第四章 ~『食堂の混雑』~
仕事を終えた琳華は翠玲と共に食堂へ向かう。長い一日を終え、温かい食事で一息つきたいという気持ちが空腹にも表れていた。石畳の道を進む二人は、夕暮れの柔らかい光に照らされながら、何気ない会話に笑みを零す。
「食堂の日替わりメニューが楽しみね」
「昨夜はお肉が多めの回鍋肉でしたから。今晩は魚料理でしょうか」
「食堂の魚は新鮮だから。味は期待できそうね」
他愛のない会話を交わしながら、食堂に近づく二人だが、次第に人で賑わう声が大きくなっていく。辿り着くと、入口には長蛇の列が続いていた。
大食堂は敷地も広ければ人も多い。一方、琳華たちの訪れた東食堂は、席数が少ないものの、いつもなら人の少ない穴場のはずだった。
「東食堂がこれほど混雑しているのは珍しいわね」
翠玲の意見に同意しながら、列の最後尾に並んだ琳華たちは、しばらく様子を見守る。鍋の中の油がパチパチと跳ねる音を鳴らしており、食堂内の活気が伝わってきた。
「特別メニューでもあるのかしら?」
首をかしげながら呟く翠玲の疑問に答えるように、琳華は目当ての品を予想する。
「お客さんに宦官がいませんし、きっと女性人気の高い品でしょうね。加えて、油で揚げる音と甘い香りが漂っていますから。推察するに揚げ菓子でしょうか」
琳華の予想は的中していた。小麦粉を捻り揚げた伝統的な菓子で、甘いシロップと絡めて食べる麻花について言及している声が聞こえてきたのだ。外はカリカリ、中はフワフワの食感を味わえる伝統的なスイーツだった。
「どうしようかしら。このまま並ぶ?」
翠玲の問いに、琳華は列の長さと進む速さを見比べる。
「この調子だと食事にありつけるのは当分先ですし、諦めたほうが利口ですね……ただ他の食堂も混雑していそうですが……」
東食堂を満席で諦めた客が、他の食堂に流れるはずだ。夕食にありつけないかもしれないとの危惧を表情に浮かべると、翠玲が別案を提示する。
「なら食堂以外で食事にしましょうか。私、良いところを知っているの」
長い列に並ぶのを諦めた琳華たちは東食堂から移動する。翠玲に先導されて、一角にポツリと建てられた建物の前を通りかかる。後宮の絢爛さとは対照的な質素な外観をしており、入口には花壇が並んでいた。
「ここは?」
「後宮には子持ちの女官や宮女が多いから。仕事中に子供を預かってくれる場所が必要でしょ。正式な名称は知らないけれど、皆からは託児館と呼ばれているわ」
案内されるままに託児館の中へ足を踏み入れると、温かい木の香りが出迎えてくれる。廊下には子供たちが描いた絵が飾られ、楽しそうな笑い声が響き渡っていた。
「託児館の料理当番は自主的な奉仕者で交互に担当していてね。私も仕事に余裕が出てきたから手伝いを始めたの。食材は余分にあるから、琳華にも夕食を振る舞うわね」
「それなら私にも調理を手伝わせてください」
「いいの?」
「子供たちの料理も含めると、一人では大変な量になるでしょうから。それに調理には自信ありです」
「ふふ、ならお願いするわね」
胸を張る琳華に、翠玲は優しげに微笑む。
廊下の先にある厨房は広々としており、大きな鍋が整然と並んでいる。調理台には新鮮な食材と調味料が事前に用意されていた。
「さて、どんな料理を作ろうかしら」
「鯉がありますから。それを活かした料理にするのはどうでしょうか?」
「子供たちも喜んでくれそうね。賛成よ」
作る料理が決まれば、動くのも早い。琳華たちは鯉の鱗や内蔵を取り除き、油で熱した中華鍋でネギを炒めていく。
「若いのに手慣れているわね」
「実家では料理当番を任される機会が多かったですから」
良くも悪くも、こき使われていたおかげで家事は上達できた。一方、溺愛されて育った妹は料理どころか洗い物さえままならない。困難を成長の糧にしたからこそ、今の琳華があるのだった。
「次、鯉を入れるわね」
「お願いします」
鍋の上で表面に焦げ目がつくまで鯉を炒めると、醤油、砂糖、酒に少量の水を加えて、煮込んでいく。
醤油ベースのタレが鯉に染み込み、ふっくらと柔らかくなるまで待つ。完成を確認し、大皿に盛り付ければ、琳華の得意料理である紅焼魚が完成した。
