プロローグ ~『遡ること数日前』~
時を遡ること数日前。
琳華は宝石店を守り抜くために夜の街を駆け抜けていた。
(借金は暴利で有名な金融屋からです。生半可な手段では店を守り抜けません)
黒い噂をよく聞く街の高利貸しだ。連帯保証人に署名した以上、換金が簡単にできる宝石店を放っておくはずがない。
暴力を振るわれるリスクもある。守り抜くには後ろ盾が必要だった。
(ここですね……)
いつ宝石店に借金取りが押し入ってきてもおかしくはない。事態は一分一秒を争う。宝石鑑定士としての人脈を駆使し、多くの人に相談した結果、琳華の辿り着いた答えは後宮を頼ることだった。
(もし後宮が力になってくれれば百人力ですからね)
もちろん後宮のような権力が、何の理由もなく店を守るのに協力してくれるはずはない。
だが琳華には勝算があった。
一つ目は皇帝の妃たちが暮らす後宮では宝石が必需品であり、何度か後宮の宦官と取引の実績があること。
もう一つは後宮が芸術や経済の発展のために、資金を貸与していることだ。彼らは勢力を高めるために、優秀な人間に資金を惜しまない。琳華がそのお眼鏡にさえ叶えば、助力も十分に期待できた。
(さすがに立派ですね)
後宮の門の前に立った琳華は、その壮大な建物に深く息を吸い込む。
後宮の出入口となる門は、深い朱色に塗られた巨大な扉と金色の装飾が施されており、気品と権威が漂っている。
門の上部には、緻密に彫られた龍と鳳凰のモチーフがあり、後宮の威厳をさらに高めていた。
(いきなり捕縛されたりしないですよね?)
琳華は恐る恐る門に近づいていく。取引はいつも後宮から店に遣いが来る形だったので、彼女から訪問するのは初めてだった。
「そこのお前、何者だ!」
後宮の入口を守る宦官が、近づいてくる琳華を呼び止める。身の丈ほどもある長槍を持つ姿に威圧されながらも、警戒を解くべく口を動かす。
「私は怪しいものではありません。宝石鑑定士の琳華と申します。本日は大切な話があって来ました」
「約束はしているのか?」
「ありません……ただ宝石の仕入れを担当されている方に琳華が来たと伝えてもらえれば私の身元を証明してくれるはずです」
必死に説得するが宦官に動きはない。眉間に皺を寄せて、怪訝な目を向ける。
(このままだと追い返されますね……手を打たないと!)
相手に要求を呑ませるコツは利益を提示することだ。彼の宦官という立場と琳華の扱える手札から自ずと答えは導かれる。
「私の身元を確認してくれたなら、私の店で買物をする時に安くしますよ」
「俺が宝石を欲するとでも?」
「あなたが身に付けなくても贈り物として購入する機会はあるはずですよ」
「……それは俺が宦官だと知りながら言っているのか?」
宦官は去勢されており、基本的には家庭を持たない。故に宝石を恋人へのプレゼントとして贈る習慣もなかった。
だが琳華も馬鹿ではない。事前知識として知った上での提案だった。
「宦官だからこそ提案しているのです。恋人に贈る機会はなくとも、後宮では女官と共に仕事をしているはずですよね。ならお礼や謝罪で宝石を活用する場面もあるのでは?」
「それは……」
ないとは言い切れないはずだ。気持ちが傾き始めた宦官に追撃を加える。
「冷静になりましょう。あなたは私の身元を照会するだけで、宝石を安く買える機会を得られるのですから。悩む余地はないはずですよ」
「う、うむ。そうだな」
説得された宦官は門をくぐって後宮の奥深くへと消えていく。冷たい夜風が吹いているが、希望を得た琳華は寒さを感じない。彼が帰ってくるのを待っていると、宦官が白髪の老人を連れてくる。
老人は知性を感じさせる容姿をしており、顔には人生の知恵を刻んだ皺がある。絹で織られた品位ある服装は、彼が高い立場にある人物だと証明していた。
「お主が琳華だな?」
「はい。宝石鑑定士の琳華です。あなたは……」
今まで宝石の取引で見たことのない顔だ。立場を問うと、老人は想像もしなかった答えを返す。
「儂は総監の地位にある慶命と申す」
「そ、総監ですか!」
琳華が驚くのも無理はなかった。後宮において、宦官たちを統括する最高責任者であり、皇帝への奏上まで許されている立場だ。
慌てて膝をつこうとするが、慶命に止められる。
「堅苦しいのは嫌いでな。同じ目線で話をしよう」
「慶命様がそう仰るなら……」
「それで、儂らにどのような用件だ?」
