第三章 ~『図書への嫌がらせ』~
翠玲の降格の危機を乗り越えてからも図書室の運営は順調だった。後宮の文化的中心地としての役割を確立し、後宮内外から書物が次々と寄贈されるようになった。
古典文学、歴史、哲学、医学、天文学など多岐にわたるジャンルの書物が、精巧な装丁で統一され、本棚に整然と収められている。
翠玲の朗読も日に日に上達しており、物語に命を吹き込んでいるようだと、聴衆からは高い評価を受けていた。
順分満帆な運営がこれからも続く。そう期待していた琳華たちの前に、新たな課題が立ち塞がっていた。
「人気の書物が全部借りられていますね……」
蔵書の中でも輪読会で使われるような娯楽性の高い書物を中心に、貸出中の状態が続いていた。
本来なら嬉しい悲鳴なのだろうが、この状態が長らく続いており、借りたい人が借りられない状況に琳華たちは危機感を抱いていた。
「もしかしたら嫌がらせかもしれませんね」
琳華は貸出履歴を見つめながら、静かに呟く。
「どうしてそう思うの?」
「書物を借りているのは朗読会に参加していない人たちばかりです。しかもその中には文字の読み書きができない宮女も含まれています。ですが、辞書をセットで借りるのを拒否しているようなのです」
読めない書物を借りていく理由。それはただ一つ。
「彼女たちの目的が書物を借りることそのものだとしたら……その行動に意味を見出せてしまうのです」
「でも誰がそんなことを?」
「それは……」
琳華はこの状況を作り出している首謀者に心当たりがあった。だが証拠がない。どうするべきかと頭を悩ませていると、図書室の扉が開く。
「どうやら困っているようですわね」
桃梨が姿を現したことで、図書室の空気は一変する。緊張感に包まれる中、琳華は鋭い視線を送る。
「あなたが嫌がらせの首謀者ですね?」
「さぁ、何のことかしら」
「惚けるつもりですか?」
「認めてあげる理由もないもの」
桃梨は四大女官の一人である桂華の派閥に属している。大きな力を持つ組織に所属しているため、協力関係にある人員も多い。否定しない素振りを見ても、彼女が首謀者で間違いないと確信を抱く。
「どうすれば図書室に対する嫌がらせを止めて頂けますか?」
琳華の声は冷静だったが、瞳には隠せないほどの不快感が浮かんでいた。桃梨は真っ向から視線を受け入れながらも鼻で笑う。
「あなたが桂華様のもとで働くと決めたなら、嫌がらせが止まる予感がしますわ」
桃梨の声には侮蔑が滲んでいる。足元を見るような提案に、琳華は内心で憤りを感じながらも、表面上は落ち着いて対応する。
「平和的な解決は難しいようですね……」
「あなたも頑固ですわね。ですがどれほど頑張っても、最終的には大きな流れに飲み込まれるだけ。音を上げる日を楽しみにしていますわ」
桃梨は皮肉を残して、図書室を後にする。その去っていく背中からは自信と傲慢さが感じとれた。
「琳華、大丈夫?」
「不快な思いはしましたがただそれだけです。それに収穫もありました」
「収穫?」
「桃梨様が首謀者だと確信を得られました。まずは一歩前進ですね」
琳華のポジティブな反応に、翠玲は笑みを零す。クヨクヨしていても仕方ないと、彼女も現状の打開策を思案する。
「慶命様経由で苦情を出すのはどうかしら?」
四大女官の桂華が動いているとなれば、並の権力者では太刀打ちできない。だが総監である慶命からの異議申し立てなら効果はあるかもしれない。
そう翠玲は提案するが、琳華は首を横に振った。
「慶命様でも難しいでしょうね。なにせ『ただ借りているだけだ』と言い逃れができてしまいますから」
ルール違反をしているわけではないため、慶命も簡単には動けない。他に妙案がないかと思案していると、翠玲はハッとしたような表情を浮かべる。
「貸出期間を短くするのはどう? 確か、二週間に設定していたわよね」
「いえ、今は一週間にしています」
「既に対策済みだったのね……」
「ですが、あまり効果はありませんでした。桃梨様には同じ派閥の仲間たちがいますから。それぞれで借りる本を変えて、結局、人気の書物を独占されてしまったのです……」
