第三章 ~『帰宅時の静寂』~
宝物殿の外はほんのりと薄暗く、月明かりが僅かに光を投げかける時間帯になっていた。
琳華は最後の戸締まりを確認し、重厚な扉をゆっくりと閉めると、鍵を回す音が、夜の静けさにはっきりと響き渡った。彼女は一度深呼吸をし、その日の長い仕事から解放された開放感を胸に、宿舎への帰路につく。
道々、夜風が琳華の頬を優しく撫でる。その涼しさが疲れた体を少しずつ癒していった。自室の近くに差し掛かると、人影がぼんやりと見え始める。近づくにつれて、その人影が天翔であると分かった。
「天翔様!」
「やぁ、琳華に会いたくてね。迷惑だったかな?」
「そんなことは……私の方こそ、お待たせしました」
「僕が突然押しかけただけだからね。それに僕もいま来たところだから……」
天翔は穏やかな笑みを浮かべる。声も柔らかく、夜の空気に溶け込んでいるかのようだった。
「宝物殿の管理を任されたと聞いたよ。重責を任されたね」
「本日は掃除で一日を終えましたから。本格的な仕事は明日からですね」
「それは大変だったね」
天翔は琳華を労うと、続くようにホッと息を吐く。
「でも君が無事なようで安心したよ」
「天翔様は大袈裟ですね。私の仕事は宝物品の管理ですよ」
「知っているさ。でも不穏な話が僕の耳に届いていたからね」
天翔の声には琳華の身を案じるような響きが含まれていた。
「琳華の前任者が横領で辞職した話は知っているよね?」
「慶命様から聞いております」
「実はね、その内の一人は容疑を否認しているんだ」
「え……」
知らされていなかった事実を前にして琳華は言葉を失う。
「驚くのも無理はない。慶命でさえ先ほど知ったばかりの情報だ」
「誰かが隠蔽していたのですか?」
後宮内の情報に精通している慶命が把握していないなら、そこに何らかの力が及んでいるはずだ。天翔は静かに頷く。
「四大女官の一人、桂華が口外しないようにと関係者に命じていたそうだ」
「なぜ横領事件に桂華様が口出しを?」
「理由は分からない。ただ気になるのが、容疑を否認している前任者は、桃梨に冤罪を着せられたと主張している」
「なるほど。天翔様が心配してくれた理由が分かりました」
琳華にも同じように濡れ衣を着せられないかと心配してくれたのだ。彼の厚意に感謝を伝えると、天翔は小さく首を振る。
「ただ捕まえた警吏によると、本人の主張とは違い、状況証拠から満場一致で有罪になったそうだ。だから冤罪を着せられたという話もただの言い逃れの可能性が高い」
天翔の心配は杞憂で終わるかもしれないと、曖昧な笑みを浮かべるが、琳華の真剣な眼差しに変化はなかった。
「二人の内、一人は冤罪を主張しているのですよね。もう一人はなんと?」
「行方不明になってね。捕まる前に逃げたのではと噂されている」
「では、どうして横領があったと?」
「置き手紙が残っていたそうだ。罪を告白する内容から横領犯だと断定された……でも一部では桂華の派閥に消されたのではと、疑う声も挙がっている」
「そのようなことが……」
「起こりえるのが後宮という組織だからね……それに行方不明になった前任者は、元々、桂華の派閥に属していた。知られたらまずい情報もたくさん知っていたはずだし、罪を着せるだけでは口を封じられないと判断して、行方不明として始末されたとしても不思議ではないよ」
事実だとすれば恐ろしい話だと、琳華の背中に冷たい汗が流れる。そんな彼女を安心させるように、天翔は優しく微笑む。
「ただこれも証拠のない話さ。この話も行方不明になる前日に、桃梨と口論になっている姿を目撃されて生まれたに過ぎないからね」
娯楽の少ない後宮では憶測による噂話が付き物だ。話半分くらいに考えておいたほう良いと天翔が続けると、琳華は静かに頷く。
「あの宝物殿にはまだまだ闇がありそうですね」
「もし困ったことが起きればいつでも僕を頼って欲しい。微力ながら君の力になるよ」
「ふふ、天翔様が味方なら百人力ですね」
琳華の言葉には深い感謝と尊敬が込められていた。天翔はその言葉に少し照れながらも、彼女と視線を交わらせる。
「あの、琳華の次の休暇はいつになるだろうか?」
期待とわずかな不安が混じった問いに、琳華は自分のスケジュールを思い浮かべる。
「少し先になりそうですね」
「そうか……」
「ですが天翔様のお誘いですから。なるべく早く予定を空けられるように調整しますね」
「ありがとう!」
琳華の配慮に天翔の表情は明るくなる。彼のそんな反応が嬉しくて、琳華の口元からも笑みが溢れた。
「なら、その日に一緒に外出するのはどうだろうか?」
「天翔様の迷惑でなければ喜んで」
「迷惑なものか。琳華と出かけられる日が待ち遠しいよ」
完璧なエスコートをするから楽しみにしていて欲しいと、天翔は続ける。彼の目は熱意に燃え、外出日に対する期待が表情に表れていた。
「私のために気負わないでくださいね」
琳華が遠慮がちに呟くと、天翔は優しく微笑んで彼女の手を軽く握る。彼の安心させるような暖かさで満ちた笑顔に、眩しさを感じてしまう。
「僕のことは気にしなくて良い。君を楽しませてみせると約束するよ」
天翔の言葉には自信と期待が込められており、外出日を特別なものにするという意志が示されていた。
「では楽しみにしていますね」
琳華も柔らかい微笑みを返すと、二人の間に流れる空気はさらに温かくなる。互いの信頼がさらに深まっていくのだった。