「さすが琳華。料理の腕まで一流ね」
「翠玲様にもお手伝いいただいたおかげですよ」
琳華たちは追加の品をいくつか仕上げると、広間へと運ぶ。中央に大きなテーブルが並び、料理を楽しみにしている子供たちが椅子に腰掛けていた。
「夕飯はお姉さんたちが作ったのよ」
翠玲が料理を取り分けて、子供たちの前に並べる。食欲を唆る香りに目を輝かせながら、その味を堪能していく。
「私たちも頂きましょうか」
「そうですね」
椅子に腰掛けた琳華は座面の低さに座りづらさを感じながらも、眼の前のご馳走に手を付ける。
鯉の旨味が舌の上で広がり、口の中でほろりと身が崩れていく。見事な味わいに自然と笑みが溢れた。
(この味なら子供たちが夢中になるのも当然ですね)
満足して視線を巡らせると、ほとんどの子供は紅焼魚を楽しんでいたが、ある少女だけが手を付けずに俯いていた。表情は沈んでおり、何かを気にかけている様子だった。
「食欲がないのですか?」
琳華が優しく訊ねると少女は首を横に振る。
「パンダさんが消えちゃったの」
「パンダですか……」
琳華は問うような視線を翠玲に向ける。彼女には心当たりがあったのか、小さく頷く。
「大きなパンダのぬいぐるみのことね。いつもなら広間の隅に置いてあるのに、今日は見当たらないわね」
「少し探してみますね」
「私も協力するわ」
翠玲と共に広間の隅々を探し始めた。テーブルの下、椅子の後ろなどを確認していくが、パンダのぬいぐるみは発見できない。
「簡単に見つかる場所にはなさそうですね……」
「子供用のぬいぐるみだから、誰かに盗まれた可能性も低そうよね」
換金しても二束三文だろう。目立つパンダのぬいぐるみを盗むリスクに対してリターンが見合っていない。盗難は選択肢から外してよいだろう。
「噂の幽霊の悪戯だったりして」
「幽霊ですか……」
「夜になると火の玉のオバケが出るって宮女たちの間で噂になっているの。知らない?」
「初耳です」
現実主義の琳華にとって、怪談は興味の乗らないテーマの一つである。だからこそ耳に届くこともなかったのだろう。
パンダのぬいぐるみが消えた謎も、幽霊の仕業だと断じてしまえば簡単だが、それでは問題が解決しない。必ず超常現象以外の消えた理由が存在するはずだ。
「琳華ならどこにあるか推理できるんじゃない?」
翠玲の言葉に、落ち込んでいた少女の瞳に期待が宿る。この期待を裏切るわけにはいかないと、琳華はパンダの居場所を思考の中で探っていく。
(パンダのぬいぐるみが勝手に消えることはありえません。誰かがどこかへ移動させたはずです)
その誰かを探るヒントを、琳華は既に持っていた。
「もしかして、子供がもう一人いたりしませんか?」
「驚いた……どうして分かったの?」
「この椅子です。翠玲様の椅子と比べると、座面が低く作られています。普段は奉仕者の大人一名と、それ以外はみんな子供たちですから。私が座っている椅子は、不在の子供のものかなと推理しました」
「なるほど……つまりパンダのぬいぐるみは……」
「ここにいない子供が持っている可能性が高いです」
琳華の宣言を受けて、翠玲は心当たりがあるのか部屋の隅に置かれたベッドに目を向ける。
ベッドはしっかりと整えられているように見えたが、布団が微妙に盛り上がっていることに気がつく。
慎重に布団をめくると、ぬいぐるみをしっかりと抱きしめて眠る少年がいた。彼の小さな手はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめており、安らかに眠りについていた。子供たちも周囲に集まり、微笑ましげにその光景を見つめている。
「このまま寝かせておいてあげましょう」
パンダのぬいぐるみを見失って元気を失くしていた少女も静かに頷いて気遣いをみせる。部屋全体に優しい雰囲気が広がっていった。
「さすが、琳華。名推理ね」
尊敬の眼差しを浴びながら、琳華は気恥ずかしさで頬を掻く。パンダのぬいぐるみが消えた事件は無事解決を果たしたのだった。