さらに貸出期間が短いことで、本来の利用者が使いづらくなる欠点もあった。良案ではないと認め、翠玲は別の方法がないか思考を巡らせる。
「う~ん、他に思いつく手は……」
翠玲は唸り声をあげながら、期待するように琳華に目を向ける。同じように思案に耽っていた彼女は、何かを思いついたのか口元に自信を滲ませた。
「その表情、アイデアが浮かんだようね?」
「ええ、この方法なら桃梨様の嫌がらせに対抗できます」
琳華は思いついた策を語る。その内容に翠玲の表情は晴れやかになっていく。
「では行動開始です」
策を実行に移すために、琳華たちは数日ほどかけて準備を進めていく。新サービス開始の告知をして、本好きの間で情報を広げていく。
そして新サービス開始当日、図書室には大勢の人が押し寄せる結果となった。集まった聴衆の中には天翔の姿も含まれていた。
「天翔様も来てくれたのですね」
「琳華が新しい挑戦をすると聞いたからね。それで、どのようなサービスになるのかな?」
天翔の問いは集まった聴衆たちの共通の疑問だった。期待して答えを待つ彼らに、琳華は答えを提示する。
「私たちが提案するサービスは書物の転写です。紙と筆を用意しますので、図書室の利用者の皆様に写本の作成を手伝っていただきたいのです」
これは文字を覚えるのにも役に立つと、琳華はメリットを付け加える。だが反応はまばらだ。目を輝かせる者もいれば、興味を示さない者もいる。
(もう一押しですね)
図書室のサービス発表に詰めかけてくれる人たちだ。きっと条件さえ整えば、転写にも前向きになってくれるに違いないと、琳華は提案を続ける。
「この写本作成にご協力いただいた方々には、感謝の意を込めて、他の利用者よりも優先的に書物を貸し出します。そのための書物がこちらです」
琳華の目の前には、書物の山が積み上げられている。これは貸出を一時的に中断し、回収した人気作たちで、そのすべてが琳華の手元にある状態だ。
聴衆の中には返却を待ち望んでいた者も多い。憧れの本を前にして固唾を飲む。
「さらに転写には時間もかかりますから。貸出期間も一週間から一ヶ月に延長しましょう。如何でしょうか?」
琳華が問いかけると、聴衆から歓声が上がる。両手を挙げて、我先にと応募が殺到した。ただ天翔は懸念があるのか、眉根を僅かに寄せている。
「天翔様、どうかされましたか?」
「もし悪意ある人たちが一斉に申し込んできたらどうするんだい?」
また同じように人気作を借りられない状態になるかもしれない。その危惧は想定内だと、琳華は首を横に振る。
「きっとそうはなりませんよ。書物を借りるだけとは異なり、写本作成には大きな労力が必要となります。興味のある書物ならともかく、嫌がらせのためだけにその苦労を背負える人はそういないでしょうから」
「転写作業そのものが嫌がらせに対する抑止になっているんだね」
写本制作の苦労を買ってでも書物を読みたいと。そう願えるほどに意欲のある人から優先的に書物を貸し出せるようになる。さらに琳華にはもう一つの狙いもあった。
「転写の利点はそれだけではありません。完成すれば、写本を別の人に貸し出すこともできます。より多くの人が手に取れるようになるのです」
「まさに一石二鳥だね。さすがだよ、琳華。素晴らしいサービスだ」
天翔を含めた聴衆は賞賛の拍手を送る。だが一人だけ、敵意を含んだ視線を送る者がいた。聴衆の影に潜んでいた桃梨が人混みを掻き分けて、琳華と対峙する。
「まさか、こんな手を使ってくるとは思いませんでしたわ……噂以上の有能さに、少し驚いていますの……」
「これに懲りて、私の引き抜きを諦めてくれませんか?」
「それはできない相談ですわね」
桃梨の強気な振る舞いは変わらない。視線を交差させて、火花を散らす。
「私に敵対したこと、後悔させてあげますわ」
桃梨は捨て台詞を残して、図書室を去っていく。その後ろ姿からは、脅威となる決意がひしひしと感じられたのだった。




