第三章 ~『失われたオパール』~
翌朝、薄明りが窓を通じて部屋を優しく照らし始めると、琳華はその日の業務に向けて静かに起床した。
室内はほんのりと暗く、外の空気は朝露に濡れて新鮮な香りが漂っている。彼女は鏡の前に立ち、慣れた手つきで髪を櫛で丁寧に整えていく。滑らかな髪の束を梳き終えると、服を選んで華麗に着こなしていった。
身支度を整え、部屋の外に出ると、涼しい空気が琳華の頬を優しく撫でる。回廊を歩く足音が清々しい朝の静けさを打ち破っていく。
宝物殿に近づくと、扉の前で待つ桃梨の姿が目に入る。欠伸を漏らしながら琳華の到着を静かに待っていた。彼女の手には水槽が抱えられ、その中では色鮮やかな魚が元気に泳いでいる。
「お待たせしました」
「時間通りだから謝る必要はありませんわ。それよりも早く鍵を開けて頂戴」
「桃梨様は合鍵を持っていないのですか?」
「宝物殿の鍵は厳重に管理するために二つに絞られていますの。その内の一本は慶命様が、そしてもう一本が琳華に渡したものですわ」
だからこそ、琳華が到着するのを待っていたのだと桃梨は続ける。
琳華は宝物殿の重厚な扉に鍵を差し込んで回す。金属音がガチャリと鳴り、ゆっくりと扉は開かれていく。
「桃梨様、本日の私の仕事ですが……」
「掃除は終わりましたのね?」
「はい。ですので今日こそは検品させていただきますね」
「好きにしなさいな」
渋々ながら認めた桃梨は水槽を部屋の隅に置くと、目録をペラペラと捲る。
「私は目録の下から確認していきますわね。あなたは一番上から確認して頂戴」
二人はそれぞれの持ち場に移動し、宝物の検品を始める。
目録の一番上に記された宝物は、オパールのネックレスだ。展示ケースに掛けられた遮光用の黒い布をそっと取り外し、中身を確認する。
本来なら、その下に隠れていた輝くオパールが彼女を迎えるはずだった。しかし眼の前に広がる光景は想定と異なり、ケースからネックレスが姿を消していたのだ。
「ありえません……どうして……」
琳華の声は驚きで震え、その小さな言葉が宝物殿の中に響き渡った。心臓が急速に早鐘を打ち始め、混乱が彼女の脳内を覆い尽くしていく。
「どうかしましたの?」
「オパールが……消えたのです……」
「どういうことですの! 私が検品した段階ではあったはずですわよ!」
桃梨だけではない。琳華もオパールの存在を慶命と一緒に確認している。つまり、昨日の時点では間違いなく存在したのだ。桃梨は眉を釣り上げながら、非難するように口を尖らせる。
「琳華、あなたが盗みましたのね」
「盗んでいません!」
琳華はすぐに力強く反論し、自身の無実を主張する。だが桃梨の瞳から疑いの色は消えない。
「状況証拠的にあなたしか考えられませんわ」
「私の無実を信じてはくれないと?」
「ええ。私は琳華が犯人だと確信していますもの」
その声には断定的な響きが含まれていた。なぜその結論に至ったのかと、桃梨は根拠を説明する。
「まず私は犯人ではありませんわ。なにせ部屋を去る際にボディチェックを受けていますもの」
桃梨の説明に静かに耳を傾けながら、昨晩のことを思い出す。彼女が宝物殿を退出した後、琳華は内側から鍵を掛けた。そのため後から忍び込んだ可能性は除外して良い。
鍵は琳華が預かっていたため、桃梨が盗み出すことは不可能。彼女の無実は証明されていた。
「私が昨晩、検品した段階ではオパールのネックレスはありましたわ。つまり犯行が可能なのは、私が去った後に自由に宝物殿に出入りできる人物のみ」
「鍵を持つ私と慶命様ですね」
「ふふ、でも慶命様がオパールのネックレスを盗むとは思えませんわ。なにせ、総監の地位は給与にも恵まれていますもの。それを捨てるリスクを背負ってまで、窃盗に手を染めるとは思えませんもの」