「実はお願いがあって参りました。私にお金を貸してくれませんか?」
琳華は今までの経緯を説明する。騙されて、父親の形見の宝石店を奪われようとしていることや婚約破棄されて家族も頼れないことを洗いざらいぶちまける。
興味深げに耳を傾けていた慶命は、すべての話を聞き終えると、顎を撫でながら思案する。
「話は分かった。実際、後宮が資金援助することはあるから前例がないわけではない……ただし簡単ではないぞ。秀でた能力がなければ出資は認められん」
「尤もだと思います」
援助を得るには、如何に後宮へ貢献できる力があるかを示す必要があり、筋の通った話だった。
「私に出資いただければ、必ず慶命様の力となります」
「具体的には?」
「後宮は多くの宝石を扱います。その際に宝石の真贋を見抜く鑑定士の力を役立てるはずです」
「ほぉ……」
「私以上の宝石鑑定士はこの街にいません。出資いただいた以上の貢献をしてみせると約束します」
慶命の表情の真剣さが増す。説得が心に響いたのだ。
「悪くない。事実、宝石の真贋を知りたい場面は後宮だと少なくない」
「なら――」
「ただ金貨千枚は大金だ。簡単には貸せないな」
後宮が財に富んだ組織とはいえ、金貨千枚は安くない。だがその回答は想定通りである。琳華は最初から大金を借金するつもりはなかった。
「金貨千枚もいりません。一枚で十分です」
「だがそれでは借金を返せないぞ」
「構いません。その代わり、私の宝石店を担保にして欲しいのです」
「ん? どういうことだ?」
「私は連帯保証にサインしました。そのせいで、私が借りたわけでもない元婚約者の借金返済の義務を共同で背負うはめになりました」
「そうだったな」
「ですが金を貸したのは街の金融屋です。後宮が私の宝石店を担保にしてくれれば、共同の債務者である明軒から回収しようとするはずです」
「なるほど。金貨一枚の借金は店を守るために使うのか」
明軒は詩雨と婚約している。ハイエナのような借金取りは、婚約を理由に実家の織物屋から回収を図るだろう。
人は易きに流れるもの。回収する見込みがないならともかく、後宮と揉めるリスクを背負ってまで宝石店を狙わないはずだ。
「評判通り、お主は優秀な人材のようだな」
「評判ですか?」
「なぜ総監の儂が直接会いに来たのかと、不思議に思わなかったか?」
「それは……」
約束もなしに訪れた琳華に対し、宦官たちを統括する立場の慶命が時間を融通することは本来ならありえない。何かしらの理由があるとは予想していた。
「宝石の買付を担当している部下から、お主の話は聞かせてもらった。恐ろしく優秀で、人当たりも良いと。しかも一人ではなく、複数人からの評価だ。儂が時間を割くだけの価値はあると判断した」
宝石鑑定士として懸命に働いてきたからこそ、琳華はチャンスを得られたのだ。今までの努力が報われたようで、思わず笑みが溢れてしまう。
「儂は優秀な人が好きでな。助けてやりたいと思う」
「本当ですか!」
「ただし無条件とはいかない。儂は『互惠互利』という考え方が好きでな。差出した分の価値を返してもらいたい」
『互惠互利』は相互に恵み、相互に利益をもたらすウィンウィンの関係を意味する。琳華の宝石鑑定の知識を後宮のために役立てるため、慶命は具体的な要求を口にする。
「一年でいい。後宮で働いて欲しい」
「私が後宮でですか?」
まさか皇帝の妃としてという発想には至らない。琳華は自分が異性受けする外見かどうか自覚しているからだ。
「実は人手不足で困っていてな。特に文字の読み書きができる女官は貴重だ。宝石鑑定の知識が必要になった時、傍にいたほうが頼りやすいという理由もある。どうだろう? 後宮で働いてはもらえないだろうか?」
一年は短くない期間だが、助けてもらうなら恩に報いるべきだ。琳華は迷わずに即決する。
「私を後宮で働かせてください」
「よろしい。そしてこの選択はお主にとっても悪くない話だ。後宮は俗世と隔離されているからな。面倒な家族とも一年間は距離を置ける。そして何より給金も悪くない。宝石鑑定士として働いていた時以上の給与を保証しよう」
「それは楽しみですね」
「ではよろしくな」
「はい、よろしくおねがいします」
この決断が琳華の運命を大きく左右することになるのだが、この時の彼女はまだそれを知らない。慶命と握手を交わし、輝かしい未来に胸を踊らせるのだった。