プロローグ ~『想定外の事態』~
《明軒視点》
琳華との婚約を破棄してから数日が経過した。明軒の日常に変化はなく、強いてあげるとすれば、この数日で彼女が姿を消したことくらいだ。
「琳華がまさか行方不明になるとはな……」
織物を店頭に並べながら、梅蘭と詩雨にぼんやりと呟く。店内に客はいないため、彼女らは手を止めて、その話に耳を傾ける。
「お姉様ったらどこに消えたのかしら?」
「俺たちの仕打ちに耐えかねて、街を離れたのかもな」
「傷心を癒やしたら、また元気な姿で帰ってきて欲しいですわね」
「今度はもう少し優しくしてやらないとな」
言葉とは裏腹に明軒の声に後悔の色はない。それは詩雨も同じで「あんまり虐めては可哀想だ」と、嘲笑を漏らした。
「琳華が帰ってきたら桃饅頭をご馳走してあげないとね。きっと喜ぶわ」
「お姉様の好物ですものね」
「美味しいものを食べれば嫌なことなんて吹き飛ぶんだから。素直で従順なお姉ちゃんなら、きっと分かってくれるわ」
梅蘭と詩雨は姉を称えるが、その声には感謝や尊敬の念はなく、ただの形式的な言葉に過ぎない。
それを見抜いた明軒は口元に笑みを貼り付ける。
姉を馬鹿にされても本気で怒らないのは、彼女らが琳華を便利な道具として扱っているからだ。
本当に家族のことを思うなら、こんな反応にはならない。無自覚で寄生している家族が滑稽で仕方ないと、口元が緩むのを抑えられなかった。
「俺は本当に幸せものだな」
「どうしましたの、急に」
「いや、しみじみと感じてな」
強く命じれば娘を罠に嵌める母親に、姉の婚約者と不義理を果たす妹。彼女らの根底にあるのは強者への服従だ。
織物屋を継ぐために、ノウハウを習得してきた明軒は実質的な経営者となっていた。彼がいなければ仕事が回らない。欠かせない存在となったからこそ、どのような不義理も梅蘭は店のためだと受け入れる。
詩雨もそうだ。次期店主としての力を持つからこそ、明軒を誘惑したのだ。
「美人な嫁に、大金まで手に入る。俺は三千世界で一番の幸せものだ」
明軒は独り言のように呟く。その言葉に反応した梅蘭が優しげに微笑む。
「琳華も明軒のような素晴らしい人と出会えるといいわね」
明軒は思わず吹き出しそうになる。その琳華から婚約者を奪っておきながら、娘の幸せを願う矛盾がツボに入ったのだ。
「談笑中に失礼するぜ」
団欒を打ち壊すように、織物屋の扉を乱暴に開き、男が足を踏み入れる。広い肩幅にガッシリとした肉体、ヘビのような鋭い目付きは忘れたくても忘れられない。
彼は借金取りだ。身に纏う雰囲気だけで、店の静かな日常を一変させる。梅蘭と詩雨が固唾を飲んで見守る中、明軒が対応する。
「本日はどのような御用で?」
明軒が腰を低くしながら訊ねると、借金取りの男は眉間に皺を寄せる。
「俺の仕事はなんだ?」
「金貸しですよね?」
「そうだ。なら用件は一つだろ。貸した金を回収しに来たんだ」
「ちょっと待ってください!」
借金取りには琳華が連帯保証人であり、彼女が街の宝石店を所有していると伝えていた。
「あの宝石店を売れば、俺の借金を返してお釣りが来るはずです」
あれだけの一等地ならすぐに現金化できるはずだ。だが男は期待に反して首を横に振る。
「借金はな、借りたお前から回収させてもらう」
「な、なぜですか!」
人はより楽な方向に流れるものだ。明軒から無理矢理に金を回収するより、換金の容易な宝石店の処分を選ぶはずだ。
その疑問に借金取りは答えない。それどころか拳を振り上げ、明軒の顔に叩きつけた。鼻を潰され、血が溢れ出した彼は、涙目で抗議の視線を向ける。
「……どうして殴るんですか?」
「お前が俺を騙そうとしたからだ」
「……騙す?」
「あの宝石店を差し押さえられるわけがないだろ。なにせあの物件は後宮の担保になっているからな」
「はぁ?」
後宮とは皇帝の妃や側室が住まい、数多くの宦官が働く内廷である。次代の皇帝を輩出する組織だからこそ、その政治力は大きく、街の高利貸しなど吹けば吹き飛ぶような権力を有している。
「後宮が絡んでいるとはいったいどういうことですか!」
「知らん。だが結論は只一つ。多少面倒だが、宝石店を処分できない以上、お前から回収するしかないということだ」
借金取りが鋭く言い放つ。その言葉は彼の胸を圧迫した。
事態の不穏さを梅蘭も感じ取り、焦燥感を隠せずに声を上げる。
「つまり借金は明軒が返さないといけないの?」
「借りた奴が返すことになった。ただそれだけだがな」
「そんなの困るわ。これから子供が生まれて、お金もかかるし、結婚式の費用もたくさん必要なのよ。琳華の店を売ったお金がないと、盛大に祝えないわ」
「知ったことか。俺たちはしっかりと金を回収する。それだけだ」
「そう。でも残念ね。明軒から回収は無理よ」
明軒は一文無しの遊び人だ。無い袖は振れないため回収は無理だと伝えると、借金取りの男は笑う。
「聞いたぜ。明軒はあんたの娘との間に子供を作ったってな」
「それがどうしたっていうんだい?」
「もう明軒はあんたの家族の一員だ。身内の借金返済には当然協力してもらう」
「協力?」
「この織物屋をもらっていく。街から外れた位置にあるから、物件の買い手を見つけるのには苦労するだろうが、後宮と揉めるリスクを背負うよりマシだ」
「この店は代々続く老舗なのよ。売れるわけないじゃない!」
「俺は金を回収するためなら何でもやる。無理矢理にでも売らせるだけだ」
借金取りの男は絶対に退かないと、目の鋭さを増す。強面を向けられ、梅蘭は耐えられずに黙って俯く。
二人の様子を傍観していた詩雨もさすがに不味い状況だと気づいたのか、焦燥で口を開く。
「待ってくださいまし! もし店がなくなったら私の生活はどうなりますの?」
「街に出れば仕事はいくらでもある。働け」
何なら店を紹介してやると、借金取りの男は続ける。詩雨は蝶よ花よと育てられてきた。働いたことのない彼女が今更、額に汗を流すような生活に耐えられるはずがない。肩を落として落胆する彼女を庇うように、明軒が足を前へ踏み出す。
「この店がなくなるのは俺も困る!」
「それは金を返せないお前が悪い。ひとまずは金利代わりに商品を貰っていく。次までにしっかり金を用意しておけよ」
明軒の懇願は、借金取りの心を動かすには至らなかった。容赦なく、店内の布地を回収し始める。
金利分の商品を肩に乗せると、借金取りは店を去っていく。その背中を見つめながら、足から崩れ落ちた明軒は叫ぶ。
「いったい、何をしたんだ、琳華!」
罠に嵌めたはずの琳華が、明軒の理解の及ばぬ方法で宝石店を守り抜いたのだ。詩雨と梅蘭の嗚咽と共に、明軒の絶望の叫びが空しく店内に反響するのだった。