慶命が犯人ではないという主張には琳華も賛成していた。彼がそのような愚行を犯すとは思えず、動機もないからだ。
「つまり消去法で琳華が犯人。これが私の推理ですわ」
桃梨の言葉には説得力があった。しかし事実は異なる。琳華はオパールのネックレスを盗んだりはしていないからだ。
追い詰められながらも琳華は諦めない。頭の中で状況を整理し、突破口がないかを探る。
(宝物殿の出入り口は一つだけ。なら犯人はどうにかして扉のセキュリティを突破したはずです)
鍵は偽造防止のために特殊な合金で作られており、表面には微細な凹凸が施されている。複製の可能性もゼロではないが、著しく低いだろう。
(私が寝ている間に部屋に侵入して鍵を奪われたとしたらどうでしょうか……)
鍵はベッドの下に隠していたため、夜中に忍び込んで、発見するのは困難だ。ロジックとして密室を破る手段の一つとして成り立ちはするが、現実味がなかった。
(私が盗んだと思われても仕方のない状況ですね……ただ私は自分が無実だと知っていますし、宝物が勝手に消えるはずもありません。何らかのトリックがあるはずです)
鍵を使わなくても、オパールのネックレスを運び出せた密室の謎があるはずなのだ。思考を高速回転させ、その秘密を暴こうとしていると、桃梨が不気味な笑みを浮かべ始めた。
「大人しく罪を認めた方がいいですわよ。どうせ言い逃れできませんもの」
「私は無実ですから……」
「ふふ、この状況で誰が信じてくれると言いますの」
「それは……」
天翔を始めとした周囲の者たちは琳華が犯人でないと信じてくれるかもしれない。だが後宮で働く多くの者は琳華を罪人扱いするだろう。
「逃げたければ逃げても構いませんわよ」
「その手には乗りません。私は真っ向から無実を主張するつもりですから」
後宮に逃げ場はなく、すぐに捕まるのがオチだ。その上、逃亡は暗に罪を認めたことにも繋がる。どれほど不利な状況に陥っても、琳華は正面から戦うしかなかった。
「ふふ、琳華が牢の中で悔し涙を浮かべる姿が目に浮かびますわね」
桃梨は嘲笑を浮かべながら、瞳に冷酷な光を宿す。だが琳華に屈する様子はない。深呼吸をしてから、彼女の挑発に対して堂々と答えた。
「この事件、あなたが犯人ですね」
「は?」
桃梨は言葉を失うも、すぐに冷静さを取り戻す。再び口元には嘲笑が貼り付いた。
「私の無実は証明されていますわ。それとも、私が犯人である証拠があると?」
「ありませんし、今はまだ密室トリックの謎も解けていません。ですが、私に罪を着せようとする意図は説明できます」
振り返ってみれば不自然なことが多かった。それも琳華に冤罪を着せるためだとすれば、筋が通ると気づいたのだ。
「桃梨様は私に鍵を預けて一人で帰られましたよね」
「掃除が終わるまで待つほど暇ではありませんもの」
「ですが、これはおかしいです。なにせ私に悪意があれば、宝物を盗み出せてしまうのですから」
セキュリティの穴を作らないためには、互いにボディチェックをしてから帰宅する必要があったはずだ。
だが桃梨はそうしなかった。冤罪を着せるためには、琳華が犯人と推定される状況を作る必要があったからだ。
「そしてもう一つ、私の前任者も冤罪を主張したと聞いています。この密室トリックを使うのは二度目ではありませんか?」
桃梨は一瞬言葉を失うも、誤魔化すように怒りを顕にする。
「ふん、バカバカしい。どちらも言いがかりですわ」
桃梨は冷たい声で一蹴する。だが琳華は一歩も退かない。
「密室の謎は必ず解いてみせますから」
「やれるものならやってみなさいな」
二人は視線を合わせて、火花を散らす。琳華は不屈の精神を瞳に滲ませ、困難を乗り越える覚悟を決めるのだった。




