琳華は手を止めて、玄関先に顔を出すと、気の弱そうな小柄な少女が立っていた。
少女は姿勢がやや内向きで、瞳はどこか不安げな影が宿っていた。薄い唇は緊張のせいで乾燥しており、その顔には控えめな態度が見て取れる。
「わ、私は春燕と申します。皇后様の遣いとして参りました」
春燕の声は微かに震えていたが、その中には役目を果たさねばという強い決意も含まれていた。琳華は彼女の緊張をほぐすように、穏やかに問いかける。
「もしかして皇后様の消えた宝石の件ですか?」
「はい、琳華さんのおかげで無事、ダイヤの指輪が見つかりました。やはりカラスが犯人でした」
「そうですか……」
琳華は報告を聞きながら、推理通りの答えを静かに受け止める。そして続くであろう言葉を待つ。
「皇后様は、謎を解決した恩賞を与えるそうです」
「気持ちだけで十分ですよ」
「しかし……」
「本当に大丈夫ですから。出世は間に合ってますので」
皇后の行動は琳華に問題を解決させることそのものが目的だった。なら最終的な着地点として考えられるのは、恩賞としての昇格だ。
皇后が琳華を側近として取り立てるために、カラスに盗まれたと知っていながら、敢えて謎を解かせたのだと考えていた。
だが春燕は小さく笑みを零しながら、首を横に振る。
「恩賞は昇格ではありませんよ。皇后様曰く、上級女官になるにはまだ成果が足りないそうです」
「ではなにを?」
「琳華さんが喜びそうなものを用意したとのことです」
懐から一枚の紙を取り出す。金の縁取りが施され、皇后の印が押されたそれは、琳華が喉から手が出るほどに欲していた外出許可証だった。
「この書類があれば、琳華さんが望んだ時に後宮の外へと出かけられます。煩雑な申請が不要になるのです」
琳華は予想外の恩賞に胸が高鳴る。これで暇さえあれば、いつでも宝石店へ顔を出せるからだ。
「ありがとうございます。凄く嬉しいですと、皇后様にお伝え下さい」
琳華の感謝を受け、春燕は再び深く頭を下げる。彼女の表情には責務を成し遂げたという達成感が滲んでいた。
(さすが皇后様の侍女を務めているだけあり、堂々としていますね)
一見すると臆病に映る態度だが、よく見ると背筋をビシっと伸ばし、意識的に胸を張っている。春燕も皇后の侍女に取り立てられた一人なのだ。その能力は決して低いはずがなかった。
「ご立派ですね」
「わ、私なんて、そんな……」
「皇后様の下で働くのは重圧も大きいでしょうし、誰にでもできることではありませんよ」
粗相をしてはいけないと、気を抜けない仕事のはずだ。その中で彼女がどのように働いてきたのか、興味を抱く。
「春燕様は皇后様の下で働いて長いのですか?」
「丁度、三年ほどになりますね。とても尊敬できる方で、多くのことを学ばせていただきました」
「皇后様は優秀ですからね」
その称賛に、春燕は微笑む。
「琳華さんも負けず劣らず優秀な人だと思いますよ。なにせ私が文字の読み書きを習得できたのは、あなたのおかげですから」
「ということは図書室に通われたのですね?」
「はい。その甲斐もあって宮女から下級女官に昇格しまして……文書管理課で働けることになったんです」
「――ッ……新人とは春燕様のことだったのですね!」
期待の新人が春燕だと知り、琳華は目を大きく見開く。春燕は少し恥ずかしそうに頰を掻いた。
「琳華さんのお役に立てるように、これからも精進しますね……では仕事がありますので、私はこれで失礼します」
深々と礼をして、春燕は去っていく。その背中を眺めながら、琳華はあることを思い出す。
麗珠は茶会をするたびに、琳華に菓子を贈ってくれる。その内のいくつかが余っていたのだ。
小さな布に、胡麻団子を包むと、春燕を追いかける。回廊を進んだ先の庭園で、彼女の姿を発見すると、気の強そうな宮女に絡まれている最中だった。
「生意気なのよ、無能の春燕のくせに!」
「や、止めてください、蘭芳さん」
「反論するの? 偉くなったものねー、女官になったから私より立場が上だとでも言いたいわけ!」
「そんなつもりは……」
金切り声を浴びせられながら、春燕は小さく震えて反論できずにいた。琳華はその場に駆け寄ると、毅然とした声で問いかける。
「何をしているのですか?」
蘭芳は琳華の声に驚くも、冷ややかな目を向ける。
「あんた、誰よ?」
「文書管理課に務める琳華です」
「り、琳華!」
冷静に答えた琳華とは対照的に、蘭芳はその名を聞いて目を見開く。後宮内で高い評判を得ている彼女を恐れたのか、借りてきた猫のように大人しくなる。
「どういう状況か説明してもらえますか?」
琳華の問いに、蘭芳は口元に薄笑いを浮かべる。
「これは……この子が無能だから教育をしていたの。ただの躾けよ」
「それはおかしいですね……春燕様は文字を覚えて、下級女官に昇格しました。あなたは読み書きができるのですか?」
「そ、それは……」
できたなら女官へと昇格しているはずだ。そうなっていないのだから答えは一つ。蘭芳は視線をそらしながら首を横に振る。
「わ、私は文字の読み書きができないけど、春燕より先輩で……」
「つまり、能力は劣っていても年次が上だから認めろと?」
「それは……」
「人を馬鹿にする暇があるなら、あなたも努力すべきです。妬みでは幸せになれませんよ」
琳華の真っ直ぐな忠告に、蘭芳は顔を真赤にして俯く。言い返したいが、中級女官の琳華相手では分が悪いと悟ったのか、そそくさと逃げ出していく。
「琳華さん、ありがとうございます」
「たいしたことはしていませんよ。それよりも大丈夫でしたか?」
「心配しないでください。慣れていますから」
気弱な性格の春燕は今までも絡まれてきたのだろう。不憫に感じながらも、新人を守ってあげなければと使命感を覚える。
「これからも困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね」
「琳華さんは頼りになる先輩ですね」
春燕は深い礼を送る。尊敬と感謝を向けられて悪い気はしないと、琳華は僅かに微笑むのだった。




